第76話 もはや収拾不可能

「ぐぬああ~!! アタシのサガリス~」


 イェヴァンは犬かきのように四つん這いのまま地面の上で激しく四肢を動かしているが全く進まない。しかし行動の制御はできないが一度ついた慣性力を殺すことができずに洞窟内の人間たちは全く意図せずにつるつると滑っていき、やがて壁や人にぶつかってまた跳ね返る。


 人間カーリングはまだまだ終わりそうにない。


 一方グリムナは、というと、後から来た十人の造反組の男たちが手の届く範囲を通過し次第、それを捕まえて唇を奪う。先ほどのイェヴァンの大暴れで負った怪我を治すとともに戦闘不能にする。


「あんた~ッ!! また浮気を~ッ!!」


 キスをするたびにイェヴァンはますます怒りを募らせる。もはや説得できるような状態ではなさそうだ。最初からそうだったような気もするが。


「これで大体大怪我をしてる奴は治療できたな……バッソー殿!!」


 そう言ってグリムナはバッソーの方に手を伸ばす。後ろの壁をけって反動をつけて、ようやくバッソーと合流できた。バッソーは事態の進展を眺めながらひたすらその場でじっとしているだけだったが、グリムナと接触したことで落ち着きが出たのか、グリムナの事を気遣うような言葉を吐いた。


「大丈夫なのか、グリムナ!」


「まだ魔力はあります。ここを脱出しましょう!」


「いや、そうじゃなくて、いきなり片っ端から騎士団の連中にキスをし始めて、頭は大丈夫なのか!? 状況分かってる?」


「あんたに言われたくないわ!」


 確かに非常時にケツを叩け、などと言うじじいに言われたくないが、確かに彼の行動は事情を知らない人から見れば正気の沙汰ではない。しかしグリムナは詳しいことは後で話すとバッソーに言って、何とかもがいて近くの壁まで二人で移動する。このまま脱出する気である。よくよく考えれば彼にとってはイェヴァンは必ず倒さねばならない相手ではないし、別に魔剣サガリスを手に入れたいわけでもない。

 バッソーを確保した今、もうここにいる理由はないのだ。


 グリムナは洞窟の出口に狙いを定め、壁を思いっきり蹴って滑ってゆく。イェヴァンはそれを目で追っていたが、まだ彼を追いかけることはできない。とにもかくにも魔剣の確保、それが先決なのだ。


 イェヴァンは不規則に洞窟内を跳ね返り続ける騎士の一人を掴むと、転がっている魔剣の反対方向に思いっきりぶん投げた。騎士は「うわあっ」と情けない声を出して吹っ飛んでいったが、イェヴァンは反動で魔剣の方に移動ができた。怒り心頭ではあってもなかなかに頭の使える人物である。


「やっと魔剣が戻ってきた……クソ、滑るな」


 イェヴァンは魔剣を細く長く、物干し竿のように伸ばして洞窟内の壁面をつつき、出口へ移動する。


 一方グリムナとバッソーは慣性力のまま洞窟の外に勢いよく飛び出していた。


「ぬおお~、止まらんっ止まらんぞ!! 外に出ても止まらん!!」


 バッソーが叫びながら態勢を入れ替え、グリムナを前にしてエアボブスレー状態になって洞窟の外を滑り続ける。スライムローションは洞窟の外にまで漏れ出ていたし、二人の体に付着しているローションの残りだけでも滑りが止まらなかったのだ。


 外はやはりイェヴァン派と造反組の間で激しい戦闘が行われており、争いの真っ最中であった。さすがに自分たちの本拠地のためか火は放ってはいなかったものの、激しく剣で切り合っており、すでに倒れて動かなくなっている者もいる。


 滑って移動する二人にも向かってくる者がおり、切りかかろうと剣を振り下ろしてきた。二人はこの造反劇には何の関係もないのだが、こいつらの目に入った異物はとりあえず殺す、という思考は何とかならないのだろうか。グリムナがとっさに右手を上げて剣を受けようとする。普通に考えれば簡易的な籠手を着けただけの腕で剣を受けるなど無謀であり、他に何も得物を持っていないので思わずそうしただけだったのだが、なんと剣はローションで滑って、そのままぬるん、とグリムナの籠手の上を滑って後方へ逸れていった。


「グリムナ、こっちよ!!」


 建物の陰から聞き覚えのある声が聞こえた。グリムナが視線をやると、そこにいたのはフィーとヒッテであった。ローションのきれてきたグリムナとバッソーは何とか立ち上がり、慎重に足元に気を付けながら建物の陰に隠れて彼女たちと合流した。さすがに騎士団の連中も戦闘の真っ最中で、そこまで彼らに気を払ってはいなかったようである。


「一体何があったの? 外で待ってたらいきなり戦闘が始まったから予定を早めて侵入したんだけど……この内ゲバも、洞窟からあふれ出てきた『何か』も、グリムナの仕業なの?」


 フィーがそう聞いてくるが、内ゲバの事はグリムナには正直言って何も分からない。ただ、推測はできる。アルトゥームの言葉から考えると、もともとイェヴァンの過激なやり方についていけないと考えていた者は騎士団の中には相当数いたのだろう。そこに来て今回の作戦である。本隊から少数が離れてイェヴァンがその指揮を執る。これはチャンスである。上手くやって魔剣を奪えれば下剋上此れ成ったり、と思っていたのだろう。

 実際には魔剣サガリスの扱いが非常に難しく、アルトゥーム如きに扱えるものではなかったのだが。しかしその洞窟内部でのやり取りを知らない、外で暴れている連中はイェヴァン派と造反組で戦闘を続けているのだ。このままではおそらく、いずれイェヴァンが洞窟から出てくると彼女に皆殺しにされてしまうのではないだろうか。


 しかし、洞窟からあふれてきたローションの事については答えられる。


「フィー、お前俺の荷物に例のスライムローションの瓶を忍び込ませてやがったな! あれが戦闘中に割れて、水を吸って全部ローションに戻っちゃったんだよ!!」


「え? あれ全部!?」


 フィーが驚愕の声を出して洞窟の方を見る。洞窟からはまだローションがあふれ出てくる。気のせいか、先ほどよりもローションの量が増えているような気すらしてくる。


「ちょ、ちょっと! あれ一瓶で100匹分のスライムから作ってるのよ!! あれ全部ローションに戻したっての!? あれ市場価格なら一瓶三万Gはするのよ! どうしてくれんのよ、作るのすごく大変だったんだから!!」


 どうしてくれるも何も、知ったことか、というのがグリムなの正直な気持ちである。勝手に荷物に忍び込ませて、それをイェヴァンが割った。グリムナにはなにも落ち度がない。とはいえ、すでに収拾がつかなくなってきているのも確かだ。グリムナが辺りを見回すと、ローションはだいぶ洞窟の外にまで溢れ出してきている。もしかすると割った二つのかめに入っていた以外の水分もだいぶ吸っているのかもしれない。スライム200匹分のローションが、である。

 溢れ出すローションにイェヴァン派と造反組の内ゲバ、収拾のつかないことだらけである。もう少しすれば憤怒のイェヴァンも洞窟から出てくるであろう。グリムナとバッソーは絶望した。


「あれ? グリムナ首筋に虫刺されみたいのがいっぱいあるけど、どうしたの? 洞窟の中そんなに虫だらけなの?」


 フィーの言葉に思わずウッ、と呻いてグリムナが首を隠す。イェヴァンにしこたまつけられたキスマークである。


「ご主人様……? 洞窟の中で何やって遊んでたんですか……」


 ヒッテの睨むような視線が刺さる。何故か彼女はこれが何かわかるようだ。フィーは分からなかったのに。


「洞窟の中で随分楽しんでたみたいですね……キスマークなんてつけて……もう完全にホモに目覚めちゃいましたか?」


 前髪で目が隠れて表情を読み取りづらいが、ヒッテ殿はお怒りである。


「え? キスマークって、もっと、こう……唇の形してるんじゃないの? 口紅とかの跡で……?」

「う、うるさい! 今そんなこと言ってる事態じゃないだろうが!」


 そう言ってグリムナは急いで回復魔法で首筋の内出血を治療する。しかしヒッテは「はぁ」と一つため息をついて、少し前に歩み出てきてグリムナに話しかけてきた。


「どうですか? ご主人様? これで気は済みましたか? もういいでしょう。バッソーさんも助け出したし、後のことは放っておいて逃げましょう」


「ヒッテ……しかし、まだ村人が……それに、この事態も収拾をつけないと……」


 グリムナはまだ納得いかない。まだ助けを待つ村人たちがどこかに捕らえられているはずである。それに、大混乱の騎士団とイェヴァンも放ってはおけない。まだ、『最善』を尽くしていないのだ。ヒッテは怒りを表情に滲ませながら反論する。


「まだ分からないんですか! すべての人間に助ける価値があるとでも思ってるんですか!? 騎士団の人達はどうです!? あの狂犬集団が助ける価値がありますか? 人の価値はみんな同じじゃないんですよ。ご主人様は、目の前で人が死ぬのが嫌で我儘言ってるだけなんですよ!!」


 ヒッテの言葉が胸に刺さる。しかし、たとえそうだとしても、助けられる人間を見捨てて逃げ出すなどできないのだ。


「こんな世界に救う価値は……」

「ちょ、ちょっと!アレ、何が起こってるの!?」


 答えが出ないまま、ヒッテの言葉を遮って、フィーが恐怖の声を上げた。

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