第75話 ぬるぬるローションバトル

「この浮気者がぁ!!」


 怒号とともにイェヴァンが剣を大降りに振る。つむじ風のような剣圧と力に思わずグリムナは剣の間合い以上に大きく跳んで逃げる。魔剣サガリスは洞窟内の乱雑に積まれていた荷物や物資を破壊しながら大きく旋回した。その中には牢にぶち込まれた際に取り上げられたグリムナの荷物も含まれている。


「え……ええ……?」


 グリムナの顔には困惑の表情が色濃く出ている。恐怖よりも、まず困惑が先であった。


 『浮気者』……なぜそんな単語が急に出てきたのだろうか。いや、想像はつく。そこは大体想像はつくのだ。おそらく目の前でアルトゥーム達にキスをしたことを言っているのだろう。しかしなぜ彼女がそんな感情を持つに至ったのかが分からないのだ。


 確かにアルトゥーム達が押し入る前、グリムナとイェヴァンは事に至る直前ではあった。いや実際舌を入れてキスをするところまではいったのだ。だがグリムナの『術』があるからそこで終わった。


 ……もしかして、その後で他の者にキスをしたから浮気、ということなのだろうか。グリムナは頭を抱えてしまう。なぜ、こう極端な脳みそをしているのか。というか、自分勝手にもほどがある。そもそもグリムナに迫ってきたのはイェヴァンが無理やり自分から来たことだろうに、それに対してキスを返したからと言っていきなり彼女づらである。


 ちょっとキスしたからって彼女気取りしないでよね。私そんな安い男じゃないわ。そう心の中でグリムナは呟いたが、さすがに口に出すのはやめた。そんなことをすればますます彼女の逆鱗に触れて制御不能になることが分かっているからだ。いやもはや制御不能なのかもしれない。第二波が来た。


「おおおぉぉ!!」


 すさまじい怒号とともにイェヴァンが剣を振るう。その迫力にグリムナはまたも大きめに間合いを取って逃げたが、今度は先ほどと違うところがあった。剣先が伸びてきたのだ。1メートル弱余裕をもって躱したつもりであったが刃の先がグリムナの腹に触れて鮮血をにじませる。スイングの最中にサガリスを変形させて伸ばしたのだろう。近接戦闘においてはなかなか油断ならない魔剣の能力である。


 そのままイェヴァンは2回、3回と無茶苦茶に剣を振り回してくる。最初にグリムナを突き刺したときのような鋭さはない。冷静さを失っているせいなのかもしれないが、その分力任せに迫りくる剣圧は恐ろしい勢いである。グリムナはなんとか紙一重で躱していくが、後から来た造反組の男たちが攻撃に巻き込まれて吹き飛んでいく。台風のような女である。


 イェヴァンは再度立ち止まって自らの掌を見た。ふるふると震えているように見える。


「なんなんだ、この力……闘争本能は萎えたように感じるけど、異常に体調がいい……こんなに体調がいいのはここ10年ほどで初めてだ」


 そのまま彼女はグリムナの方に顔を向けて言葉を続けた。


「どうやら噂は本当だったみたいね。あんたと交われば秘めた力が目覚めるっていうのは!」


 そんなのはっきり言ってグリムナ自身も初耳であったが、これはもしや助けてもらえる流れか? と、少しだけ希望を胸に抱いた。しかしやはり現実とはうまくいかないものである。


「この力も、あんたも、だれにも渡さない! あんたはここで命を閉じて、永遠にアタシだけのものになるのよ!!」


 狂気を孕んだ笑みを顔に張り付けながらイェヴァンはゆっくりと近づいてくる。大ピンチである。グリムナは魔剣に対抗する術どころか、いつものマチェーテすら持っていないのだ。キョロキョロと辺りを見回して取り上げられた自分の荷物を探す。荷物の中にマチェーテがあったはず、と考えたが思い出した。マチェーテはフィーに預けてあったのだ。荷物入れには大したものは入っていなかったし、そのなけなしの荷物もさっきイェヴァンの一振りで粉々に破壊されてしまった。


 改めて何か武器になるものが身近にないか探す。近接戦闘はできない間合いの刻々と変化するサガリスを相手にそれはあまりにも危険すぎる。何かないか、と辺りを見回すと大きめの瓶が目に入った。木箱の上に載っていた、自身の上半身ほどもある瓶を持ち上げて投げつけようとする。瓶ならば直撃せずとも、たとえ剣で破壊されても破片がまた武器になる、とそう考えての事だったのだが。


「んあぁぁ!! 重い!! 中身入ってたぁ!!」


 あまりの重さにグリムナは瓶を投げることができずにほとんどその場にガシャン、と瓶を落としてしまった。特に何も匂いはしないので入っていたのはただの水であろう。

 さらにグリムナは横に、もう一つ地べたにおいてある瓶に気づいてこれを持ち上げようとしたが、こちらもやはり中身が入っていて、その場にゴロンと転がして中の水をこぼすだけにとどまった。


「あんたねぇ……何がしたいのよ……」


 このポンコツ行動がイェヴァンをますます怒らせてしまったようで、こめかみにピクピクと血管を浮きだたせながらゆっくり彼女はグリムナの方に近づいてくる。


「戦場とは須らく聖地たるべきもの……みっともなく取り乱して人生最後の舞台を穢すような真似しやがって……すぐに首を刎ねてやるから待ってろ……」


 グリムナは焦って他にまだ何か役に立ちそうなものがないか辺りを見回していたが、怒りに声を震わせながらイェヴァンが間合いを詰めてくる。いよいよこれは年貢の納め時か、と思われたが、水にぬれた地面にイェヴァンが足を踏み入れた途端、足元がぬるん、と滑ってイェヴァンはその場に開脚してすとん、と尻もちをついてしまった。


 一瞬何が起きたのかわからずグリムナは唖然としていたが、ハッと床を見ると、先ほどの水が洞窟中に広がっていた。ただの水がなぜこんな広がり方を? そう思ってグリムナは床の水を一掬いしようとしたのだが、そのまま足が滑ってべちゃっ、と床に突っ伏してしまった。


「こっ、これはまさか……」


 グリムナは床に手をついて、ようやくそこに広がっている『水に見えたもの』の正体に気づいた。それはもちろんただの水ではない。


「これ……フィーの『スライムローション』だ……」


 そう、例の小瓶である。騎士団のアジトへの潜入前、彼女がグリムナのお菊様を守るために渡そうとしたローション。グリムナは彼女の手をはたいて受け取りを拒否したはずであったが、なんと、いつの間にか隙を見て彼の荷物入れに忍ばせていたのである。それが最初のイェヴァンの斬撃により彼の他の荷物とともに破壊され、粉がばらまかれてしまった。その上でグリムナが巨大な瓶に入った水を二つもこぼしたので水を吸って洞窟一帯に広がるローションプールが完成したのである。


 幸か不幸か、彼はこの状況をどう生かしたらいいのかが全く分からない。しかし瓶の水、おそらく200L以上あったそれはもはや洞窟の床全てを覆いつくし、内部にぬめっていない場所などもうないのだ。

 どう生かしたらいいかも何も、もうどうにもできないのである。


 どうにもできないとはどういうことか、疑問に思われる方もいるだろうが、実際グリムナが立ち上がろうとすぐ横にあった木箱に手をかけたが、彼の手はそのままヌルッと滑って空中を掻いた。もはや立ち上がることすらできないのだ。そしてそれはバッソーもイェヴァンも、そして後から入ってきた計16人の造反組も全く同じであった。


「くっっそ~!! こんな隠し玉を持っていやがったなんて!!」


 イェヴァンが怒りに震えながらグリムナを睨むが、それは誤解である。彼にとっても全く予想外の事態だったのだ。イェヴァンはそのまま生まれたての小鹿のようにぷるぷると震える四肢でなんとか立ち上がる。そのまま一息にグリムナの方に跳びかかろうとしたが、全く前に進むことができずにその場にもんどりうってすっころんだ。しかもサガリスも滑って放してしまった。


 チャンスだ。そう思ってグリムナはうつぶせに寝っ転がったまま木箱を横に蹴ってサガリスの方に一気に距離を詰める。ウォータースライダーのようにスーっと滑って首尾よくサガリスのところまで距離を詰めたのだが、滑る魔剣を掴むことができずにそのままスルーしてしまう。あまつさえ先ほどのグリムナとイェヴァンの戦いに巻き込まれてけがをした造反組の男達の山に突撃する。


 身を守るようにひとところに固まっていた彼らは、グリムナの突進を受けて、ビリヤードのブレイクショットのように洞窟中に散らばるように爆散していった。


「うわ~!! なんじゃこりゃ~~!!」


 男たちは思い思いの悲鳴を上げながら洞窟内を吹っ飛び、壁に当たって跳ね返り、または別の人間に当たってはまた跳ね返り、跳ね返り、跳ね返る。人と物と魔剣が入り乱れて洞窟内を飛び回る。人間カーリング状態である。


 洞窟内はもはや摩擦係数ゼロの物体が乱雑に、無限にエントロピーが増大し続ける空間となり、収集がつかなくなってきていた。どうしよう、これ。

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