第119話 台無しだよ
「俺は生きている……歌の『魔法』を使うんじゃない……」
はぁはぁと息を切らしながらやっとのことでグリムナが声を絞り出した。彼の症状がどの程度のものであったかは計りかねるが、しかしどうやら意識を取り戻し、危険なところを脱したようである。
「今のはいったい……何が起きようとしていたんだ」
ブロッズは再度そう小さく呟いた。負傷して動けなかったグリムナ。その上半身をヒッテが駆け寄ってから抱き抱え、直後になにやらぶつぶつと歌い出した。すると彼女自身の魔力が急速に上昇し、さらには周囲からも魔力が集まってくるような感覚があった。
「もしや……不発に終わったようじゃが、アレがコルヴス・コラックスの『歌の秘術』か……!?」
バッソーが額に冷や汗を浮かべながら呟いた。人知を越える膨大な魔力を行使できる彼にとっても今のヒッテの魔力の上昇はやはり異常に映ったようである。
ヒッテが彼女の母から受け継いだというコルヴス・コラックスの秘術、死者をよみがえらせることができるという禁断の技。その『蘇り』と引き替えに、術者は最も大切な者の記憶を失うという。
「術を……使うんじゃあない。もう何も……ヒッテからは、奪わせない」
グリムナは彼女の手首を掴んだまま、強くそう言いきった。それは、此の世界の残酷さと一人で戦っているヒッテに対し、俺が味方だ、という意思表示であった。本来であれば、どんな場所なのかは分からないがコルヴス・コラックスの里で母親と一緒に平和に暮らしていたのかもしれない。しかし彼女の母は人攫いにあい、奴隷として売られ、誰か分からない男の子を孕み、ヒッテが生まれた。5歳の時に母は死に、彼女も奴隷として自由を奪われて育ってきたのだ。
もうこれ以上、誰にもヒッテの物を奪わせない。その決意であった。
ヒッテの瞳には再び涙が溜まっていた。
「グリムナッ……ヒッテは……ヒッ……あなたを失いたく……ヒグッ……」
しゃくりあげながら何とか言葉を続けようとするヒッテの頭をグリムナがあいている左手でポン、と優しく包み込んだ。ヒッテはうわあっと泣きながらグリムナの胸に顔を埋めたが……
「くっっっさっっっっ!!!!」
咄嗟にヒッテが仰け反り、グリムナから手を離した。グリムナは支えを失い、そのまま後ろに倒れ、ゴチン、と音がした。どうやらちょうど頭の位置に石があったようである。
ヒッテはそのまま立ち上がって後ろに二・三歩下がり、汚い者を見るような眼でグリムナを見る。
「くぅっさあぁっっっ!! うんち臭っ!? なんなんで……これ……ホン……くっさっっ!!」
全然話の流れが読めないが、ふと気付いてグリムナが自身の右手の親指辺りの臭いを嗅いだ。
「くっ……オ゛エ゛エェェ……」
悶絶する二人。フィーとバッソーはぽかんとした表情でその様を眺めているだけであったが、ブロッズはなにやら気付いたようで、しきりに自分の尻を気にしていた。
「ちょっと!! なんでいい場面なのにそんなに臭いんですか!! 何でいつも肝心な場面でご主人様うんち臭いんですか!?」
「いや、そんなこと俺にいわれても……オ゛エ゛ェ……」
ヒッテのしゃべり方はいつもの調子に戻っていたし、グリムナへの呼び名も、いつの間にか『ご主人様』に戻っていた。
「ちょっと! さっきヒッテの手首掴んでましたよね!? 何してくれてるんですか!」
ヒッテは落ち葉を拾って必死で手首をゴシゴシと擦っている。その様子を見ていたフィーが恐る恐る口を開いた。
「ああああ……ああ? もしかして……ブロッズ、うんち漏らしたんじゃ……」
なるほど、あり得ないことではない。おならを出そうとしたら身まで、というのはよくある不幸な事故である。きっと読者の方も多くが経験しているであろう。経験していると言ってくれ。そうでなければ作者が浮かばれない。私だけではないはずだ。
おっと、話が逸れてしまったが、あれだけの高出力の魔法をケツの穴から放出したのだ、そして辺りに立ちこめる異臭。此の二つから推察すればブロッズの体に何が起きたのか、想像に難くない。真実はいつも一つ。
そして、その時一番近くにいたグリムナの右手はその臭撃波をもろに浴びたことになる。いや、おそらくは実弾の直撃を受けているだろう。それは、回復魔法では治せないものである。
「いや、漏らしてなんか……」
ブロッズが力ない言葉で否定する。しかし力もなければ説得力もない。なんと弱々しい言葉か。
「漏らしてはないけども……今日は、ちょっと帰るわ……」
そう言ってひょこひょことした足取りで来た道を引き返そうとするブロッズ、しかし後ろを振り向くとズボンの尻の部分が破れていた。「キャッ」とフィーが喜色ばんだ声を上げる。この女、本当に人生が楽しそうである。
「ちょ、ちょっと待て!!」
帰ろうとするブロッズをあわててグリムナが呼び止める。ブロッズは「え?」と振り返った。しかしその表情は弱々しく、目は落ちくぼんでおり、口元にも締まりがない。なんだかこの十分ほどで何十年も老け込んでしまったようである。ここへ来たばかりの時の自信と力に満ちあふれた青年と同一人物であるとは誰も思うまい。
うんちを漏らすだけで人間こうも変貌してしまう物なのか。
「勝って……はいないけど、引き分けだろう? ヤーンの居場所を教えてくれないか!?」
そう言えばそういう話であった。いろいろとありすぎて忘れていたが。
「ああ、ハイ、すみません。実を言うとですね。私が独自に持っている情報網からの話なんですが……」
ブロッズが話し始めた。もう驚かないが、なんなんだ、この喋り方は。うんちを漏らすと人間はこうも自分に自信がなくなるのだろうか。ブロッズはまさに自分が世界中の全ての存在から責め立てられているような、そんな錯覚に陥っていた。
実際にはグリムナ達は「臭いからあんまり近づかないで」以外の感情はないのだが。いや、それで十分であるか。
「えっとですねぇ……南の方のですねぇ……オクタストリウムって言う国があってですねぇ……」
間延びした喋り方、それにおどおどとした態度、段々グリムナ達は何となく腹が立ってきていた。特に彼が何かをしたという事ではないのだが。糞漏らし以外は。
「はっきり喋りなさいよぉ! 結論から言って!」
ホモの話をしているときのフィーも実際似た様な物なのだが、一番最初に切れたのはフィーであった。本当に調子のいい女である。
「ひっ、スイマセン……そのですね、首都の何だったかな……ボスフィンって町で目撃情報があったって言うんですよ……」
普通に話してるだけなのに恫喝される。悲惨なものである。この世界には糞漏らしに人権はないというのか。
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