第364話 床ずれ

 グリムナは思わず鼻と口を押えた。


 血と汗の臭い、それに汚物だろうか、ありとあらゆる悪臭を集めたようなにおいに顔をしかめる。


 地下室の中央には鉄製の椅子が床にアンカーで固定されており、その椅子の上には大男が項垂れるように頭を下げた姿勢で座っていた。


 グリムナはこの大男の姿に見覚えがあった。


「ベルド……暗黒騎士ベルドか……?」


「う……んむ?」


 ベルドは力なく顔を上げる。息も絶え絶えと言った有様である。よくよく見れば体中傷だらけで、両手の指には全て爪がついていない。明らかに拷問を受けた跡である。


「最近は街にも出てこずになんかごそごそしてると思ったら、こんなことに熱中してたのねぇ……」


 リヴフェイダーは部屋の中をつぶさに観察している。


「大丈夫か、ベルド! 俺の声が分かるか?」


 グリムナはすぐに椅子に駆け寄ってゆき、横に置いてあったテーブルの上にカンテラを置いた。


「グリ……ムナ? うう……」


 うめくような声でしか返答のできないベルドの怪我を明かりのもとで見てみると、酷い有様であった。両頬は切断されてオオカミのように裂けていたし、両手足の全ての指の爪は剝がされている。腕や胸元には焼きごてでもあてられたようなやけどが無数にあったし、どうやら目も見えないようだ。


「待ってろ、すぐベルトを外してやる」

「先に怪我を回復させた方がいいのでは?」


 ヒッテが尋ねるが、グリムナは「状況の確認の方が先だ」と答えた。怪我の状況、どの部位が重篤か、で治療の方針は変わってくる。それは当然回復魔法でも同じである。


「立てるか? ベルド」


 ベルドの足には爪以外は拷問を受けた跡はなかった。逃げられないようにアキレス腱を切られたりはしていなかったのだが、しかし椅子の手すりを支えに立ち上がろうとしたベルドはそのまま崩れ落ちて床に手をついてしまった。


 筋力の低下である。


 人は、1週間寝たきりになるだけで15%、3週間で50%の筋力低下が起こる。1か月以上も地下室に拘束されていたベルドは自力での歩行ができないほどに衰弱しているのだ。そして、拘束による弊害はそれだけではない。


「うっ!」


 床に四つん這いになったベルドの尻を見てグリムナは思わず声を上げた。ずっと椅子に拘束され続けていたベルドの臀部の皮膚は酷い床ずれでズボンに血と膿が付着していた。これでは拷問を受けている時だけではなく、座っている間ずっと痛かったはずである。


「この状態じゃどんな体勢の治療でも痛いな……まずはここを治してやる、悪いがズボンを脱がすぞ」


「グリムナ……? 本当にあのグリムナなのか……? 生きて……」


 グリムナが治療のために四つん這いのベルドのズボンとパンツをずらした時であった。階段からフィーが恐る恐る降りてきた。


「グリムナ……変な罠とかないよね? って、ええっ!?」


 確認のためもう一度言おう。四つん這いのベルドの後ろに回り込んで、ズボンとパンツをずりおろしている時である。


「…………」

「…………」


「……違う、フィー……NOだ」


 何がだ。


 フィーは少し笑顔になった後、にこりと微笑んで優しい口調で答える。


「いいのよ、グリムナ。そうね。記憶が戻ったんだもんね。性癖も戻ったっていう事よね。……いいわ。私は全部分かっているわ」


「絶対分かってない!」


「大丈夫! ホント分かってるから! 分かってるから、続けて続けて!」


 むぅ、とうめいてグリムナは黙り込む。


 ……絶対に分かっていない。分かっていないのに分かっているつもりなのが問題なのだ。分かっていないのに分かっていると思い込まれると、その状況に満足してしまってそれ以上分かることができなくなる。


 とはいえ、この女がこれ以上勘違いしようがしまいが今までとさほど変わりないのでグリムナは怪我の治療を続ける。


 先ずは傷の程度の確認。皮膚に穴が開いたような褥瘡があり、出血と膿が両方の尻にある。かなり程度がひどい。


っ……痛い、もっと優しく……」


 変な声を出さないでくれ……グリムナは思わず眉間にしわを寄せた。フィーはと言うと「あらら、あんまり激しくしないで上げてよ」と言いながらにやにや笑っている。絶対分かっていない。


 しかし今はまあ、それはどうでもいい。ヒッテは自分の横にいて、これがけがの治療だと分かっているのだから。最愛の人さえ分かっていてくれれば、あのド変態キチガイクソエルフが勘違いしようが、それは別に今に始まったことではない。


「グリムナさん、初めてなんでもっとゆっくり慣らしてあげてください」

「!?」


 まさかのヒッテのアシストがあった。にちゃあ、とフィーが再度笑みを見せる。


 しかし何も間違ってはいないのでグリムナは治療を続ける。たしかに健康そうなベルドが尻に床ずれができるのは初めての経験であろう。気を取り直してグリムナは両手に魔力を溜めて、回復魔法をかける。


 ベルドは尻の傷が治っていくのと共に、痛みを緩和する脳内物質が溢れ出てくるのを感じた。


「あ……ああ、気持ちいい……もっと……」


「ふぐっ……うぷぷ……ひひ、いひひぃ……」


 怪我の回復していく感覚にベルドが声を上げると、部屋の入り口近くでフィーが堪えきれない気持ちの悪い笑い声を漏らす。


(こいつら……三人そろって俺をハメる気か……)


「ああ……もっと奥まで(回復魔法を)……」

「まだ(回復魔法が)出ますか? こんなに一杯出しちゃって大丈夫なんですか? グリムナさん……」

「あ、グリムナ、スライムローション使う? あなたがいない間にまたたっぷり補充しておいたわよ」


 本人が気づいていないが、現在グリムナは高度なセクハラを受けている。


 しかしそうこうしているうちに怪我の治療は終わり、グリムナは全ての傷を回復させた。身体欠損すら治せる彼に拷問程度の傷が治せないハズなどない。


 しかし失った体力と筋力は戻すことができず、ベルドは床の上に仰向けに寝ころんだままである。


「グリムナ、本当に生きていたのか……」

「ああ、心配かけてすまなかった。お前はなぜここに? ブロッズ・ベプトがいると聞いて乗り込んで来たんだが……」


 体力が回復していないベルドは上半身すら起こすことができず、顔だけをグリムナに向けて答えている。


「あいつに拷問されてたのさ……竜について、今までわかった情報を渡すように、とな」

「そうか、ブロッズは……」

「え! ブロッズにお尻を拷問されてたってこと!? 嘘! ブロ×ベル! そういうのもあるのね!! 完全にノーマークのカプだったわ、燃えて来たわよ!!」


 そう叫んでフィーは懐からメモ帳を取り出して、変な笑い声を上げながら真剣にメモを取り出した。


「フィーさん、グリムナさんの記憶が戻ってから絶好調ですね……」

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