第275話 魔笛
歩けども歩けども獲物の姿は見えない。
もうどこか遠くまで逃げおおせてしまったのだろうか。耳の欠けた白いオオカミは不安そうな表情で空を見上げた。鉄と人間の匂いがする。
オオカミは憎々し気に匂いのする方角に振り向いた。あんな大声で騒いで血の匂いを振りまいている。あいつらのせいで獲物に逃げられてしまった、そう思ったからだ。
もう何日も食事にありつけていない。そろそろ獲物を追う力もなくなってしまう。そうなる前に何とか、という思いでやっと追い詰めた鹿だったのに。人間たちのせいで取り逃がしてしまった。こういう時、はぐれオオカミはつらい。獲物を追うのも探すのも、手傷を負わせるのも全部一匹でしなければならない。
何とか首尾よく鹿の群れから一匹だけを分離することに成功したのに、まさか最後の最後で逃げられてしまうとは。
半分諦めの気持ちを持ちながら匂いを探していると、オオカミは存外に濃い獲物の匂いを見つけた。「近い」……興奮する胸を抑えながら慎重に、音を立てないよう、風下から静かに匂いの元をたどる。
果たしてそこに獲物の鹿はいた。自分がほんの半日前につけた噛み傷もある。間違いなく追っていた獲物だ。オオカミは一気に間合いを詰めて襲い掛かる。鹿は遅れてそれに気づき、逃げようとするがもう遅い。オオカミは鹿の首にかみつき、何とかして暴れる鹿を引きずり倒そうと七転八倒する。
そんな時であった。
ぴいぃ……と高く、澄んだ音色が聞こえてきた。鳥の鳴き声か、違う。こんな澄んだ声の鳥の声は聞いたことがない。狩りに集中したいのに心が乱れる。しっかりしろ、獲物が取れなければ死んでしまうぞ、とオオカミは自分を叱咤激励するのだが、しかしどうしても自分の食いついている獲物に集中できない。
いや、集中できないどころか、自分が噛み殺そうとしているこの鹿が、とても哀れに、愛おしく思えてきた。むなしく思えてきた。他者の命を奪ってまで、浅ましく生きようとする自分の姿が。
しかしそれはどうやら鹿の方も同じだったようで、だんだんと抵抗するように跳ね回っていた脚が止まり、やがて首を差し出すように動きを止めてしまった。
先ほどの美しい音色はまだ聞こえてくる。本当に美しく、そして悲しい音色だった。もはやオオカミは鹿の首から牙を外し、血の流れている傷跡を気遣う様にぺろぺろと舐めて、しばらくしてから、悲し気に遠吠えの声を上げた。
鹿はしばらくボーっと立ち尽くしていたが、オオカミから逃げるでもなく、その場に座り込んでしまった。オオカミはそれに寄り添うように、互いの体を暖めるように体重を預けた。
そこから少し離れた場所、多くの兵士や騎士に囲まれた中、ベアリスは笛を、『野風の笛』を吹いていた。
澄んだ、よくとおる音色。それは悲し気な音を響かせていた。いや、悲しみそのものであるようにも思えた。
ベアリスは特段楽器が得意なわけではない。教養の一つとしてある程度は吹ける、といった程度であったが、しかしそのたどたどしい手つきでも、悲し気な音色は聞く者の心に訴えるには充分であった。
不思議なことが一つある。
つい先ほどまで、飢えた獣の群れに生肉が放り込まれたが如く、兵士たちが襲い掛かり、ベアリスを捕まえようとしていたのに、今は誰もその場から動こうとしない。
笛の音に聞き惚れているのだろうか。
しかし少し様子がおかしい。
兵士たちの中で一番猛り狂って野獣の如くベアリスに突進しようとしていたオズ・ヒェンタープーフですら馬上で項垂れており、だらだらと涙を流し、立派な髭は鼻水でぐちょぐちょだ。甚だしくはアル中の如く寒そうに体を震わせて嗚咽を上げているのだ。
他の兵士たちもみな同様に俯き、その場にしゃがみ、涙を流し、嗚咽を上げている。
笛の音色に感動しているだとか、そういったレベルではないように見える。
「うう……私利私欲のために罪もない人を殺そうなどと……」
ヒェンタープーフが泣きながら後悔の言葉を発する。他の者もみな一様に悲し気に何やらぶつぶつと言葉を発しているが、涙声と鼻水のせいで何を言っているのかは全く聞き取れない。
ベアリスはそれをちらりと視線を上げて遠目で見ながらも、さらに笛を吹き続ける。
「なぜ人は……争わねばならないんだ……」
「生きるのがこんなにつらいのなら、いっそ植物にでも生まれたかった……」
「ママ……ママぁ……」
兵士たちは口々に達観したような……いや、それよりはニヒリズム的な諦めの念すら感じられるような気配すら感じられる言葉を呟いている。
やがてベアリスは笛を吹くのをやめ、辺りの様子をつぶさに確認した。
悲しみそのものとも思えるような野風の笛の音色は消えたが、兵士たちはまだ泣き崩れている。
(この効果は……これが
ベアリスは自分の手の内にある笛に恐怖を感じながら、彼女自身も涙を流していた。自分で笛を吹いておきながら、その音色の美しさに感動して……いや、悲しみを抑えきれずに泣いてしまっていたのだった。
「おお……ウェンロー……さっきは、殴ってすまなかった……ワシが愚かだった」
「いえ、ヒェンタープーフ様……私が至らないばっかりに……」
「おじい様、もう……帰りましょう……戦場は人の心を貧しくするだけです……」
大した理由もなく部下を殴るヒェンタープーフが副官のウェンローに頭を下げた。バァッツは生まれて初めて祖父の頭頂部を見た。
(ああ、どうしよう……私も涙が止まらない……)
とうとうベアリスはその場に泣き崩れてしまった。
ターヤ王国に代々伝わる『至宝』とも呼ばれる魔道具の一つ、『野風の笛』。言い伝えではかつて世界を手に入れようとした魔王が所有しており、のちに次々と彼の後継者達の手に渡ったという曰く付きの笛。
父王に聞いた話ではその笛には争いを納める力がある。
しかし、「決して吹いてはならぬ」とも言われていた。
軽いめまいを覚え、こめかみを抑えながらベアリスは回らない頭で思考をまとめようとする。
(争いを納める力……てっきりグリムナさんの『魔法のキス』みたいに人の心を穏やかにするとか、そういう魔力があるのかと思っていたけれど……)
兵士たちは少しずつ、ゆっくりと引き換えしていく。
しかしそれはここへ来た時のように軍隊式の行進で規則だってきびきびとした移動ではなく、皆がそれぞれ、ふらふらと勝手に歩いているように見える。兵士たちが勝手に帰ろうとしているというのにヒェンタープーフ将軍もそれを咎めようとしない。
目をこすり、肩を抱き合い、寒さに震えるように身を寄せ合う。
それはまるで軍隊というよりは避難民と言った方がよほど腑に落ちる光景に思えた。
(『吹くな』というのは正しかった気がする……この『魔笛』は……危険だ)
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