第200話 三回目の持ち逃げ

 リズがグリムナ達に同行してから十日目、砂漠に入って三日たった日の夜の事である。その日もひたすら青い空と赤い大地の間を、ひたすらまばらに存在する日陰を求めて息継ぎするように進んだ。さながら水中の呼気に足らずして水面みなもに顔を上げるうおの如き様である。

 ちなみに赤潮により水中の魚が窒息死する現象、あれは大量に発生するプランクトンの死骸を分解するためにバクテリアが水中の酸素を使い尽くしてしまうからである。びっくりだよね。


 ともかく、その日の夜びっくりなことが起きた。


 夜というよりは夜明けの少し前の時間であったが、やはり岩場の陰でグリムナ達は寒さに凍えながら寄り添うように寝ていた。寒さのあまりもぞもぞと動く者がいてもあまり気にすることはなかったのだが、グリムナの肩が明らかにぽんぽん、と意図を持って叩かれた。まだ空が白み始めてもいない、夜明けまでずいぶん時間がある、そんな時であったが、グリムナは眠い目をこすりながら上半身を起こした。見るとすぐ横にはまだヒッテが静かに寝息を立てている。それではいったい誰が、と暗闇の中彼が目を凝らすとそれはどうやらベアリスのようであった。


 随分前に彼女はグリムナにとって『初恋の女性』から『野生動物』のカテゴリに分けられたものの、ほのかに青い月明りに照らされた彼女の白銀の髪、そして今では日に焼けて大分小麦色になってきてはいるものの、それでもなお白磁の如く美しいきめ細やかな肌は彼を惑わせるには充分であった。


 フェアリーに誘惑されたかの如く未だ夢とうつつの間を朦朧と彷徨うグリムナは、暗闇の中ではよく分からないものの、四つん這いでこちらに顔を向けているベアリスの胸元が見えているような気がして思わず赤面して視線を逸らしてしまう。

 ベアリスは彼の頬に手を添えて自分の方に向き直させてから口を開いた。


「こっちを向いてください、グリムナさん、大切なお話です……」


 月明りの光彩をわずかに反射してきらめく彼女の瞳、その美しい輝きを一度目に捉えてしまったグリムナは今度は彼女から目を離せなくなってしまった。


 ああ、これも一夜の夢。砂漠を超え、山を越えるとそこはピアレスト王国、そこからさらに山の中を抜けて彼女は故郷に凱旋することとなる。そうすればもはや彼女は殿上人、グリムナとは住む世界が違う。尋常であれば恐れ多く、話しかけることすらままならぬ仲となるであろう。


 で、あるならば。この砂漠は最後の夜であるのだ。彼と彼女が同じ空の下過ごせる最後の夜。それを理解したうえで彼女は皆が寝静まった時間に自分に声をかけてきたのだ、グリムナはそう理解した。


 すでにベアリスはアンキリキリウムの町で再会したときに、彼が初恋の人であると告白している。そして実を言えばそれはグリムナも同じであるのだ。


 グリムナは彼女の肩に手を寄せ、自らの領域に引き寄せ、顔を近づけようとしたが、しかしこれをベアリスの鈴の音のような柔らかい声が現実へと引き戻した。


「グリムナさん、寝ぼけてます? ヒッテさんと間違えてませんか?」


 ヒッテの名前が出てグリムナがぎょっとし、目を丸くひん剥いた。たった一言で完全に目が覚めた瞬間であった。


 そうだ。常識的に考えて今このタイミングでベアリスが急にグリムナに対して逆夜這いに来るなどあり得ない。そもそもすぐ横には肌の振れるほどの距離でヒッテが寝息を立てているのである。ついでに言うなら干物じじいのバッソーもすぐ近くに寝ている。そんな環境で夜這いなどあり得ないのだ。グリムナはパンパン、と自分の頬を両手で叩いて正気を取り戻した。


「やられちゃいましたよ、グリムナさん……逃げられました……」


 『逃げられた』という言葉を聞いてグリムナはほぼ反射的に寝ているヒッテの顔を覗き込む。当然変わり身の術でもなければ幻覚でもない。逃げたのはヒッテではないようだ。もう遠い記憶になりつつあるが、彼は二度、ヒッテに荷物の持ち逃げをされたことがある。しかし今の信頼関係がある状態で彼女がグリムナの元から逃げるなどあり得ない。ならば逃げたのはなんなのか……グリムナは辺りを見回すとすぐに違和感を感じた。リズが同行してからずっと視界に入っている三頭の巨体……竜が一匹もいないのだ。


「竜が……」


「竜だけじゃありません。当然リズさんもいないです」


 グリムナが阿呆のようにつぶやくとそれにかぶせてベアリスが付け足してきた。その言葉を聞いてグリムナはいよいよ目を丸くして驚愕した表情のまま首をぶんぶんと振って辺りを確認する。


 いない。確かにいない。竜も、リズも、どこにもいないのだ。完全にやられた。逃げられるのが得意な男、グリムナである。


 確かに竜は変温動物で、夜になって冷えると動きが大分鈍くなる。しかし完全に動けなくなるわけではない。グリムナ達が寝静まったのを見計らって静かに引き払っていったのだろう。そして当然のようにリズが管理していた保存食や水の類もなくなっている。今あるのは元々グリムナ達が持っていた荷物と、毛布代わりにしているマントだけである。



「しかし、なぜ……?」



 理由は色々と考えられる。前金をあらかじめ貰っており、仕事が面倒になって投げ出したのだろうか、しかし彼は行商人だ。後々ターヤ王国で王政派が政権を握ったら、と考えるとその時不利になる行為を取るとは考えられない。とすると、ビュートリットがそう指示したのか、もしくは革命派のスパイで、そうと知らずにビュートリットが案内人を任せてしまったのか、このどちらかが可能性が高いように思えた。


 しかしそのどちらだろうが詮無きことである。ベアリスが物思いにふけっているグリムナに話しかけてくる。


「グリムナさん、グリムナさん! いろいろ考えてしまうのは分かりますが、今はそんなときじゃないです。周りを見てください」


 言われてグリムナは周りの様子を窺う。まだやはり辺りは闇に包まれているが東の空は白みつつある。数時間でまた悪魔の如き太陽が顔を見せることだろう。それも今度はその太陽の下を竜に乗って移動するのではなく、徒歩で移動することになるのだ。今更リズを追いかけることもできない。見れば、竜たちの足跡は、数歩歩いたところで、そこからは消されているし、そもそもいったいどのくらい前にリズが姿を消したのかが分からない。

 ならば、今できることは何か、今何をするべきなのか。それを考えるのが最優先である。


「今私たちがしなければならないこと、それが何か、理解できていますか?」


 ベアリスが訪ねてくる。グリムナは東の空を睨みながらそれに答える。


「日程的に考えて、今いるのはおそらく砂漠の中央辺り、そこに置き去りにされてしまったってことか……今俺達がしなきゃならないこと……それは、砂漠を超えて、北の山脈にたどり着くこと……」


 グリムナがそう呟いていると、話し声に気付いたのか、ヒッテとバッソーも目を覚ましたようである。


「騒がしいのう、何かあったんか、グリウナ……」


 眠そうに眼をこすりながらバッソーがろれつの回ってない語り口調で話しかけてくる。


「あれ? ご主人様……竜は……?」


 ヒッテはさすが、すぐに違和感に気付いたようである。ベアリスはしばらく二人を眺めた後、軽く周りを一周見回してから、グリムナの方をまっすぐ見つめてから口を開いた。


「違います。今私たちが『しなきゃならないこと』……それは『生きる事』です」

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