第79話 じじい復活

 にゅるん、にゅるん


 なんとも締まりのない戦いである。イェヴァンは組み合ったままグリムナの背後、腎臓の位置を狙って打撃をくらわせようとするのだが、やはりローションのせいで芯を捉えられない。グリムナはなんとかしてイェヴァンをしっかりつかんで締め技、関節技に移行しようとするのだが、やはりローションで滑って捕まえられない。


 お互いに力強くつかもうとすればするほどぬるんっと滑って逃げてしまうのだ。ウナギ同士の取っ組み合いのけんかを見ているようである。イェヴァンがほぼ半裸なのも影響している。とにかく掴みどころがなく、二人してその場でにゅるにゅるとうごめいているだけなのだ。


「なんか……えっちね……」


 フィーが素直な感想を口にする。言われてみればナメクジの交尾のような風情である。ヒッテはその言葉を聞いてもあきれた顔でボーっと見ているだけだったが、放っておいたらその内R-18的な展開になりそうな気がしないでもない。


「つっ……」


 そうこうしていると、フィーが小さい悲鳴を上げた。手についたローションを気にしているようである。


「なんかさ……ローション……いや、スライムの消化、刺激が強くなってる気がしない?」


「言われてみれば……もしかして、徐々にスライムの復活速度が増しているんじゃ?」


 このフィーの言葉にヒッテも同意する。大量の水とグリムナの回復魔法で徐々に復活しつつある200匹分のスライム、最初は少しピリピリする程度の刺激であったが、それが強くなっているように感じたのだ。もしかしたらさきほどの大津波でそこら中にいる騎士団のエネルギーを少しづつ吸収して体力を回復させつつあるのかもしれない。道理としては通っている気がする。


「やばいやばい、ヒッテちゃん、これで肌についてる分を拭き落して!」


 フィーは自分の肌の露出している部分についていたスライムをハンカチで拭ってから、それをヒッテにも渡した。辺りはまだ騎士団の激しい内ゲバが続いている。もちろんローションの中でだ。フィーは本能的に危うさを感じていた。通常200匹ものスライムが固まっていることなどあり得ない。

 その自然界で通常起こらないことが今ここで起ころうとしているのかもしれない。それは、下手をすれば近くのエルルの村も巻き込んで大災害となり得るのかもしれない。


 フィーはヒッテがローションを拭き落したのを確認すると自身の周囲のスライムを炎で焼き払い始めた。


「まずいかも……私の魔法じゃ全てのスライムを一度に倒すのはできないし、このままじゃさらに収拾がつかなくなるかも……」


 最早フィーは決着の見えないグリムナとイェヴァンを放っておいて、その先のことを考え始めた。


「もしかしてこんなことしてる場合じゃないんじゃ……戦いをすぐにやめさせて、みんなで逃げるべきなんじゃないですか?」


 ヒッテも顔に焦りの表情を浮かべている。


「グリムナ!! イェヴァンも!! まずいわよ! スライムが調子を取り戻しつつある!! 戦いをやめて早く逃げないと!! このままだとこの辺り一帯は全部スライムに飲み込まれて死の大地になるわ!!」


 このフィーの言葉にさすがのグリムナとイェヴァンも戦いの手を止めて彼女の方を見た。


「死の大地だと!? それはまずい! どうにかならないのか!?」

「冗談じゃない、ようやく騎士団も軌道に乗り始めてきたってのに、こんなところで死んでたまるか!!」


 フィーとグリムナの『死の大地』という単語にようやくイェヴァンも事の重大さを理解したようである。


「どうにかって言ったって、人も大勢いるのに炎で焼き払うわけにもいかないし、第一私の魔力じゃ無理よ!!」


「お困りのようじゃな……」


 グリムナとフィーが言い争っていると老人の声が聞こえた。賢者バッソーである。


「ぎゃあぎゃあうるさいよ……今更あんたみたいなじじいの出る幕なんて……」


「喝ぁっ!」


 言いながら近くに落ちていたサガリスを手元に寄せたイェヴァンをバッソーが一喝した。イェヴァンは今までにない彼の剣幕にビクッと驚いて硬直してしまった。


「まだ戦おうというのか……同じ人間同士争うことのむなしさがなぜわからん。この本陣は今の大陸の縮図じゃ。本当に迫りくる危機を知ろうともせずに自分だけのことを考えて相争う……愚か者め」


 これは本当に先ほどまでのすけべじじいと同一人物なのだろうか? 冷静で、力にみなぎっており、悟りを開いたように争うことの愚かしさを説く。これはまるで……『賢者』である。


「け……賢者モードになってる……」


 グリムナの表情が嫌悪に歪む。このじじい、ヒッテの蹴りがケツに炸裂して森の中に消えたと思ったら、一発抜いて戻って来たのだ。12歳の女の子にケツを蹴られたのがそんなに嬉しかったのか。しかしグリムナ以外のメンバーはバッソーの『賢者の秘密』を知らないため一体何が起こったのか、と困惑しきりである。


「イェヴァン……戦いは終わりじゃ。騎士団の連中を止めて、兵を退け」


「そ……そんな言葉に従うはず……」


 そして、その『困惑』はイェヴァンも同様である。あまりに変わり果てたバッソーの雰囲気に畏怖しているのだ。


「従わないのならば仕方ない……スライムごとこの辺り一帯を焼き払うほかないな」


 そう言ったバッソーの魔力は、もはや魔法を全く使えないイェヴァンにすら視認できるほどに赤黒いもやのように燃え上がっていた。彼の周囲の景色が蜃気楼のように揺れる。辺り一帯を焼き払う、その言葉がただの 虚仮威こけおどしではないことは誰の目にも明らかである。それほどの力を彼が今孕んでいることが目に見えてわかるのだ。たとえその姿が見えずともそれが獅子の咆哮であることが誰にでもわかるように。


「わ、わかった! 争いを止めるから!!」


 慌ててそう言ったイェヴァンはすぅ、と大きく息を吸い込んだ。彼女の上半身が一回り大きく見えるほどに膨れる。


「静まれぃッ!! 戦いは終わりだ!! アルトゥームは投降したぞッッ!!」


 キィン、と耳鳴りが起きるほどの大声であった。腹の底に響くようなその『咆哮』に争っていた騎士団員たちは一瞬で戦いをやめた。明らかに自分よりも強い、束になってもかなわないと思えるほどの悪魔の声に恐れをなしたのだ。


「総員、本拠地まで撤退! 今回の作戦は失敗だ。先に行っていろ、アタシも後から追う。指揮はアルトゥームが取れ!!」


 イェヴァンがそう指示すると、騎士団の男たちは素直に従った。彼女が恐ろしかったのもあるが、すぐに洞窟からアルトゥーム達が出てきて、実際にイェヴァンの指示通りに撤退の準備を始めたからである。洞窟の中でグリムナが戦う力を奪ったことで彼も争う気持ちはもうなかったのだ。


「愚か者どもめ……結局は力で示さねば状況を悟ることもできんのか……」


「お前の方こそ一発抜かなきゃ悟れないだろうが……」


 バッソーが小さく呟くが、グリムナは不満顔である。間違いなく今回の作戦の殊勲賞はグリムナであるが、最後に全てバッソーに持っていかれた感じである。もちろんグリムナはそんなことを気にする性格ではないし、そもそもそんなこと思ってもいないのではあるが。


「しかしバッソー殿、スライムはどうするんですか? このままではいずれ辺り一帯スライムに侵食されてしまいますよ!」


「案ずるな。儂に手がある……」


 グリムナの問いにそう答えるとバッソーは呪文を唱え始めた。


「この世界に命をもたらす母なる雫よ、我が意に答え、矮小なる手の内に集い給え……」


 そう唱えると、バッソーの手の内に水の球が現れ始めた。いや、手の内ではない。それはみるみるうちに大きくなり、もはや彼ら全員の頭上に移動しながら巨大な池を空中に出現させていた。


「こっ……これは一体……」


 フィーの表情が恐怖に歪む。一体バッソーは何をしようとしているのか。

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