第299話:非常階段、キスの先に見えたもの
ピッ、の音がして、女性の「あれっ?」の声、やがて「あ、こっちです!」と。少し遠くから「こちらですか?」と年輩の男性の声。それから聞こえた単語は、サーバ室、点検、機材、チェック・・・。よく通る声の女性はたぶん小嶋さんで、現場職っぽいおっさんは電気工事の業者のようだ。
非常階段に逃れて、聞き耳を立てて、踊り場に二人でじっと突っ立っている。
やがてもう一度ピッの音が鳴り、音は聞こえなくなった。
どちらからともなく、つめていた息をふっとつく。
何となく、いつかもこんなことがあった気がした。・・・あれは、暗闇のトイレか。あの、最初のキスをした後、二人で個室にぎゅうぎゅう入って、トイレに来た誰かをやり過ごしたんだっけ。
緊張が解けたせいか忘れていた頭痛がしっかり戻ってきて、僕はゆっくりと、階段の端っこに腰かけた。壁に頭をもたれるけど、水道管とか何かの関係で微かに振動しているような気がして、やめた。窓のない階段は気圧が低く感じて、耳鳴りがしてくる。この下に四十階も五十階も空間が続いていると思うと、そのスケール感はちょっと気持ち悪かった。
黒井が、僕の隣に座る。そうだ、僕はどうしちゃったんだっけ、熱が出たことを黒井が知っているし、突然キスしようなんて言ってくるし・・・。
「・・・あ、あの、・・・電話、したんだっけ。ごめん」
「お前は、俺の蛇の役のことを知ってたんだよ」
「・・・は?」
少し焦ったように、その声は僅かに震えていた。両手で口元を覆うので、それはさらにくぐもって非常階段に響いた。
「俺、気になってすぐ調べたんだ。俺の、あの役。演目も覚えてないし、いつだったかも覚えてない。ネットで調べたって、なんて調べたらいいかも分かんないし・・・っていうか、あの研究所だって、まだあったけど、ホームページすらなくって」
「・・・う、ん?」
バレエの、話だ。子役で、蛇の役をやった?
「でもまあ、それで、・・・その役は見つけらんなかったんだけど」
「・・・うん」
「全国コンクールの、何ていうか、入賞者一覧みたいのが、あってさ。ずっと昔まで、ちゃんと名前が載ってた。俺がやってた頃のを見たら、その、現代舞踊のとこ、ずっとずっと何年も、知った名前でいっぱいだった。クミちゃんにユカちゃんにサツキちゃん。もちろん、姉貴の名前も、黒井咲子って、何度も、何度も。コンクール、予選は全部で1500人とかで、そっから決選は500人とかで、それで児童部門の50人の中で3位とかに入って、それであのトロフィーだったんだ」
「・・・う、ん」
「俺の名前は、・・・なかった。っていうか、たぶん俺は勘違いしてて、研究所の公演は出たけど、コンクールなんか出てなかったんだ。俺は、俺が『あっくん』ってみんなに可愛がられて、姉貴は面白くなかったんじゃないかって言ったけど、そんなの、全然そんなことなかったんだ。姉貴はコンクールでいっぱいだった。十歳とかで、ずっと全国の子と競ってた。俺なんか何とも、思ってたはずない。コンクールは年一回のそれだけじゃなくて、もっといっぱい色々、出ずっぱりだったんだよ」
僕は突然のバレエコンクール話に気圧され、「・・・お姉さん、すごかったんだね」とようやく返した。何かの全国大会の3位というのは、小学生であっても、まあ相当打ち込んでいたんだろう。そういう経験がなくて、その熱量はよく分からないけど。
「それで・・・、あ、あれ、何だっけ?」
「・・・いや、だからその、蛇の役がどうとかって」
「ああそうだ。それで俺、朝っぱらからお母さんに電話してさ、俺の役のこと訊いたんだ。そしたらあの水色の衣装の、やれレースのとこが大変だったとか何とか・・・。ああ、でもとにかくその役は実在してて、大先生の娘のチナ先生が白蛇の精霊で、それで人間と交わって生まれたのが俺で、人間たちが俺を探しに来て、でも俺は蛇の世界の方の存在で、人間たちを追い返して・・・みたいな、話、だったらしい」
「・・・う、うん?」
「で、その、水色だよ」
「・・・え?」
「白蛇の子どもなのに白くないのかって、結局、人間の血が混じってるから灰色なんだけど、でもライトの下では灰色って白く見えちゃって、それで親父が色見本引っ張り出して何だかんだやって、結局あの水色っぽい生地にしたんだってさ」
「・・・はあ」
「お前が灰色って言うから、でも俺は水色って思ってて、でもやっぱ灰色だったんじゃん」
「・・・俺が、灰色、って?」
「言ったんだよ、電話で。これって何か、予知夢とか?」
「い、いや、単に、お前の話からのイメージだと・・・」
「あと、俺たちはまともに付き合ってるけど、お前はこっちに来れないんだって言った」
「・・・え」
「覚えて、ない?」
「・・・ごめん。何も」
「俺は別に、コンクールで入賞したいわけじゃないし、誰かに認められたいわけでもない。でも何か、そういう・・・舞台の上で、何かをその場で、創ってく・・・その感じをちょっと、思い出した。何かがあって、それを、出してく、本気で」
「・・・う、ん」
「やっぱり俺は何かがしたい。それが何なのかはやっぱりわかんないけど・・・舞台でやるんじゃなくて、もしここが、舞台なんだとしたら?」
「・・・」
「お前は、キスしたらどこかが見えて、それは俺も知ってるんだって。だから・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・
頭痛がしていたはずなのに、熱い舌が動くたび、それは後頭部から、押しつけられた壁へ逃げていくみたいに消えていった。興奮してきている黒井の息遣いが、非常階段にくぐもって響く。
「・・・っ、ちょ、やめ」
「んっ、だめ。俺もそこ、いかせて」
「まずい、だれかきたら・・・」
「こっちが先」
「んんっ・・・」
「こう?こうがいいの?」と焦る吐息が耳にかかり、その指はこするように僕の右耳をなぞった。「クロ、やめ・・・」と言ってみるけど、説得力はない。だめだ、もしも誰か来たら・・・っていうか、今は仕事中・・・。
・・・。
「あっ、ん・・・」
「は、はあっ・・・」
だんだんと壁に寄りかかった身体がずり落ちてきて、階段の上で変な体勢で、黒井はどんどん覆いかぶさってきた。肩に置かれていたその右手が、一度は上に上がってきて僕の頬を包んだが、今度は下がっていって、僕の心臓のあたりを、手のひら全体を押しつけるようにまるくなぞる。耳と、舌と、胸とで、僕はもう、別のところにいきかかっていた。
・・・誰か、来たら、とか。
・・・仕事、とか。
そういうものは遠ざかる。
違う、心配しなきゃいけないのは、もうそこじゃない。
・・・移行、しつつある。次の、フェーズ。トンネルを通って、もうこの先が見える。
・・・。
「ん、あっ、クロ・・・」
「ねこ、おまえ、熱い」
「ごめん、おれ・・・」
だめだ、もう、クロを止める理性が残ってない。
馬鹿みたいに速い心臓を止められず、僕の、手が、黒井のそれに伸びてしまう。
・・・だめ、だって。
「おねがい・・・」
約束、したのに。プラトニックなんだって。
破ったら、消えて、しまうのに・・・。
全部の感覚が、脳みその中で、興奮も、緊張も、快楽も、焦りも、全能感も、罪悪感も、全部、全部が、同じ数値の同じ何かになって、何かを放出し続けていた。どんな材料を入れたって同じロールパンが出てくる機械みたいに、僕はもう、そういう機械にしかなっていない。
何か、ないのか。違う、ボタンは。
「・・・クロ、も、おれ、だめ」
黒井の背中を必死に探るけど、それはYシャツの布地以上の何にもなってくれず、ボタンもなかった。ひたすら引っ掻くようにその広い背中をかき分けて、黒井の中に何かないのかと探したいけど、全然開かないんだ。
もうたぶん僕は階段の上で横になって寝ていて、苦しいのは、黒井が上に乗っているからだ。ただでさえ口を塞がれてるのに、胸が、苦しくて、もう息が出来ない。
「たすけて・・・」
・・・。
いつの間にか黒井は透明の身体になってどこかへ行ってしまい、僕は空にいた。
夕焼けのピンク色の空で、眼下には、海と、船が一艘、同じく夕焼けに包まれていた。
「・・・やまねこ!」
・・・目を、開けた。
「・・・はあっ」
忘れていた息をする。
・・・まだ情報は入ってこない。
息が、出来る。
自分の、呼吸が、聞こえる。
それから、見えたものを認識する。・・・ボタン。ちょっとだけ虹色に輝く、貝殻みたいな光沢。それは黒井のYシャツのボタンで、そして、それは途中まで外れてアンダーシャツが見えていた。
「・・・クロ」
「息、できる?」
「・・・はあ、うん、してる」
「お前、どこ行ってた?何を、見てた?」
「・・・ふねが」
「船?」
「ピンクの、夕焼けが」
「夕焼け?」
「・・・あ、ああ、きっとそのボタンの、色なんだろう。見えてたものを、脳が、勝手に・・・っていうか、ここどこ」
「・・・非常階段」
「俺、しちゃったの?・・・最後まで?」
「キス、だけ、したよ」
・・・・・・・・・・・・・・・
黒井は、一分くらい、何も言わずにずっと僕をその胸に抱いて、頭を撫でてくれた。
胸元があたたかくて、黒井のにおいがして、何も考えられなかった。
それから、黒井は僕の髪をその指で整えて、僕を立たせると、シャツの襟や裾も直した。次に自分のシャツのボタンを留めて、「どうする気だった?」と甘い声で困ったように笑った。
・・・僕が、外したと、いうこと?
ボタンには届かなかったはずなのに。
そして非常階段を出る時、「今日は絶対無理しないで、帰って、すぐ俺に電話しろ」と言われた。それから、「別の意味で、お前と出来ないよ」とつぶやく。それどういうこと?
誰かに何か言われたら、熱で気分が悪かったと弁解しようと警戒しながら四課に戻ったが、佐山さんに「あ、あれ先にやっちゃいましたけど、よかったですか?」なんて言われただけだった。
「・・・行ってきます」
「行ってらっしゃい」
佐山さんの女性らしい声と、四課のおっさんの適当な声に見送られ、外に出る。とにかく、黒井に言われたとおり、今日は無理せずやって帰って、電話をする。無理せず、帰る、電話。
・・・・・・・・・・・・・・
今ひとつテンポの合わない担当者と今ひとつ噛み合わない話をして、あとは作ってきた見積もりとフロー表に任せることにして適当に話を切り上げた。今日はもう綺麗な落としどころを探してさまようのはやめだ。僕は帰って電話をするんだ。
頭痛はやはり消えていて、体調は悪くなかった。中華丼くらいにしておけばいいのにソースかつ丼を選び、ああ、また値段で選んでしまったと後悔。しかしアポは終わったからひと息ついて、スケジュール帳を眺めた。
・・・明日、十月三日に、印がつけてある。何だっけ。
小さく、「HANNIBAL」と書いてあった。・・・ハンニバル。・・・ああ、レクター博士のことだ。
そうだ、刺激的な海外ドラマがあって、その日本語版のDVDがようやくレンタルされる日だから、チェックしていたんだ。あれを見つけたのは確か七月で、レンタルはまだまだ先の話だと思っていたのに、もう明日だなんて。
よく分からないけど、上質なミステリが待っていると思えば、何はなくとも気力がわいた。確か、<羊たちの沈黙>の前作の<レッド・ドラゴン>の主人公ウィル・グレアムとレクター博士が一緒にFBIの捜査をするという、聞いただけで走り出したくなるような設定だ。
原作小説と映画版は、収監されているレクター博士がFBIのグレアムやクラリスに協力しつつ彼らを翻弄するという話だが、このオリジナルドラマでは、逮捕前のレクター博士が高名な精神科医としてFBIの顧問になるという。
・・・とにかく、それがあるなら、何とかなりそうだ。
現状はいろいろぐちゃぐちゃだが、僕にとっては、どでかい救急箱が用意されているようなものだ。
よし、頑張ろう。
そうして最低限の仕事を終わらせて、立ち上がる。オフィスを出るとき一瞬三課を見ると、黒井が顔を上げて射貫くように僕を見た。鋭い目線に見送られ、僕は一歩一歩、ゆっくり歩いて廊下に出た。蛇だの船だの、いったい自分は誰なんだろうと思いつつ。
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