17章:失われたものを、取り戻す山猫
(二人の本当の「出会い」は入社研修だった)
第140話:俺の黒犬
松山さんの話が出たのも、僕を黒井と勘違いしていたからだと思えばうなずけた。本社のときに一緒だったとか、納会のときに聞いた気がする。
松山の一存でないとか、助かったって言ってたとか、ああ、そうか、松山って人事の人だ。本社の人事の人が決めたんなら、そうなんだろう。
・・・あいつは四月から、千葉へ行くんだ。
そういえば、中山が雷落としたときも、最後だからとか、もうちょっとなのに気を抜くなとか、そんなこと言ってたような・・・。まさかあれって、中山課長が最後って意味じゃなく、黒井が最後ってこと?
考えがまとまらないまま、どきどきと心拍数だけが上がって、おさまらなかった。え、何で、俺が異動って話じゃないのに、緊張がおさまらない。そうしたら、視界の隅に黒井が見えた。女の子連れじゃなくて、一人で戻ってくる。腕時計を見ると、まだ十二時半過ぎ。え、昼って一時間じゃないの?どうしてもう戻ってくるの?
ふらふらと通り過ぎるかと思ったが、「暇?」と言って隣のスツールに座った。顔なんか、見れない。この人、あと何日かで、いなくなる・・・。
「誰も来なかった?っていうか、利根さんは?」
「・・・え、ああ、どっか行った」
「ん、何か落ちてる」
さっき落とした名刺を、拾ったみたいだった。なら、もういいか。一人になりたい。
「あ、あのさ、何かあったらその番号に連絡くれって。俺、どうしても腹が痛いんだ。ここ頼んでいい?」
「え、別にいいけど・・・、大丈夫?」
「済まない。それじゃ」
鞄をつかんで、早足で逃げ出す。後ろから「トイレ、あっちが近いよ!」と叫ばれるけど、聞いていられない。何だ、どうしてこんなに焦ってるんだ。冷や汗が流れそうだ。嘘から出た何とやらで、本当にトイレにかけこまないとまずいかもしれない。
とにかく黒井の視界から消えたくて、エスカレーターを駆け上って、国際フォーラムを出て駅の方に歩いた。とにかく、止まったら何かが噴き出しそうだったから、でたらめに歩き続けた。どんどん、早く。ほとんど走ってるくらい。
・・・。
利根さんは僕のことを黒井さんと呼んだ。聞き間違いじゃない。確かにそう呼んだ。
僕のことを黒井だと思っていた。本社で顔を合わせる機会もなくて、分からなかったと言っていた。顔見知りではなかったんだ。
そして、千葉がどうの、松山がどうのと言った。松山さんと酒の席で会って、黒井さんの話が出たんだと。あとは、同期がどうした、離職率がどうのと。
それから、・・・四月から異動、と言った。四月って、今月の次の四月だ。来年の話じゃない。つまり、ほんの一週間もしないうちの、話だ。
黒井が、いなくなる。本社から来て、半年かそこらで。
そういえばあいつ、どうして本社から来たんだろう。
そもそも、どうして本社に行ったんだろう。本社に行ったのは同期であいつだけだし、っていうか支社しか募集してなかったはずだけど。
うん、っていうか本当にあいつは僕の同期なのかな。よく覚えてない。僕たちの同期は最初の一年間、ひたすら営業同行や、アポ取りや、セミナーの手伝いなんかをさせられていた。今はさいたま支社や横浜支社に行ったメンバーも、最初だけは全員東京支社にいたんだ。女の子もいっぱいいて、今みたいに、三課と四課は男ばかり、ってこともなかった。だから、いくらそれほど親しくはなくても、フロアの向こうの業務部へ行った鷹野とかももちろん覚えてるし、一緒のクラスだったって感覚がある。同じ課じゃなくても、セミナーとかでは今回みたいに全員が手伝わされて、辞めていったやつも含め、三十人を大体覚えている。
・・・その中で、黒井のことは思い出せなかった。
あの一年間で、一緒にアポ取りをしたか?懇親会に出たか?セミナーの準備をした?
あいつは最初何課の配属だった?
・・・思い出せない。でもそれはきっと、そうだ、そもそもいなかったからだ。
だってあいつは最初から本社に行ったから。
一年間の新人生活なしに、さっさと本社に行ったから。
だからあまり記憶にないし、最初から<本社の人>って感じだった。
・・・でも、それなら何でそもそもあいつを知ってるんだろう。まさか入社式でひととおり名前を呼ばれたからって、その日だけで覚えているはずもない。確か横田とは隣同士だった気がするけど、それ以外、入社式の記憶なんてあまりない。ああ、横田とは名前が近くて、しばらくずっと一緒だったんだな。その後の新人研修でも同じ班で・・・。
新人研修。
そうだ、入社してすぐの最初の一ヶ月、研修合宿があった。そこで大体みんなのことを覚え、同じ班のメンバーとはそこそこ仲良くなったんだ。あの保養所みたいな施設に缶詰めにされて、社会人のマナーだの、商品概要だの、プレゼンの真似事だのをさせられた。名前順だったから、もちろん黒井とは違う班だった。でも、いたと思う。そういう人が、いたんだと思う。
・・・鈴木のことは、覚えていた。あの人はあの時からやっぱり<主将>って感じで、全員の代表みたいな立場になって何かしていた。そこに黒井もいたような、気がする。うん?何かの会議っていうかミーティングで、5、6人だけ集まって、毎晩何か話してた?
いや、5、6人といっても班のメンバーじゃない。そこに横田はいなかったし、鈴木がいた。あれは、ああ、班長会議?え、僕は班長だったのか。そういえば、ジャンケンで負けたんだっけ・・・。何だか思い出してきた。主将の鈴木と、姉御肌の鷹野、あとたぶん黒井と、寿退社した濱田、いや濱野?それから僕と、確かさいたまへ行った浅見・・・。僕が一番主体性もなく、積極性もなく、意見もろくに出さなかったと思う。だからただ成り行きを見てただけだった。大体最後は鈴木が綺麗にまとめて終わったから、途中はよく覚えてない。黒井も、そんな、おかしなことを言ったりサボったりはしなかったと思う。そんな記憶はない。みんな真面目で、羽目を外すこともなくスムーズに社会人第一歩を踏み出したんだ。こんな会社で、採用の基準もよく分からない寄せ集めで、でもそのわりにはちゃんとしてると思ったもんだ。みんな僕より余程しっかりしてる、といじけたっけ。
でもとにかくそこに黒井はいて、そして、その一ヶ月の新人研修のあと、たぶんもういなかったんだ。支社に配属されてばたばたして、しばらくしてその不在に気づき、本社へ行ったらしい、みたいな。といっても僕はそれどころじゃなかったし、そういう噂や人事にも疎かったから、何となくああ、そうなんだ、で終わった。その後も、あれ、飲み会に途中から来て、「あー黒井さん久しぶりー」みたいなことがあったかな。まあ最初の一年はみんなそこそこ会ってたんだ。でも二年目からは正式に配属になって、僕も飲み会なんかぱったり出なくなって、黒井のことなんか忘れていた。別の支社に行ったやつらもいるし、それからは女子がちらほら辞めていって、うん、三年目が終わる頃には大体抜けるだけ抜けて、そこからはほとんど変化がない気がする。そして去年、黒井が帰ってきた、というか、支社に初めて来たのか。そして僕のことを、覚えて、いた・・・?ああ、あの班長会議で覚えてたのかな。特に親しく話した記憶もないんだけど。
え、うん。っていうか・・・。
何の話?
僕はそこでようやく歩を緩めた。
何となく大通りをひたすらに歩いて、ああ、何だろう、テレビとかでよく見るこの交差点の景色。・・・銀座だ。
歩みを止めるきっかけもないままずるずる歩いて、何だかすごい建物が見えてくる。何だ、歌舞伎座?平日でも人でいっぱいだ。
腕時計を見るのが怖かった。どれくらい歩いたんだろう?もう引き返さないとまずいのか?でもまだ帰れない。・・・何でだ?
歌舞伎座を通り越して、少し歩いた橋のところに腰掛けた。橋といっても川が流れてるわけじゃなくて、下は高速みたいのが走っている。曇り空だけど底冷えはしなくて、やっぱりもう春なんだ。大学を卒業して、入社した季節。そして、ああ、異動、の・・・。
黒井が、千葉支社へ行く。
頬をつねって、パンと音がするほど叩いた。
僕は・・・何をやってるんだ?
いったい、僕は、何を・・・。
・・・・・・・・・・・・
スケジュール帳を出して、ほとんど見ていないけど、眺めた。どんなに数えたって、三月は土日も入れてあと五日しかない。その次には、四月一日。
いったい何がショックなのか、っていうか、ショックだったのか、さっぱり分からなかった。目が据わったまま何も見ていない。表情は固まったままひくりとも動かない。ただ、瞬きだけをしていた。再読み込みをして、更新するみたいに。更新すれば何かが分かって、全てが何かの勘違いだって、思えるみたいに。
・・・。
自分が突然の異動を言い渡されたわけじゃない。
なのに、もう、何も考えられなかった。
ただ、目の前の人の流れを目で追った。無意識に若いスーツの男を目で追って、違う、違う、と次へ移る。違う、違う、こんなんじゃない。それからふと足元を横切る黒い物体。大きな黒い犬だった。僕はその後ろ姿を、きびきび揺れるしっぽを見送った。黒犬。俺の、黒犬・・・。
クロが、行ってしまう。どこかへ行ってしまって、もう帰ってこない・・・。
・・・クロ。
「クロ、クロ・・・」
声が、漏れる。何だか頭の中がめまぐるしく、記憶が一気に渦になってなだれ込んできた。クロがいなくなる?俺のクロが?え、どうして?
藤井としたことや、実家からの電話とか、関口の腕をつかもうとしたこととか、ああ、僕はあいつに「会社辞めて役者でもやれば」って言った。あれは僕がクロに言ったんだ。何でそんなこと言った?僕とあいつは恋人でも何でもなくて、だから会社でしか繋がっていないのに。
・・・。
・・・恋人?
え、どうして僕と黒井が恋人なの?
・・・だって、あいつ、俺のこと・・・。
いや、違うか。俺が、あいつのこと・・・。
すき、・・・とか。
え、ちょっと待って。好きってなに。好きって何なの。
いやだから、だから言ってるじゃん。無理って。だから俺無理なんだって。紹介できる人なんかいないよ。男なんだから。
だって・・・、だから・・・。
え、ちょっと待って、藤井さん、俺ってやっぱり変態だったの?どういうことなの?
俺はあいつと・・・キス、とか、した・・・。
うん、したよ。した。だから何?キスくらいなんなの?別に本番までしたわけじゃなし。
・・・本番。
あれ、<本番>って、何。
ちょっと待ってよ、わかんないよ!!
僕は思わず口元に手をやり、それからおでこに当てて熱を測り、そのまま隠すように、目を覆った。
・・・何これ、この感じ。
少し冷たい手が、熱を出した僕の目を覆って、僕はそこへ行った・・・。
あいつの手、じゃないか。
どうしてここにないの?どうして今、ここに、いないの?
お願いだよ、誰か教えてくれ!僕はどうしちゃったの?何でこんな、なっちゃってんの・・・。
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