第141話:すべてを、思い出した
家に帰って、布団にもぐって意味もなく泣きわめきたかった。
でも、帰るわけにも、いかないけど・・・。
いや、帰れるか。展示会なんか別に、僕がいなくたってどうにかなるだろう。利根さんと、黒井がいれば、大丈夫・・・。
・・・黒井が、いるのか。
っていうか、今さっき、会ってたのか。
今朝から会って、一緒にいて、喋った。
あれが、あいつが黒井彰彦だ。
どうしよう、もう、もう無理だ。関口さん、無理だよ。全然平気じゃない。何ひとつ平気じゃないよ。倒れそう。
無意識に会社の携帯に手を伸ばすけど、いや、関口に電話したって意味ないよ。うざいって言われるし、っていうか何を言うつもりなんだ。別に、まだ何も起こってない。そう、深刻ぶっていろいろ理屈をつけようとしてるけど、何も起きてはいないんだ。何事もなかったみたいに微笑んだらそれで済む問題もある?納会でウインクしてた黒井みたいに?ああ、あの写真!
財布を全部ひっくり返すけど、どのカードの隙間にも紛れていない。え、入れなかった?社内報を切り取って、財布に入れなかった?
目が痛くて、頭がぐらぐらしてきた。だめだ、貧血。倒れそう。
財布だけ鞄に突っ込んで、後ろが公園になっていたのでとにかく移動して、人目もはばからずベンチに横になった。鞄を枕にして、腕で目を隠した。五分だけ、とにかく五分だけ休ませて。頭から血の気が引いていくのを感じながら、それでも横になってじっとしていたから、耐えることが出来そうだった。このまましばらくやり過ごして、何かお腹に入れて温かいお茶でも飲んだら少し落ち着くかも。とにかく五分、じっとしてるんだ。過ぎ去るのを、待つんだ・・・。
・・・。
少しして、落ち着くかもしれない、という僅かな感覚をつかんだ頃、頭の下がグー、グーと振動した。思わず頭を上げ、またふらつく。吐き気がする。お願いだから今はそっとしといてくれ。それでも携帯を引っ張り出して、表示も見ずに目を閉じたままボタンを押して「もしもし」と言った。課長だって利根さんだって構うもんか。急に具合が悪くなったんだ、もうしょうがないだろう。
でも「もしもし?おい」という焦った声はよく知ったそれだった。っていうか、会社の携帯じゃなくて自分のなんだから、課長や利根さんからかかってくるはずもない。相手は、黒井だ。
「・・・もし、もし」
「おい、大丈夫?どこのトイレ?」
「・・・ああ、トイレじゃ、ないよ」
「全然帰ってこないから、心配して・・・。そのままお昼行ったの?」
「ごめん。あの、クロ、・・・ごめん。俺・・・」
「どうしたんだよ。ねこ、お前どこにいんの?」
「どこって・・・どこだろうね、橋の上だよ。また倒れた。起きれないよ。でも気にしないでくれ。大丈夫、そのうち治る・・・」
「お、おい、倒れたって、どういうこと?ちょっとそこどこ?」
「いいんだ。何でもない。ねえ、お前千葉に行っちゃうの?」
「・・・え」
「はは、何だ、水くさいじゃん。言ってくれれば・・・、まあ、なんも出来ないけど、さ」
「何で、知ってんの」
「やっぱそうなんだ。本当なんだ。そう、なんだ・・・」
「お前、どうしてそれ、誰から・・・」
「ごめん、もう話せない。これ以上話せないよ。悪いけど、戻らなかったら、早退したと思って。具合悪いって、言っといて・・・」
「おい、お前どこにいんの、ねえ、ねえってば!」
・・・もしもし?おい!聞こえてる?
携帯を耳から離して、しばらく黒井の声を聞いた。それから電話を、切った。
・・・・・・・・・・・・・・・
携帯の電源をみんな切って、そのまましばらく横になっていた。
三十分くらい、うとうとしただろうか。
ゆっくり体を起こして、とりあえず大丈夫そうだった。でも、地下鉄で新宿まで出て、そこからうちに帰ると思うと、ちょっと無理だった。気を抜くとまた目が痛んで、貧血と吐き気がぶり返しそうだ。何とか、しないと。
携帯のネットでこの近くの休めるところを探そうと思ったけど、電源を入れると電話が来そうだったからやめた。少し歩いて辺りを見回すとインターネット喫茶の看板。とりあえずゆっくり座って、ネットで調べ物が出来て、飲み物が飲めるならどこでもいい。吐き気をこらえながら、何とかそこへ向かった。
中はタバコくさくて空気も悪く、オープン席でないと会員登録が必要だという。とにかくどこでもいいからネット検索をして、さっさと出ることにした。烏龍茶を一口飲んで、銀座周辺のビジネスホテルを探す。・・・みんな、チェックインが15時からだ。まだ13時半なんですけど。
場所を築地方面に移してもう一度検索をかける。・・・ああ、さっきの通りの、もう少し行ったところだ。ビジネスホテルだけど、ご休憩っぽいプランがあった。カップルでもOKです・・・ってことは一人でもいいんだよね。そこの電話番号を控えて早速外に出ると、目についた公衆電話に駆け込み、「今すぐ行きたいんですけど」と予約した。
大通りを直進して、十分もしないうちに着いた。ゆっくり歩く分には気分の悪さも紛れていて、何とかなった。そういえば昨日もろくなものを食べてないか。ホテルに入る前に近くのコンビニでおにぎりとサンドイッチと烏龍茶とヨーグルトを買った。いつもこれだな、僕は。
そしてホテルに入り、鍵を受け取って部屋に入った。何やらいろいろ説明されるけど、もうどうでもいい、一刻も早く横になりたいだけだ。ものすごく迷惑そうな顔をしていたんだろう、係のお姉さんが最後は早口で終わらせてくれた。もう、歩いてるならともかく、黙って突っ立っているのはつらすぎる。
部屋に入ったら、もう上着とネクタイを取って、ズボンも脱いでベッドに入った。
コンビニの袋を枕元に置き、烏龍茶を一口飲む。少しだけ落ち着いた。大丈夫、今日展示会を抜けただけで、事足りる。このままどうかなっちゃうって話じゃなくて、明日から普通に行けばいいだけだ。ドロップアウトしたりしない。誰に何を言い訳したり、説明したりすることなく、ごく普通に、会社に・・・。
・・・黒井が、いなくなるのに?
僕が、普通に、行けるとでも?
今度こそ、感情が、止められそうになかった。何だ、何なんだこれ!!
拳を握って、弱々しくベッドを叩く。急に左の薬指に痛みが走って、ああ、切った時、舐められた!あいつが僕の血を舐めた!よりによって、・・・よりによって左手の、薬指・・・!!
天井を見続けて、目が痛くなって、カーテンを閉じた。
体を起こしたらふらりとして、石ころみたいに丸まった。そのまま、枕を握ったり、拳で叩いたり、無駄な抵抗をした。それからやっぱり気持ち悪くなって、横になった。
・・・どうして俺は、お前のことを、忘れて、たんだ。
涙で歪んだ視界に、左手を、薬指を持って来る。もう傷跡なんか見えない。あんなに深く切ったのに、塞がっちゃうもんだね。もう、本当にそんなことがあったのか、証拠は何もない。でも、これだけは覚えてるんだ。指を舐められて、そんなことされたっていうのに、ぞくりとしなかった。それで、僕は、・・・お前を忘れていったんだ。お前を好きじゃないのかって、それを直視するのが怖くて、自分で覆い隠したんだ。
違う、か。
お前があんなことまでしてくるくせに、俺のこと、好きってわけじゃ、ないのかって・・・。
だっていつもお前は正直で、あっけらかんとして、隠し事なんか何もなくて。
喧嘩の後で「一緒に、いこうよ」なんて、電話を切ってオナニーして、わざわざイった報告のメールまで。どうしてそんなやつが、ひとこと好きだって言わないの?本当に全部、ただの友達のつもりでやってるの?
だからいい加減、僕は、怖くなったんだ。僕がもう我慢できないほど好きなのに、お前は違うのかって。
違う、の、か・・・。
僕はもうしゃくりあげて泣いていた。お前に、クロに、好かれて、ない・・・。そんな俺に、生きてる価値なんかある?ねえ、ここで死んじゃおうか。ホテルの人に迷惑かな。でももうどうでもいいんじゃない?
・・・だって、さ。
だってさあ、あいつ、何も言わずに、転勤するとこだったんだ。
さっき、聞いただろ?「何で知ってるの」って、当然、あいつは知ってたんだよ。あいつもまだ知らなかったっていうんならともかく、いつからかわかんないけど、決まってたんだ。さっき利根さんが、急に決まってみたいなニュアンスで話してたかな。まあ、でもそれだって昨日今日って話じゃないだろう。別に、僕に知らせる義理なんかなかったってことだ。ほら見ろ、やっぱり、ただの同僚だ。いや、同僚以下かな、転勤を知らされないなんて。
・・・転勤。
千葉、だって。別に、電車で行ける距離だけど。
っていうか、千葉から通ってる人だっていっぱいいるけど。
だから会おうとすれば会えるし、今生の別れってほどのことでもない。
・・・でも。
でも、ねえ。
電車で何分だから、って問題じゃないよ。会えるか会えないかなんて、それは後の話だよ。
だって、今日偶然聞かなかったら、僕が黒井と間違われるようなことが起こらなかったら、絶対まだ、知らなかった。本人から聞かなければ、知らされるのはいつ?三十一日?それとも四月一日、いなくなってから、横田から「千葉行ったらしいよ」なんて聞いてたかも?
・・・はは、なに、それ。
恋人どころの話じゃないよ。友達ですらないよ。むしろ、嫌われてる人だよ。
・・・そっか。
嫌われてるなら、しょうがないか。
それならもう、どうしようもない。うん、僕のことが嫌いなら、それならいいよ。すべてがうなずけるし、納得できる。これまではともかく、今、お前は僕のことが嫌いなんだ。それだったら仕方ない。
・・・。
・・・せめて、嫌いだって言って欲しいよ。ねえお願い。そんな、「大丈夫?」とか電話して来ないでよ。俺のこといじめないで。頼むから、嫌いだって、直接、言ってくれ。そうすれば、楽になれるから・・・。
あれ、何だっけ。
こないだ喧嘩したとき、似たようなこと言われたか。
ああ、僕が、嫉妬して、避けてたから。
急に無視するくらいなら、理由を言えとか。
はは、そうだね。確かに。ごもっとも。
でもあの時確かに、仲直りしたんだよ。ひどいことも言ったけど、あいつが、ええと、そう、流れ星だ。流れ星を見たときの、感覚がなくなって、それで・・・。
中身が、スカスカだって。
あはは、それ、僕のことだ。
お前を好きだって感覚がなくなって、中身がスカスカになったんだ。どうやっても戻らなくて、そうだ、それで写真もしまっちゃったんだ。戻らないって確信するのが怖くて、全部隠したんだ。それで、ええと、もう一ヶ月近く?
・・・そんなに?
バレンタインの合宿のあと、物理をどうとかって嫉妬して、喧嘩して、そのあと指を切ったんだから、たぶん一ヶ月だ。僕はお前を好きになって二ヶ月ちょっとで、それを封印して、丸一ヶ月も過ごしてたんだ。うわ、何だろう、よく思い出せない。残業してたってことと、ああ、そうだ、お前のこと考えても勃たなくて、怖くなって藤井と無理にしようとしたり、ドラマを見てごまかしたり・・・。
ふいに、肩が寒くなって、布団をずり上げた。
自分で自分の肩を抱いた。
寒い、寒いよ。抱いてほしい。抱きしめてほしい。お前にだよ。
今すぐ、お前に抱きしめられたい。キスしてほしい。その先まで。
ほら、勃っちゃったじゃん。腹が、ひゅうと透ける。
喧嘩のとき、お前に、何の根拠もなく大丈夫だって言ったけど、ほら、大丈夫なんだよ。戻ってくる。感覚は、また戻って来るんだよ。
・・・。
・・・もう。
もう、遅いけどね!!!!
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