第142話:「お前のこと、大っ嫌いだった」
泣きすぎて気持ち悪くなって、でもまた泣いた。
泣きながらおにぎりを食べて、飲み込めなくて、烏龍茶で無理やり流し込んだ。
馬鹿みたい。何やってんだろ。
男が男を好きになって、でも恋人でもなくて、何の約束もしてないで、相手が転勤になって、・・・ただの、失恋じゃん。菅野なんか可愛い女の子なのに失恋したんだ。僕がしないなんて道理があるはずない。
ない、けど。
へへ、ないんだけどさ。
烏龍茶を飲んだから、少しだけ落ち着いた。
怖かったけど、体を起こして、携帯の電源を入れた。
・・・まさか、病院中に問い合わせてるような事態になったり、してないよね。
具合悪くて早退するって言ったんだから、それだけで、済んでるよね。
利根さんと、女の子二人と、黒井で十分回せるはずだ。僕を呼び戻さないとどうにもならない、ってほどの事態になりはしないだろう。っていうか今何時?・・・15時半か。まだそんな時間だったんだ。
電源が入って、メールと着信の表示があった。まあ、急に切ったから何度か掛け直したんだろう。
メールを見ると、12件と出ていて、何だこれ。フォルダを開けると全部黒井からで、何だか怖くなって見るのをやめた。最後の一件だけ、読んだ。
<お願いだから、どこにいるのか教えて。俺、謝るから>
・・・。
何を謝るって、いうんだろう。
黒井が僕に、どんな悪いことをしたんだ?
別に、してないよ。
恋人でもあるまいし、転勤のこと黙ってたって、まあ水くさいってだけで、謝る必要なんかない。
何を、謝るの?
そう考えてる間にも、メールが届いた。
<話したいことがある。頼むから、返事してよ>
これ、どっから届いてるの?
書いてるのは、本当にお前?
この後もまだまだ届いても困るから、返信した。
<築地のホテルで休んでます。体調が悪かっただけです。心配かけてすみません>
しかし、メールをしたら電源を入れてるってのがわかっちゃって、速攻で電話が来た。無視しようか迷ったけど、なぜか、出てしまった。
「おい、そこどこ?すぐ行くから。何てとこ!?」
「・・・もしもし」
「もしもし?」
「別に、休んでるだけだから、大丈夫。心配かけて、ごめんね」
まるで遠い詩を読むような、彼岸の声が出た。ああ、この人は、ちょっとまずいか。
「おい、そんなこといいから、早くどこにいるか言え!」
「・・・そんな、怒んないでよ。怖いから」
「何だよ、お前、また、どうしちゃった・・・」
「いつも迷惑かけて、ごめんね。でももういいんだ。もう、全部、遅かった」
「遅いって何だよ!お前、変なこと考えてないだろうな。待てよ、俺が行くまで待てって!」
「変なことって何?・・・俺が、いつ変なこと考えた?・・・どうしてそれ、知ってるの?」
「おい、待てよ、やめろよ!」
「ごめんね。やっぱり嫌だったよね。俺、お前とすることばっかり、考えて・・・」
「え?もしもし?何をするって?」
「あたしじゃ嫌でしょ?」
「・・・っ」
「あたしね、女じゃないから、生理とか来ないんだー。だから、あんなに血が出るって思わなくて、怖くなっちゃった。でも、だから、クロとの間に子どもとか、出来ないんだよ」
「・・・マヤ、ちゃん。ねえ、今どこ」
「ホテルの、部屋。こないだのラブホテルより、綺麗・・・」
「何て名前?そこの、ホテル」
「えっと、確か・・・」
言った途端、電話は切れた。何だろう、生理なんか来ないのにどこかから血が出そうで、でも出てないのに、たくさん失血したような貧血。本当の血は、どこ行っちゃったんだろう。あたしの本当の中身は、どこへ、行っちゃったんだろう・・・。
・・・・・・・・・・・・・
乱暴にドアが叩かれて、大きな音が嫌で、仕方なく鍵を開けた。「鍵かけんなこの野郎!」という怒声とともに、いきなり拳で頬を殴られて、すっ飛んでベッドに倒れこんだ。・・・誰?何?・・・この野郎って、あ、俺、男なんだっけ?
「てめえ、どんだけ心配したと思ってんだ。俺が、どんだけ!」
「・・・知るか」
「ああ?何だと?」
胸倉をつかまれて、シャツが引っ張られる。やめろよ、破れるだろ!
「・・・何しに、来たんだ。俺に、何の用・・・」
「この・・・っ!」
思わず目をつぶるけど、二発目は来なくて、今頃頬が痛くなってきた。くそ、痛い、痛いじゃないか!
でも、怒りはわいてこなかった。ただ痛いだけだ。ただそこに、痛みと痺れが貼り付いているだけ。
「・・・俺、お前のことどうすればいいか、わかんないよ」
つかまれている手を振り払ってベッドに腰掛け、自分の下着を見ながら、震える声でつぶやいた。相手の顔は見ずに、続けた。
「ずっと、そうだった。お前のことわかんなかった。さっきと今だって、違うじゃん。心配するメールくれて、早まるなって電話くれて、ドア開けたら殴られるじゃん。わかんないよ。いつ会っても違う顔で、すぐ誰だかわかんなくなっちゃうんだ。真面目なこと言ってきたり、夢みたいなこと話したり、かと思えばエロいことしてきたり、お前って何なの?そんな顔で、俺に、何の用なの?俺が言いたいのはそれだけだよ。お前が本社からこっちに来て、俺と会って、それで、結局、俺に何の用があったの?」
今までの色んなものが言葉として勝手に出て行くと、何だかそう思っていたような、微妙にそういうことじゃなかったような、でも大体文庫本の裏のあらすじくらいに合っている気はした。
しばらくの沈黙の後、黒井は「・・・聞きたい?」と低い声を出した。
「ごめん。自分から言っといて悪いけど、聞きたくない。だってもう、いいじゃんそんなこと。もう終わったことじゃん。お前は俺に何も言わずに、どっかへ、行っちゃう、わけ、だし」
「・・・ごめん」
「謝らなくていいよ。普通の、ことだよ。別に、こんくらい、ふつーだよ・・・」
「お前・・・俺の顔見て言えよ。俺の目、見て言えよ」
「・・・嫌だ」
「何で?」
「お前の顔見たくない。俺、お前に見られるの嫌なんだ。自分がみじめになる。そんなかっこよくて、綺麗で、イケメンな顔に見つめられたらさ、何でそんな人に見られてるんだろうって、恥ずかしくなっちゃうよ」
「・・・何だそれ」
「だってしょうがないじゃん。何で俺なんかに声かけたの?親切だから?いつも一人で、かわいそうだったから?それとも、俺のこと・・・」
「・・・そうだよ」
「え、お前、本当に、俺のこと・・・」
好き、だった?
まさか。
そしてお前の答えはやっぱり違った。
「お前のこと、・・・嫌いだった」
黒井は僕に、確かにそう言った。「ものすごく、大っ嫌いだった」、と。
・・・・・・・・・・・・・・
奇しくも、話は僕がさっき思い出していた、新人研修のくだりだった。
部屋の隅に座って壁にもたれて、黒井は話した。その声は、電話で聞いたことのある、朗読するような、過去を紡ぐ声。演劇部の話もこうして僕は黙って聞いていた。こんな表情で話してたのか。泣きそうだったり、感情的になっても、よく通る声。
「俺はまた、班長をやってたんだよ。お前、覚えてる?」
「・・・うん。さっき、思い出した」
「班長の集まり、夜、やってたの」
「ああ。鈴木さんと、鷹野とか浅見くんとか」
「そうそう。お前、全然、喋らなくて」
「だってジャンケンで負けただけで」
「うん。最初はそうだと思ってた。やりたくないやつが、やらされてるだけだって。やる気なくて、自分は知らないって顔で、人任せで・・・」
「うん、まあ、そうだった」
「でもさ、俺、途中から、気づいたんだ。お前は他のやつが言ったことにはうなずくのに、俺の意見にはうなずかない」
「・・・そんな、こと」
「それくらいなら、それだけのことだった。でも、そうじゃないことがあって」
「・・・なに」
「あのね、確かカッターだった。渡されたんだよ。班に一つ配られて、俺のとこが足りないかなんかで、お前が持ってきた。ほんの、それだけのこと」
「・・・え?」
「俺はね、あの時、演劇部のこともあったし、だから気を張ってて、ちゃんとまともにやる気でいたんだよ。実際班長もやって、ちゃんと出来てたんだ。みんなから好かれて、女の子からも声かけられて、ボロ出さずにうまくやってた。・・・それなのに、だよ」
「・・・」
「お前だけだったよ。そう、そのカッターを渡すとき、俺がちゃんとありがとうって言ったのに、・・・あのね、お前は鼻で笑って、いいえ、って言って、会釈して戻っていったんだ」
「・・・べ、別に、普通だ。・・・何だよ。そんなの、覚えてない」
「・・・だと思った。やっぱり覚えてない。俺はその時、ボロを出したのかと思って、必死に振り返ったんだ。でも俺はちゃんとやってた。それでね、まあそんなこともあると思って、でもまだ続いたんだ。班長会議の相槌のことと、その<いいえ>、のことと、他にもいくつかあって、これは偶然じゃないと思った。確信犯だ。俺のこと、見抜いてるって」
「見抜いてる?・・・そんなこと、覚えてもないし、何も見抜いてなんか」
「いや、見抜いてた、っていうか、分かったんだお前は。俺が何かを取り繕ってるってことに」
「別に、そんな」
「それだけなら、他のやつも、あったんだ。言葉の端々とかに、そういうのが見えたりしてさ。でも、それは、こうだよ。<お前、本当は腹黒いくせに、爽やかそうにしてんじゃねえよ>ってさ」
「ああ、まあ・・・」
「でもさ、それ違うんだ。だから全然、堪えない。そんな風に思われてもちっとも平気なんだ。何でか、分かるでしょ?」
「・・・え?」
「腹黒い中身なんかないからだよ。そういう真っ黒いもの、俺も欲しいよ。でもないんだ。傷つくような、本心がないんだよ。触られたくないような、自分だけの世界がないから、腹黒いだの、チャラチャラしてるだの、薄っぺらいだの、ふん、馬鹿みたい。俺だって、薄くていいから何かが欲しいよ」
「・・・」
「でもさ、お前はそんなんじゃなかった。何だよアイツ、かっこつけて、って顔じゃない。絶対違う。慣れてるから、その顔ならよく知ってるんだ。うん、お前はさ、たぶん初めて、俺を哀れんで、しかも正確にそれを分かった上で、・・・軽蔑したんだ」
「・・・何の、話だよ」
「お前は覚えてないだけなんだよ。でも俺は覚えてるし、何回でも思い出せる。<うわ、こいつ、何にもない。やだやだ、アホらし、関わりたくもない>・・・はは、こんなんじゃないよ、もっと言われた。<自分くらいしっかり持って出直して来いよ、話にならん>ってため息。<こんな空っぽのやつと話しても意味ない、時間の無駄ー>って苦笑い。俺はもう、気づいてからはそればっかりが気になって、お前と顔を合わせるのが怖くなって、ひどい状態だった。最後の方、俺が会議出てなかったの、じゃあきっと覚えてないね」
「・・・おぼえて、ない」
「俺は岡本さんに相談したよ。あの、研修のセンセイやってた人。最初の一ヶ月乗り切れないなんて、もうマズいって焦って、鈴木さんにも相談した。そしたら、本社から松山さんが飛んできた。俺は土曜かなんかにちょっと別のとこで会って、話聞いてもらった。・・・泣いたよ、女の人の前でさ。恥ずかしいったら」
「・・・」
「で、訴えたんだ。俺、あいつのいるとこで一緒に働けないって。同じ課じゃなくても、同じ部屋なら絶対無理だって。今思えば、なんつー横暴というか、とんでもない新人だよ。でも松山さんは、絶対一年は誰も脱落させないって言って、さんざん協議した末に、俺を支社じゃなくて、本社に入れてくれたんだ」
「・・・え、そう、なの?お前が本社行ったの、じゃ、俺の・・・」
「そう。俺が、お前のこと、嫌だったから。そんで、支社に来てお前に声かけたのも、俺がお前のこと、嫌いだったから」
「何で?・・・おかしいじゃん。何で、嫌いなのに」
「一つは、確かめたかったから。俺のこと本当に見抜いてるのか。でもそれは、よく分かんなかった。あの時は確かに見抜いてたけど、支社に来てみたらお前は何か疲れてて、見抜くっていうよりそもそも俺に興味もなかった。お前は、俺のこと<黒井さんって人>としか、見もしなかった。それから・・・」
「・・・それから?」
「お前が・・・やまねこうじって人間が、本当に俺を見下して、軽蔑するほどの中身を持ってるのか、それが知りたかった」
「・・・」
「そして・・・持ってた」
「・・・」
「それだけだ」
そして黒井は立ち上がって、上着を脱ぎ捨て、僕の前にゆっくり歩いてきた。床に座ってベッドに寄りかかる僕を立ったまま見下ろして、「それだけなんだよ」と、繰り返した。
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