第143話:好きという名前のつかない二人の行為

「ねえ、して」

 黒井は僕の目の前でズボンを下ろして、勃起したそれを僕の前に晒した。

「俺の中身、出してよ。お前が」

 少し匂い立つそれが、僕の顔に近づく。触れてないのに、熱が伝わる。僕は歯を食いしばってうつむいた。

「本当はずっとこうしてやりたかった。っていうかね、お前が自分から、こうしてくれるのを待ってた。でもお前は、・・・そう、指を舐めるだけで、結局手を出しはしなかった。俺がパンパンになってんのに、またもや知らん顔。俺のことわかんないって?そりゃ、そうだよ。お前に見抜かれるもんかって俺と、全部晒して、助けてほしいって俺が、同居してんだから」

 さっき殴られた頬に、ついにその熱いものが触れた。思わず目を閉じる。

「俺がエロいことしてくるって?・・・俺がお前のこと、好きだとでも思った?」

「・・・っ」

「こういうの、好きっていうと思う?ねえ、どう思う?」

「・・・わかん、ないよ」

「俺にもわかんない。だからわかんないもんに名前つけるのやめたんだ。自分でもどうしてそうするのか、だって説明なんか出来ないし、出来てもしょうがないんだもん。俺だってお前みたいに理屈つけて、またあの感覚が戻ればいいと思うよ。でもだめだった。感覚なんだよ、言葉じゃない。いくら考えたってだめだ。それは、水に入ったら泳げるみたいに、ピアノに指を置いたら弾けるみたいに、そういうもんなんだ。感じるしか、ないものなんだよ」

 そう言って黒井は僕を立たせてベッドに押し倒し、その性器を顔にこすりつけ、僕の左手を取って触れさせた。強引でも、乱暴でもない。まるで僕は催眠術にでもかかったように、虚ろな目で、されるがままになっていた。

「ねえ、してくんないの?こないだ、言ってくれたのに。俺の、中身・・・、また、出来るって、それを、感じるって・・・」

「ああ、言った・・・」

「じゃあ、してよ。感じたまま、そうしてよ・・・」

「・・・」

 どうしていいか、分からなかった。

 分からなくても、何かを期待されてるなら、そうしようと思う。

 でも、手が、動かない。

 震えるばっかりで、それを受け止められない。

 舐めようとしたって、口が開かないし、舌が出てこなかった。

「・・・したくない?出来ない?」

「・・・」

「こんなこと、おかしい?普通じゃない?」

「・・・」

 ・・・もちろんおかしいし、普通じゃない。

 でも、あの時感じた「おかしいよ」とは、もう根本的に違っていた。 

 今、手も口も動かなくても、下半身はちゃんと疼いていた。身体は無邪気に悦んでいる。お前を欲しがっている。

 でも。

 好きでもないのにこんなこと、おかしいよって。

 それは、お前にとってはおかしくなかったわけで、そして、だから好きなんだよねって期待も、真っ二つに割れた。

 だから、お前は血まみれの指を舐めたけど、僕はこれが舐められない。

 頬が、熱い。少しとろみのある液体が、垂れてくる。

 ・・・こうしてくれるのを待ってた?

 こっちだって、何度妄想したか。

 どれだけ、お前のここを、今僕の顔に触れているそれを、想像したか・・・。

 それなのに、何で。どうして行為に移せないんだ。歯を食いしばったまま、屈辱的だなんて顔をしてしまう。そうじゃないのに。嫌がってるんじゃない、俺はお前のこと好きで、好きで、気持ち悪いほど好きで・・・、でもお前が僕のこと好きじゃないなら、いったい僕は、どうすればいいの・・・!

 ふいに熱は離れて、頬を両手で覆われ、おでこがくっついた。

「どうしたの?マヤちゃんは部屋に入れてくれたじゃん。座薬だって入れたし、お前、俺にだったらこういうことされてもいいって言ったじゃん」

「・・・そう、だけど」

「してくんないの?俺はまた一人でしなきゃなんないの?」

「・・・知らない、知らないよ。もう、知らない。わかんない・・・!」

「諦めないでよ。俺のこと本当は知ってるんでしょ?感じてよ。ねえ、俺のここ、感じてよ!」

 黒井は僕の左手を、今度はその左胸に当てた。思ったよりずっと速く、強く、心臓が跳ねている。こんなに、・・・生きてる。

 俺だってそうしたい。本当は、そうしたい。お前が俺のこと好きだろうがそうじゃなかろうが、お前のモノを舐めて、出てきたものを飲み込んでやりたい。それがお前の好きって行為なんだって、そう信じて満足して眠りたい。

 でも、・・・でも!!

「じゃあ、何でどっか行くんだっ!!」

 黒井の手を払いのけて起き上がり、正面からその顔を見た。初めて、醜いと思った。お前にこんな顔があったなんて、こんな表情をした、こんな一面があったなんて、俺は今まで、お前のこと何も見てなかった・・・。

 たぶん、それ以上の醜さで、僕は「何で隠してたんだよ」と言った。相手の意思もくそもない、最低なせりふ。褒めて欲しいの、認めて欲しいのって、自分ばっかで、相手のことはなじるばかり。その気持ちを推し量らないから嫌われるんだ。喧嘩のとき黒井に言ったことはそのまま自分のことだった。黒井に刺さってないなら、きっと本当にそうじゃなかったんだろう。真実を言い当てれば必ず突き刺さる。

「もうすぐ行っちゃうやつに、何も言われたくないよ。言われたってしょうがないよ。千葉だって?別に、行けるけどさ。お前のモノを舐めに行ったっていいけどさ!でも・・・ねえ、今ここで何言ったって無駄だよ。来週にはいない人に、何を話したって無駄だよ!!」

 ・・・。

 ・・・黒井は言い返してこなかった。

 ただ手で顔を覆って、うつむいて、倒れこんだ。

 ・・・やっぱり、本当に、行っちゃうんだ。

 何だよ、1%くらい、それは嘘だとか勘違いだとか、言ってくれるかと期待したのに。

 優しく「ねえ」と言っても、黒井はうめくばっかりで、今まで見たこともないダメ男だった。下半身丸出しで、ベッドの上でもぞもぞうごめいて唸っている。気持ち悪い。誰だこれ。これに比べたら俺のほうがいい男なんじゃないの?もう、お前なんかどっか行っちゃえ、変態!このホモ野郎!

 ・・・まあね、真実は自分に突き刺さる。お前には刺さんないんだろうよ。

 僕が「行くなよ・・・」とつぶやくと、黒井がむくりと起き上がり、無言で僕を強く抱きしめた。そうしてほしかった強さで、そうしてほしかった、あたたかさで。



・・・・・・・・・・・・・・



 抱かれた腕の強さと、体温と、首筋の匂い。

 だんだんとその手のひらに力がこもり、我慢したように痙攣し、とうとう「くそっ、もう、したいよ!」と言って、黒井は目を合わせないまま僕に強く口付けた。その少し長めの舌が入ってくる。その一瞬で身体が桃みたいにとろけて、熱くて甘いそれに自分の舌を絡めた。俺だってしたい。俺だってしたい!!お互いの息がどんどん速くなって、荒い呼吸が更に興奮を誘う。薄く目を開けた時、ちら、と部屋の鏡が見えて、Yシャツ姿の男二人が抱き合って貪るようにキスをする姿が映っていた。違和感。おかしい。気持ち悪い。でもそれで萎えるどころか、腹が燃えた。もっと、もっと、ああ、互いに求め合って、こんなの、気持ちよすぎる・・・!

 黒井はどうしても自分の中身を僕に届けたいようで、あの時の「二度としないキス」と同じくまた唾液を寄越してきた。僕はそれを流し込まれる前にじゅるる、と吸い込んで、喉を鳴らして飲んでやった。いくらでも、飲んであげる。唾液でも、精液でも、血液でも、何でも。

 声が、漏れて、黒井の低い喘ぎと僕の悲鳴のような息継ぎが部屋に響く。酸素が足りなくて、苦しくて、頭が白くなっていく。

 したい、したい、もう、どこまでも。

 身体も、その舌も口の中も全部、極上の香り。お前は美味しい。舐めまわす舌の感覚と、ちらと見える客観的な視覚と、どんどん血が集まる下半身とが全く別の回路で、でも色が重なるように混ざり合って、でも、それでも、気持ちだけは湖の底にいるみたいに、冷たいまま、透明のまま、ついて来なかった。たぶんそれは、黒井のことを忘れて、好きだってことも忘れようとして、そして時間が止まってしまった僕だ。こうしてまた動き出して、もう凍った湖から出てもいいはずなのに、でも、その僕はまた涙で湖の嵩を増しながら沈んでいった。

 だって、だって・・・こんなことしてるのは、・・・もう、最後、だから・・・?

 爆発しそうになっていたものが、急に失速して、拡散して、現実の輪郭が浮かび上がる。二人分に拡張していた自分の感覚が一人分に戻されて、腕の力が抜けた。

 ・・・。

 こらえきれなくなって、唇を強引に離し、襲いかかってくるその肩を押し戻して、叫んだ。

「もう、会えないの!?これで、終わり?ねえ、異動とか、そんなの嘘だって言ってよ・・・!」

 ・・・黒井が急に力を抜いて、「・・・いどう?」とつぶやいた。

「・・・行くんでしょ、千葉支社・・・」

「・・・支社?支社には、行かないよ」

「・・・えっ」

 違うの?嘘なの?

 荒い息をして、何度か咳込みながら、黒井は言った。

「支社じゃない。だから、千葉の、あそこ」

「あそこ?」

「俺たちが、会ったとこ。研修の・・・」

「え、ああ、あれも千葉か。でもあんなとこ、何しに・・・」

「だから、研修」

「研修?」

 小嶋さんみたいに、研修講師になるの?でも、あんなとこで、毎日セミナーやってるの?

「・・・今年は、あっちでやるんだよ。俺たちみたいに」

「え、どういう、こと?」

「今まで人数が少なくて、本社で研修やってたけど、今年は多いから、また千葉でやるって」

「・・・はあ?」

「本当は俺、半年で本社に戻ることになってたんだけど、また松山さんにだだこねて、絶対戻らない、支社にいるって、・・・でも、研修だけは人手が足りないからって。それからのことは、まだ決定じゃないんだけど、でも、一ヶ月やればまた、このままいられるかもしれなくて。だったら、一ヶ月、我慢しようって・・・」

「いっかげつ?」

「うん」

「一ヶ月って、一ヶ月?新人研修の、あの一ヶ月?」

「そう。・・・もしかして、お前、俺が千葉支社へ行くと思ってた?」

「お、思う、よ。だって、千葉に行くって・・・」

「は、はは。行かないよ。千葉支社行くなら辞めるよ」

「な・・・お、俺、勘違いして・・・。はあ、一ヶ月?たったの、一ヶ月?」

「たったのって、一ヶ月って長いよ!」

「あはは、そうだな。確かに長い。うん、長かったよ、この一ヶ月」

「おい、俺がどんだけ悩んで、決めたと思って」

「知らん。知らないよそんなことは。はは、何だ、一ヶ月か・・・」

 僕は力なく笑って、倒れ込んだ。



・・・・・・・・・・・・・・・



 何を考えたらいいのか、よく分からなかった。

 順不同で、落ち葉みたいにいろんなことが去来する。


 ・・・展示会、どうしよう。撤収だけでも手伝いに戻るべき?

 会社に戻って残業する?

 ああ、一ヶ月って話・・・。

 っていうか、俺、嫌われてたんだ・・・、はは。

 嘘つき。温泉の帰り、俺のこと好き?って訊いたら、うんって言ったくせに。

 あ、なんか、めまいがぶり返す。

 隣に、いるんだよね。黒井彰彦が。

 来月、どうなるんだろう。

 っていうか、研修で黒井のこと軽蔑したとか、覚えてないよ・・・。

 お前はどうしてそんな相手と一緒にいたんだ。

 っていうか、確かめたいことを確かめたら、そして、その真相を話したら、これで、終わりかな・・・。

 四月になるんだ。春だなあ・・・。

 ホテルとか、来ちゃってるよ。隣で、寝たりして。

 ・・・ああ、また、キスしちゃった。

 これは、嬉しいって気持ち?心臓だけは早鐘みたい。でも、これが好きってこと?

 わかんないね。お前の言うとおりだ。

 結局、俺がお前のこと、好きなのかって、話だ。

 もし好きじゃないなら・・・、戻ったかと思った恋心が、嫌いだと言われて冷めたのなら、それはそれだ。一ヶ月離れようが、転勤だろうが、関係ない。それだけのこと。収まりが悪いなら、今まで俺はお前のこと好きだったって告げて別れたらいい。お前がそんなもの抱えて俺とつきあってたって知らなかった、でも俺は本気で好きだった、って・・・。

 ・・・でも。

 やっぱり好きなら、どうすればいい?

 今までどおり、には、どうしてだろう、なれる気がしない。

 友達のふりして実は好きだなんて、何でだろう、そういうんじゃない・・・。

 でも、だからって、今ここで告白するの?

 ・・・いや、それは、少なくとも十二月から二月までの話。

 過去の告白をしたってしょうがない。

 結局は、今、今のこの瞬間、僕がどう思っているのかだ。

 話を聞いて、真実を知って、そして、どう思っているのか・・・。

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