第144話:僕の中身は、お前で出来てる

 考えは何もまとまらないし、今日、今、これから何をしたらいいかも分からなかった。

 黒井が「だから、一ヶ月待ってて?」って言ってくれれば、それだけの話になりそうだった。僕も笑って、「頑張って来いよ。新人の女の子に手出すなよ?」で終わりだ。・・・もしかしたら今隣で別のことを考えながら横たわってるお前も、僕にそう言われるのを待ってるんだろうか?それは分からない。

 ただ、部屋に帰って寝たかった。

 もう何も考えられない。ここに、このまま泊まって行こうか。でもなぜか、自分の家に帰りたい気がした。非日常で流されるんじゃなく、自分の巣穴にこもって、ふわふわ漂ういろんなものがあるべきところに沈んでいけばいい。それまではどんな考えも感情も保留にしようと思った。

 ・・・とにかく、帰ろう。

 そうと決めたら、そうすることにした。いったん再起動をかけないとシステムは動かない。帰ることだけを考えよう。

 ゆっくり起き上がって、「俺、帰るよ」と言った。

 黒井も半分起きて、「・・・ねえ、俺」と僕の腕をゆるくつかむ。どうとでも取れそうな声のトーン。ねえ、俺、さみしいよ。ねえ、俺、お前のことまだ許してないよ。ねえ、俺、さっきの続きを・・・。

 やんわりと腕を退けて、背を向けてズボンを履き、手探りでベルトを探した。カーテンから漏れる光が暗くなっている。もう夕方だ。

 風呂場に行ってオレンジの明かりをつけ、顔を洗った。黒井の先走りと唾液を水で洗い流す。何かを考えてしまいそうになり、目を閉じて頭を振った。深呼吸してフラットに戻す。微かなめまいと動悸と、胸の痛みだけが残った。それでいい。今はそれだけで。

 部屋に戻ると目が慣れなくて、何も見えなかった。しばらく突っ立って、コートと鞄と靴を見つけ、身支度を整えた。黒井はそこにいるのかいないのかも分からないほど静かに、じっとしていた。

 ・・・なんて声をかけて部屋を出たらいいんだ?

 僕はベッドの下に落ちている黒井のズボンを拾って椅子の背にかけ、上着もその上からかけた。そして手に残った下着は、ベッドの上にそっと置いた。

「パンツ、履けよ。風邪引く」

「・・・わん」

 表情は、見えない。もう泣きわめいて爆発しそうになるのをこらえ、「犬でも、履け」と声を絞り出した。あとは振り返らないで、部屋を出た。


 受付で時間分の清算をし、部屋でなく人数分だというので、二人分払った。お連れ様は、と訊かれても、分からないので訊いてくださいとしか言えない。このあとしばらく部屋にいるのか、このまま泊まるのか、でも僕を追ってすぐ出て来ることはないようだった。

 何となく淡々と済ませたけど、ちょっと考えたら、一体どういう関係だって思われてるかも。いつもなら仕事の打ち合わせですという顔で取り繕うのに必死だろうけど、今は、もう何でもよかった。

 外に出て、またコンビニに入ってお金を下ろし、じゃんじゃん通りかかるタクシーを拾って「新宿まで」と告げた。一人で乗るなんて、久しぶりだった。


 新宿で降りて、誰とも会いませんようにと思いながら京王線に乗った。今更展示会をサボったのが心配になってくるけど、検収書に比べたら何ともないだろうと言い聞かせた。それに、仕事を抜け出してホテルにやりにいったなら気も咎めるが、本当に具合が悪かったんだ。・・・事実としては、同じことかもしれないけど。

 何かを考えたいような、でも考えたくないようなで、結局心に重いものを抱えたまま家に帰った。それはだんだんと重さを増して、部屋についたらまたスーツを脱ぎ散らかして布団に倒れこむ羽目になった。枕に突っ伏した頬が、じわりと痛んだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 どうして殴られなきゃなんないんだ、という怒りが、「鍵かけんなこの野郎!」という声でかき消されていった。うちのドアを叩いて藤井からの封筒をつきつけた黒井。開けておいたら駆け込んできて、全裸の僕を抱きしめた黒井。だめだ、だめだよ。そんな記憶ばかりが溢れてくる。写真を燃やしたいような切なさがせり上がってくる。嫌だ、そうじゃない、好きだって気持ちが<好きだった>にすり替わってきてる。おい俺、勝手に諦めるな、まだ何も、何も・・・!

 溢れそうになるものを必死に押さえつけた。外に出すな、出してすっきりなんかするな。中に閉じ込めて、あるべき場所におさめるんだ。ゆらゆらと沈んで、クラゲみたいに積もればいい。湖の底に、積もっていけばいい・・・。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 深く、深く、暗い青の中を潜っていった。

 何かを手に持っている。小さな箱のようなもの?

 底にたどりついて、それを、置いた。小さいけど重くて、聞こえるわけじゃないけど、どん、と泥だか土の上に落ちた。少しめり込んだかもしれない。

 それから僕は上に向かった。徐々に水圧が減って、楽になる。青も薄くなる。

 綺麗なブルーじゃないんだよね。藍でも群青でもない。ただ暗くて、でも、黒じゃない。

 何て言ったらいいんだろう、この色。

 どんなに見えていても、うまい比喩も出てこないし、見せることも出来ない。

 色見本でもあればなあ。でも、色っていうより質感なんだ。分厚いガラスみたいな、でもその中で煙のようにゆらめく、匂いさえするような青・・・。

 やがて水面に近くなると周りは透明になって、明るくなって、世界が白っぽくなった。目を開けると、カーテンを開けっ放しだった窓から灰色の曇り空が見えた。ここはどこだろう。これは朝?今何時?

 体を起こすと、頭が、軽かった。

 頭痛もないし、目も痛くない。腹が減った。

 めまいもなく起き上がって、冷蔵庫をあさった。卵しかなくて、目玉焼きにした。

 キッチンの時計を見ると、六時前。久しぶりにコーヒーも淹れた。はちみつを入れたら、甘かった。

 ・・・どうしたんだろう。何もしていないのに、大丈夫になっていた。何も整理してないし、向き合ってないし、考えてない。あまりに膨れ上がって自分でも制御できなかった感情が、何事もなかったかのように落ち着いている。しかも、何かを隠したり、抑えたり、大丈夫なふりをしているわけじゃない。僕は僕のままで、ありのままの、ヤマネコウジだった。


 携帯のメールを見て、黒井からの<ふざけんな>とか<どっかで倒れてんの?>とか、<俺を、頼れない?>とか、読みながら苦笑した。そして気がついた。僕は黒井が好きだ。過去に何があろうが、僕のことが嫌いで近づいたんだろうが、何の関係もない。僕のことを好きかどうかもどうでもいい。好かれてないなら死ぬなんて、馬鹿みたいだ。それに、キスとかセックスとかも置いといて、ただ、想うだけで胸が熱くなるってこと・・・。お前は自分の中身がないと言い、僕にはそれがあると言った。でもそれは、あはは、分かったよ。俺の中身はお前だ。お前がいる限り、僕の中身は厳然とあるんだ。この一ヶ月それがなくて、僕はお前と会う前の僕に逆戻りして、会社に依存しても誰も応えてはくれないから、たぶんきっと、そのままなら三月で何かが切れていた。

 でも今それがちゃんと繋がったから、大丈夫だ、生きていける。会社にも行けるし、キレずに洗濯物もカゴに放り込める。

 だから、これからの一ヶ月お前がいなくても、大丈夫だと思う。だって死ぬわけじゃない、存在してるんだ。なら、感じられる。魔法の石がどこにあっても、きっと僕にはそれが感じられる。

 どうしてだろう、昨日はもっといろいろなものが混ざり合って、何をどうしたらいいか、焦るばかりでどうしようも出来なかった。でも今は、ただ黒井彰彦という存在が、あまりに・・・。

 ・・・何だろう、言葉には出来ないな。

 あまりに素敵?あまりに愛しい?違う、もっとこう、信じがたいような、奇跡?

 ・・・ブラックホールみたいなものかもしれない。あるいは、素粒子のような。

 見えないし、触れないけど存在していて、どうしてそうなってるのかはまだまだ分からなくて、そして、純粋で、俗っぽくなくて、うん、あまりに・・・はは、だめだ、とにかく胸が熱くなるんだよ。

 ぼうっとしてたら時間がなくなって、急いで着替えて家を出た。携帯用の電気シェーバーだけ鞄に突っ込んで、遅刻ぎりぎりではないけど、駅まで走った。

 

 会社に着いて、トイレで顔を洗って歯を磨き、髭を剃った。

 それから席につくと、課長から「おう、昨日は大変だったな」と言われた。

「はい?」

「利根さんから聞いた。あいつも、ちょっと参ってるみたいだな」

「え、あ・・・、はい」

 一瞬考えて、ああ、具合が悪くなったのが黒井だってことになってるんだ、と思い当たった。

「まあなあ、うちの人事もいつも突然だしな。あいつもやっと慣れてきた頃だろうし。お前も、あとちょっとだけど、まあフォローしてやって」

「は、はい。そう、ですね」

 二人で何となく黒井の席を見るが、まだ来ていなかった。そういえばあの後どうしたんだろう。急に心配になってフロア中を見回す。まさか、このまま来ないなんてこと・・・。

 その時奥の方のドアから何人かが入ってきて、その塊から一人だけこちらに歩いてきた。よく見えないけど、あれは黒井だ。ちゃんと来た。俺の黒犬。

 僕は立ち上がってそちらに向かい、もう小走りで駆け寄った。驚いたような、戸惑いの顔。ふと課長が見ているかもと思い出し、「クロ!」と抱きつくのを直前で我慢して、「おい、大丈夫だったか?」と肩や腕を軽く叩いた。

「な、何だよ」

「よかった。来たなら、よかった」

 もう、笑みが漏れた。自然にこみあげて、歯を見せて笑った。

「何だよ・・・」

 黒井は繰り返し、でも、つられて恥ずかしそうに笑った。「もう、何・・・」とはにかんで、戸惑いの表情が見る間に消えていく。ああ、僕から、笑いかけた。僕がそれを溶かした。今までずっと待ってるだけだったけど、もう、いいだろ?だって、もうすっかり嫌われてたって分かったんだから、あとは這い上がるだけだ。僕はもう一度その腕を叩いたりさすったりして、「もうちょっと、よろしくな」と言った。黒井は軽くため息をつき、「・・・そうだね」とちょっと寂しそうな笑顔を見せ、僕の手を取って握手した。名残惜しく手を離して席に戻ってから、ああ、来週にはいないのかと滝のような喪失感が襲ってきて、それでもまだ大丈夫な自分が不思議だった。でも、大丈夫だって、感じた。僕の中身はお前なんだから、そう思えば何も怖くない。昨日までのように、僕がそれを忘れなければ、一ヶ月、待てそうだよ。

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