第255話:父の写真を見る
「みんなでマンゴーを食べますよ。怪談は終わりましたか?」
引き戸が開いて、お母さんが「あら、暗くしてないの?」と言い、そしてすぐに鼻をひくつかせた。
「・・・ちょっと、何のにおい?」
黒井がしれっと無言なので、僕があたふたする。
「え、えっと、その・・・」
「何か燃え移ったの!?」
「いえ、そういうわけじゃ・・・」
明るい部屋で何となく所在なげに立っているろうそくに視線が集まる。さっきより短くなって、溶けたろうがカンの底で白く固まり、倒れたり燃え移るような感じはない。
「・・・花火をしてました」
ひと息ついて、とうとう黒井が白状した。ハイハイ、やってましたよ、って感じで。
「え?花火って、ここでですか?」
お母さんが手で、ふつうの花火を持つような、つまり、ホースで水まきするようなジェスチャーをする。黒井は違う違うと言って、催眠術の五円玉を持つような手つきをしてみせる。
「線香花火ですってば。そんなに火は出ません」
「ええ?」
どうもお母さんは花火という単語ですっかり動転しているのか、火が飛ぶでしょう!と部屋中を見回した。いや、僕だって非常識だとは思ったけど、やっぱりふつうの花火じゃなく、線香花火だからこそ大丈夫だと思ったわけで。
「だーかーら、あの・・・さ、最後に、小さいちゅうをする花火ですよ」
たいそうバツが悪そうに黒井が言う。何だか聞いてるこちらが照れてくる。ち、小さいチュウだって!?クロのやつ、いつもみたいにあっけらかんと「チュってするやつだよ。何かかわいくない?」とか言えば何ということもない話なのに、どういう回路でそれが、僕から顔を背けてこちらが向けないほど恥ずかしいことだと位置づけられたんだろう?
・・・どちらにしても、めずらしいものを見れて、眼福。目に焼き付けとこう。
「あ、ああ、線香花火ね。いや、でも最後に落ちるでしょう。あれはどうしたんですか」
「そ、それはちゃんと水に」
「・・・はあ、呆れた。呆れまし、た。呆れて声が出ま、せん」
お母さんは「はあ~」とため息をつき、障子を開けて勢いよく窓を開けた。「声、出てるよ」と黒井が余計なことを言い、「だまらっしゃい」とたしなめられる。僕はひたすらうつむいて、笑っていいのか反省会なのか、態度を決めかねていた。
「やまねこさん」
「は、はい」
あ、反省会か。
「あなたもねえ、この人につきあって何でもやったらいけませんよ?とんでもないことになるんですから。あのねえ、常識というものがないんですよ。まったく、どーこに置いてきてしまったんだか。いつだったかもほら、電車で、えーと」
お母さんは言いながら、黒井の頭をぽんぽんとはたいた。ん、結構容赦ない音。
「んもう、お母さんいいじゃないそのことは。ほら、マンゴーじゃなかったんですか?俺マンゴーフラッペがいい」
「ええ?フラッペ?かき氷機は捨ててしまいましたよ」
そうしてぞろぞろとリビングに下りて、上等そうな箱入りのマンゴーをお母さんが果物ナイフでするするむいて、そのそばから、お姉さんといくと君も、みんなで食べた。お姉さんが「はあ?花火ぃ!?」と眉をひそめ、黒井が「ね、ねえ、お前もこのくらいむける?」なんて必死で話を逸らし、僕にマンゴーとナイフを押しつけた。
「え、お、俺?」
まあ、僕だって非常識の称号を与えられる前に話題を変えたいのは山々で、ちらっとだけ、暗黙の共犯関係。
「こんな、マンゴーなんて自分で買わないし、むいたことないけど・・・」
うちには果物ナイフなんてないし、肉も野菜も(魚は干物をグリルで焼くだけだ)全部同じ包丁一本でやってしまうから、慣れてないんだけど。
それでも、ナイフを持って果肉に刃を入れたら、あ、何だ、いつもやってることじゃないか、と落ち着いた。
「あ、ああ、桃みたいな感じだ。種が意外と大きいんですね」
「そうよ。でも結構、種のすぐ近くまで美味しいですよ。あら、上手上手。さっちゃんより上手ね」
また、褒められた。
まるで小学生を褒めるような感じだけど、素直に嬉しくなってしまう。僕も案外単純なのか?
しかしすると、比較されたお姉さんから少し不満げな声。
「ええ、そうかなあ?・・・うーん、そうかも。え、おうちでも包丁でやる?ジャガイモとか、ピーラーじゃなくて?」
「え、いえ、全部包丁です。最初は皮むき器使ったけど、洗い物が増えるのが嫌で」
「ええ?洗い物、って、たった一個じゃん。じゃあリンゴとかだけじゃなく、何でも包丁でむくの?」
「はい、まあ、何でも」
喋りながら、ちょっとだけいい気になって刃をすべらせ、種の方へ刺さってしまうけど、ちょっと戻って角度を上向きにし、スプーンでくり貫くみたいにはぎ取る。それを皿に並べていくと、黒井とお姉さんのフォークが交互に伸びた。ふうん、やっぱり果物ナイフというだけあって、小回りが利いてやりやすい。うちでも買おうかな。
それから黒井が、僕が包丁で何でもむいて、じゃんじゃか切ってさっさと焼くんだとお姉さんに力説し、どうやら主婦歴は長くなく、料理はそれほど得意でないらしいお姉さんは「ふうーん」と少し口をとがらせた。しかし最終的に「でも、自分のことじゃないじゃん。自分は出来ないんでしょ?・・・でしょ?」とやりこめられる。男女で雰囲気は違うけど、よく聞いていれば口調はそっくりな姉弟だ。ミーハーで現実的な姉と、注目されたがりで道化の弟。
あらかたむき終わった僕は渡されたぬれ布巾で手を拭きながら、しかし、お姉さんの不機嫌の矛先はふいに僕に向いて、「そんだけ出来るんじゃ、彼女はいらないよね。ねえ?」と。
「え、えっと」
「だってみんな自分で出来るんだったらもういいじゃん。え、彼女いる?」
「いえ、それは」
「俺出来ないけどいないよ」
「聞いてない」
「あの、いや、・・・そういう人は、いないですけど」
「あ、やっぱりね。それ、自分で出来ちゃうからだよ。だって女の子だってさ、本音はイヤじゃない、そういうの。自分より家事が全部うまいとかさ、ねえ」
「それじゃ俺は?」
「聞いてない。うるさい。・・・ま、それかさ、キャリアウーマン的な人を狙ったらいいよね。会社にそういう人いないの?」
「え・・・そ、そうですね。華のない部署でして」
「あれ、営業部だっけ?」
「はい」
「あー、それじゃねえ・・・」
そして、お母さんがピシャリと「ほら、余計なお世話ですよ。人間、好きなように生きたらいいの」とたしなめ(微妙に慰められている?)、お姉さんは「まあ、そうだね。うん、なるようになるよ」と(こちらも?)。それからいくと君にマンゴーを食べさせながら、「お料理が出来ても、出来なくても、彼女がいませんね。いくちゃんは真ん中くらいがいいねえ」と僕たちをからかった。人によってはカチンときたかもしれないけど、僕はそんなことより黒井と一緒になりたかったので、「いやはや、まったく、ハハ」と笑った。
・・・・・・・・・・・・・・
広いシャワー付きの洗面台で歯を磨き、「それでは、おやすみなさい」とお母さんにご挨拶。「花火をしないで寝なさいね」と微笑まれ、あははと苦笑い。
黒井が先に階段を上がったので、僕はちょっと引き返して、「あ、あの」と、一応昨日の寿司のお金のことを切り出した。つい、何でも甘えてしまいそうになっているけど、ここは余所様のお宅、余所様のお宅・・・。
「まあ、いいのよそんなこと。こんな時でもないとね、みんなで食べに行くなんてありませんから。にぎやかで、よかったですよ」
「はあ、じゃあご馳走になってしまっても・・・」
「お気持ちだけで結構ですわよ。そうね、その分、ご実家のご両親にでも、ご馳走して差し上げませんとね」
「・・・」
僕が一瞬口ごもると、「あ、ああ、ご両親はその、ご健在でいらして?」と。
「え、ええ、まあ・・・」
「そういえばお盆も、そちらには・・・?」
更に曖昧ににごすと、何となく訳ありと思ってもらったのか、それ以上言われなかった。
「ほら、うちはねえ、その、こうでしょう。親孝行、したいときには・・・って言うけど、まあ、分かりませんからねえ・・・」
「え、ええ・・・」
たぶん、健在なうちに親孝行しておかないとね、ということだろうが、何となく、してもしなくてもなるようにしかなりませんよ、というようなニュアンスも含まれているような気がした。しかし僕はそこにつっこむのもはばかられて、「あ、あの、そういえば・・・」と、遺影に手だけでも合わせたい、的なことをもごもごと伝えた。
「うーんとね、そういうのはないのよ?」と、まるで「今お味噌切らしてるのよ」みたいな言い種。ああ、やっぱり<そう>なんだ。
それでも、一階の和室の隣の、納戸みたいな小さい部屋に案内された。僕でも、立って並ぶと見下ろすくらいの、部屋着だとやはり年相応の、三十歳の息子がいるお母さんだ。
「これくらいかしらねえ。でもまあ、拝むようなもんじゃありませんのよ。お線香もねえ、ほら、辛気くさいから、アロマのこの、アロマスティック?ふふふ、これだけね、月命日に焚きますのよ」
お客さんも次々来ますでしょう?アロマは好評なのよ?と、茶目っ気たっぷりに。さがっているカレンダーには、上半分は影絵のようなカラフルな絵画、下の日付の部分は、<着付け><編み物><洋裁>と、予定がびっしりだった。着付けの先生だけじゃなかったのか。
「これは、えーと、イタリアかしらね」
渡されたスナップ写真には、外国の街に、何人かの日本人男性。
「え、えっと、お父さん、ですか?」
「ええ。この、・・・このアロハシャツ」
写真を遠ざけて瞬きし、「うん、これですよ。何だか場違いねえ」と。
・・・これが黒井の、お父さん、か。
アロハシャツに短パン、サンダル。サングラスに、肩くらいまで伸びた、ウエーブの金髪くらい茶色い髪。口ひげをたくわえた、ちょっと外人ぽい顔立ちの、痩せた男性だった。
・・・まあ、遺影とは、ほど遠いけど。
快活そうな雰囲気だが豪快というほどでもなく、しかし自信に満ちて、何かを目指している感じ。ああ、もしかして黒井が胸に<それ>を持って演劇部にいた頃、こんな表情をしていたんだろうか。
「それは何かの研修かしらねえ。ちょっと前のですけどね」
「そう、ですか。・・・その、去年、ですか?」
「いや、もっとずっと前よ」
「あ、いえ、その・・・他界、されたのは。その、僕その頃まだ、親しくなくて、知らなくて」
少し間をおいて、「うん、うん、そうね、病院にかかったら、あっと言う間でしたからね」と。
「さあさ、いない人を見ていても仕方ありませんよ。お二人ともまだ若いんですから、存分に人生を謳歌しませんとね」
「・・・は、はい」
「別に、何かすごいことしようってしなくてもね、楽しく生きていればそれで十分なんですよ。その、さっきの話じゃないけど、結婚だってね、しようとしまいと、どこで誰と何をしようと、結局人は最後は一人なんですから。自分で後悔しなければそれでいいんです」
「・・・それは、そうですね」
階段を上がる僕に、ほんの触れるか触れないか、腕をぽんとされ、「おやすみなさいませ」と。気持ちのまま、喉まで何かがせり上がってきそうだったけど、「はい、おやすみなさい」と抑えた声で答えた。
・・・・・・・・・・・・・・
「もう寝てるよ、何してたわけ?」
「・・・何でもない。昨日の、寿司代を、ちょっと」
「はあ?お金払ったの?そんなんいらないじゃん」
「いや、別に、そうじゃないよ」
二組の布団の真ん中にごろ寝して、足の指でふくらはぎを掻きながら、「まさかあの電車の話じゃないだろうね」と。我が王子はいったい何をやらかしたのやら。
適当に濁して寝間着に着替え、黒井を向こう側の布団へ押しやった。何だか急に懐かしいような、変な気分だ。
「電気消してよね。もう眠い。おやすみ」
「うん。おやすみ」
ひもを引いて、かち、と電気を消すと急に真っ暗になった。さっきはこれほどじゃなかったのに、と思い、ああ、障子が暗いんだ。雨戸でも閉めたのか。
手探りで布団に横になり、肌掛けをかけた。じっとしていると、湿ったにおいや、外の雨の音がよく聞こえた。ちょっとした外の音や、あるいはすぐそばに冷蔵庫やルーターがなかったりとか、また、家の構造の、気圧の違いみたいなものがあって、微妙だが、自分の家とは確かに違う感覚。
「・・・起きてる?」
「・・・起きてるよ」
「あの、さ」
「眠いんじゃなかったの?」
暗闇から聞こえる黒井の声はやはり心地いい。そして、さっきの写真の男性が浮かび、何とも言えない感じ。
「あの・・・してもいいよ」
「えっ?」
「・・・怪談。お前そういうの好きでしょ?したいんじゃないの?」
か、怪談ね。びっくりさせないでよ。
「べ、別に、そういうわけじゃないよ」
「そうなの?」
「・・・ま、まあもちろん嫌いじゃないけど、でも、別に、自分がうまく喋れたりするわけじゃないし」
そう、こうして静寂の中で喋ると、自分の声が、やっぱり嫌なんだ。お前がしてよ、聞いてる方が好きだから。
「別に、うまくとか関係ないよ。その、怪談話っていうかさ、何だろう、お前の体験談とかないわけ?」
「え?ないよそんなの。霊感だの、あるわけじゃあるまいし」
「何でもいいよ、UFOを見たとか、不思議なことがあったとかさ」
「・・・」
しばらく思い返してみるけど、そういう記憶はストックされていなかった。幻覚は見るけど、それは幻覚だって分かって見るから不思議体験でも何でもない。
「・・・あれ、寝ちゃった?」
「履歴を洗ってただけだ。そういうのはないよ」
「うーん、じゃあ、お前の好きな小説とか、そういうのの話でもいいよ」
「ええ?そんなこと急に言われても」
「昔好きだったやつとかさ」
「・・・もう少し絞ってもらわないと。ソートがかけられない」
「うーんと、じゃあ、ほら、真夏の夜の何とやら。夏の怪奇話?」
「夏、ねえ・・・」
そりゃ、むしろ僕が夏のミステリを読みたいのであって、話して聞かせるような・・・。
夏、夏・・・死体、きらりと光るナイフ・・・。
「そうだな、細かくはまったく無理だから、本当の大筋だけ・・・いや、やっぱり無理だ。あの緻密なディテール抜きでは何も怖くないし、あの推理と真相を説明するなら丸ごと朗読会をやるしかない」
しかし黒井はなおも食い下がって、「じゃあ、じゃあ・・・」と思案した。
「その、最初だけっていうのは?別に、推理のところはいいからさ、最初のさわりだけ。筋が違っても、お前の創作が入ってもいいから。・・・ね、いい?別に俺はその怖い話を正確に知りたいわけじゃなくて、ただ、夏の不思議な話を聞きながら寝たいだけなんだ。分かる?」
「・・・理解した」
「じゃあよろしく」
黒井が寝返りを打った気配がして、僕は指定された要件を反芻し、「それじゃあ話すけど」と、暗闇に独りつぶやき始めた。
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