41章:奇行、同棲、一円玉
(二人の関係や自分の感情について、気づいたり見直したり)
第344話:雨、ぶり返す欲求
朝・・・なのか昼なのか、薄暗かった。
ぼんやり目を覚ますと、ぴしゃん、ぴしゃんとベランダの手すりを雨が打つ音。
・・・土曜。しかも、月曜が祝日だから、連休だ。
とにかく眠くて、目を閉じたらまたすぐ眠りに落ちた。
ふと、もう一度目を覚まして、ベッドの上で振り向く。
誰も、いない。
・・・何だっけ。僕は一人でベッドで寝ている?
・・・クロが、いない?
昨夜のことを思い出してみる。確か、Yシャツを脱がされて、脇の下に指を突っ込まれて何だか変な気持ちになって・・・僕も黒井の脇に触れようとしたら暴れて大変なことになった。その後は半ばふて寝した気がするけど、それから本当に寝てしまったのか。
だって、蹴られた股間を「痛かった?さすってあげる」なんて笑いながら言われても、そんなの無理だろ。
ごめんと言われたけど、うるさいとしか返さなかった。まあ、そもそもくすぐりに弱いと知っていたのに脇を触った僕も悪いから、本当はおあいこなんだけど。
でも何となく、機嫌を直すこともなく寝てしまうというのを自分に許したのは、黒井に甘えてしまってもいいんじゃないか、なんて思ったからだ。
・・・耳を澄ますけど、雨音しかしない。
そうっと起きてキッチンの方に行き、トイレにも、風呂にも黒井はいなかった。
買い物、だろうか?こんな雨の中?
それともまさか、怒って出ていってしまった?
「クロ・・・?」
キッチンの電気をつけて、つぶやいてみるけど、誰もいない。
書き置きなどがないかと玄関を見てまわり、革靴は僕のと二足あって、少なくともスーツで出かけたわけじゃない。自分の鞄から携帯を出し、特にメールや着信もなし。時刻は午前十時半をまわったところ。もうこんな時間だったのか。
それから思いついてベランダの窓を開けたけど、もちろん誰もいない。白っぽい曇り空から、雨粒がいっぱい落ちてくる。
・・・クロが、いない。
こんなことは、今までなかった気がする。
もう一度風呂とトイレを見てまわり、無為に玄関までうろうろした。
・・・すると、部屋でグー、グーと携帯のバイブの音がして、ああ、クロかと思って駆け込んだらそれは黒井のスマホで、携帯らしき番号だけが表示されて震えていた。
つまり、黒井宛の、着信。
しばらくして留守電に切り替わったみたいだけど、そのまま切れた。
・・・どうしよう。
いや、どうするも何もないけど、しーんとした部屋で、急に不安になった。
まだ頭が働かなくて、状況が把握できない。僕が何を考えて何をすべきなのか説明してくれる僕はいなくて、ただ、悲しみみたいな不安が部屋に充満するばかりだった。
とりあえず黒井のスマホを握り、寝間着のトレーナー姿のまま、靴箱からスニーカーを勝手に借りて廊下に出た。エレベーターの前まで行って様子を窺うけど、土曜朝の単身者用マンションは静かだった。
たぶん、コンビニだろう。普通それ以外にない。こんな雨の中、わざわざ出かける用事なんて・・・。
・・・雨。
僕は気になって部屋の玄関まで戻り、そこにビニール傘が立てかけられているのを見て、なぜか急に、懐かしいような気持ちになった。
よく分からないけど、僕は確信した。
クロは、屋上にいる。
・・・・・・・・・・・・・・
エレベーターの中で、ああ、屋上のドアの鍵の四桁の数字は何だっけと必死に記憶と格闘したけど、R階に着くとその数字は既に「3187」と正解を示していて、ドアはそのまま開いた。
スマホだけ濡らさないようズボンのポケットに入れ、外に出る。
コンクリートの床の水たまりを避けて、雨の中、奥へと歩くと、真っ黒な塊。
黒いトレーナー上下でしゃがみ込み、柵の間から向こうの景色を見ている・・・みたいだった。
僕はしばらく、その後ろ姿を、ただ突っ立って眺めた。
今、同じ雨に、打たれている。
俺の、黒犬。
最近ずっと会社でのあれこれにかかりきりで、昨日の<親友>の黒井と、今そこにいるクロが、よく分からなくなる。会社では<親友>の僕たちだけど、今この瞬間は、いったい誰なんだろう?
「・・・クロ」
呼びかけると黒井はほんの少し振り向き、でも途中で止まって、顔は見えなかった。
「こんなとこにいたら風邪ひくよ」
たっぷりもう一呼吸おいて、黒井は、ゆっくり立ち上がる。
そしてこちらを向いて、やわく微笑み「おはよ、ねこ」と。
その髪はすっかり濡れて、前髪から頬へ、水滴が流れていた。
まるで、泣いているみたいにも見えた。
「・・・おはよう、クロ」
「探した?」
「・・・何となく、ここかと思って」
「そっか。・・・心配した?」
「少し」
「・・・そっか」
二人とも雨に濡れたまま、しばらく、言葉を探す。
先に口を開いたのは、クロだった。
「なんか、ね」
「うん」
「何か、ちょっと・・・時々やっぱり、・・・ぶり返す」
「・・・ぶりかえす?」
「その・・・もう、日常でいい、現実でいいって、思った・・・は、思ったんだけど。それで納得も、してるんだけど。でもやっぱり、どうも、・・・足りないって、こんなんじゃだめだって、ふいにそれがわいてくることがあって。やっぱ俺はこんなとこでこんなことしてらんない・・・って」
「・・・」
黒井は僕に再び背を向け、濡れた柵の手すりに躊躇なく両腕を乗せると、少し顔を上げて遠くの景色を見遣った。
「起きたらお前がいて、暗くて雨が降ってて、何かやっぱり、俺もっとすごいこと出来るし、やりたいんじゃないかって飛び出してきたんだけど・・・。ま、結局なんもなくて、でも何か、部屋、戻るに戻れなくちゃってさ、・・・そんで見つかった」
「見つかった?」
「お前に」
「ああ」
「呆れた?」
「別に、そんな」
「ね、抱かせて」
黒井はそう言うとこちらに近づいて、たっぷり雨がしみ込んで重くなったトレーナーの片腕だけ僕の首にまわし、抱きついてきた。
腹がひゅうっと透ける。そのせいで、首に触れる濡れた布の不快さも気にならない。
すれ違いざま触れ合った頬が、冷たく滑った。
「クロ・・・風邪ひくよ」
「うん」
「風呂、わかすから」
「う、ん・・・」
しばらくして、冷たい頬が戻ってきて、そのままずらすように、冷たい唇が僕の唇の熱を奪った。
「・・・んっ」
ぴちゃ、ぴちゃと、雨の音に、舌の音が混ざる。
その口の中は思ったよりあたたかくて、濡れて冷え切った手で首の後ろを触られたり、もう片方の手がトレーナーの中に入ってきて脇腹をつかまれても、僕はその熱だけを追いかけた。
「あんっ、う、んんっ・・・」
舌が大きく出入りして、雨粒とともにぬるい唾液も垂れていく。素肌をまさぐる手は、また僕の脇の下を直に刺激してくれるかと思ったけど、少し速くなる吐息とともに、下へ。
・・・爪を立てて、擦るように、ズボンとトランクスの内側へ、潜り込んでいく。
「んっ、・・・っ」
どこまで、どこまで触られてしまうのか、どうなっちゃうのか・・・。
混乱や焦りや、こんな所でまずいという気持ちが渦巻く中、その下層には、もう、僕自身を直接その手で触ってほしい、触られたいという思いがあった。でもその更に下では、クロが未だ<それ>を求める気持ちの<ぶり返し>に揺られていて、それをどうにかする一助になるなら、僕の身体を何だって使ってほしいと思った。
濡れた手のひらは、僕の身体の側面を、腰骨から、トランクスを通り抜けて太ももまで、まっすぐ下りていった。太ももを強くつかみ、時々擦るように撫でながら上下する。その動きと一緒にずれる布が、硬くなりつつあるものをくい、くいと刺激し、僕は腰を動かしたい衝動の代わりに舌を動かして、でもクロは逆に、舌は緩慢になって唇も離れていった。
「・・・はあっ、んん・・・、やまねこ」
「・・・う、ん」
「なんか、・・・感じる」
「・・・え」
「お前、バイブ、とか・・・いれ、てる?」
「・・・っ?」
尻の真横をぐっとつかまれて、僕は意味不明かつ卑猥そうなその単語に目を見開いた。よく分からないのに尻をきゅっと締め、羞恥心で声が出ない。
しかし黒井が腕を引き抜いて、あらためてズボンをつかむと、ポケットからスマホを引っ張り出した。画面が光っていて、黒井は「何だよ」と言って電話に出た。
・・・・・・・・・・・・・・
そうだった、そもそもさっき着信があって、それをどうしようと思ってスマホを握ってうろうろしてたんだった。
とにかく僕は後ろを向いて、電話の邪魔にならないよう、いったん屋上の入り口のひさしのところまで戻ろうと、足を踏み出した。
「もしもし?もしもしー?」と聞き取りにくそうに話す黒井の声。
たぶん、さっきの番号からまたかかってきたんだろう。名前を登録していない番号みたいだったし、きっと間違い電話か、何かの迷惑電話か・・・。
しかし、その時。
『・・・しもし、聞こえる?黒井くん?』
・・・。
黒井が受話音量を大きくしたのか、二、三歩離れたここからでも、電話の相手の、嬉しそうな女性の声が、はっきりと聞こえた。
目の前が真っ白になって、雨の音も消えた。
「え、もしもし?・・・誰だっけ」
『あ、えっとー、お久しぶり、イズミですけど、分かる?』
「・・・あー、思い出した」
その後は、女性が何かいろいろ、近況みたいなものをまくし立てていた。僕の足は完全に固まってしまって、どうしても、動かない。こんなところで電話を立ち聞きするなんてあり得ないのに、どうしても、動けなかった。
「へえ、そうなんだ。・・・えっと、それで、何だっけ?」
黒井が言うと、イズミと名乗った女性は『あ、それでね、もしあれだったら、連休だし久しぶりに・・・黒井くんに会いたいな、なんて』と。
・・・。
何だか、バターナイフで身を削られるような、内部の痛み。
ものすごく好意的に考えて、きっとまた同窓会みたいな集まりへの誘いだろうと思って・・・いや、思おうとしていた、けど。
今の『会いたいな』には、「久しぶりに集まろうよ」という意味ではない、僕にすら分かる男女の響きがあった。
あの演劇部の時の、同棲相手・・・だろうか。
いや、さすがにそこまでの相手なら名前を聞いて「あー、思い出した」はないだろう。
とするとつまり、あの高校時代の三人のセフレ(マユミちゃん、ユウコ、アヤちゃん・・・って何で覚えてるんだよ僕は)でもないし、大学時代の子でもない、また別の女性・・・。
『・・・どう?もし予定合わなかったら、別の日でもいいし』
「いや、あの、実は俺・・・」
『・・・うん、何?・・・もしもし?』
「今もう俺、付き合ってる相手・・・いる」
淡々と、そう告げた。それで僕は何だか、ああ、この男は色んな所でそれを言ってまわらなきゃいけないんだなと他人事のようにぼんやり思った。
『・・・えっ、・・・あ、なーんだそうなの?だってさ、彼女作らないって言ってたのに』
「いや、うん、・・・男、だけど」
『・・・ん?・・・男?・・・男と付き合ってるの?』
「そう」
『・・・えっ?・・・あ、いや、いいよ、嫌だったら普通に断ってくれていいからさ。そういう、変な嘘つかなくて』
「別に、嘘じゃない」
『・・・いやいや、別に、そういう趣味ないでしょ?いいって、ごめんね。また気が向い』
・・・。
そこでプツリと、声は切れた。
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