第266話:黒井のいない夕餉

「クロ、あの、・・・大丈夫?」

 とりあえず声をかけ、その背中を見る。もしかして手が震えてたのは、熱のせいもあったのか?

 その肌を眺め、肩やうなじや耳に視線をすべらせ、僕はもう少し近づいて、「大丈夫?」と再度訊ねた。

「・・・し、知らない」

 上擦った声が返ってきて、それで腹がひゅうと透ける。

「あの・・・お前、具合悪かった?ごめん俺、気づかなくて」

「知らないよ!お、俺だって、何でこんなんなっちゃってるのか」

「そっか・・・」

 言って、ゆっくり、その髪に手を伸ばした。少しすくって梳くと、黒井はきゅっと身体をこわばらせた。

 それで僕の身体も反応し、唾を飲み込む音が思った以上に響いて、呼吸が速くなった。

「・・・ねこ」

「・・・う、うん」

「なに、・・・してんの」

「え、あの・・・さ、さわりたくなって」

 ああ、何言ってるんだこれ、制御機能が働いていない。

「お、・・・おれのこと、さわりたいの?」

「・・・え、う、うん。ごめん」

 何だよ、昨日、お前は言ったじゃないか。人間なら、いつまでも他人面してないで触ってくれって言えよ、だなんて。

 あのお前はどこに行っちゃったんだよ。

 自分勝手で傲慢で俺様で、でもまっすぐで、性的に奔放であけっぴろげで、確信犯で煽るようにえろいことしてくるお前は、いったいどこに行っちゃったんだ。



・・・・・・・・・・・・・・・



 夕焼けで、窓の外はぜんぶ、あの寿司の炙りサーモンみたいな色になっていた。

 黒井はあれきり何も話そうとしないので、僕はお母さんから受け取った看病グッズをあれこれ整理し、またふと、手が止まる。

 クロから、告白、さ、れた・・・。

 い、いや、まずは看病だ。

 そうして、今まで僕が熱を出したりめまいがしたりで何度も倒れたとき、いつも黒井が必死に助けてくれたことを思い出した。自分はろくに風邪をひいたこともないくせに、僕をおぶったり布団に寝かせたり、病院まで連れて行ったり・・・。

 素直に、ありがとうと思った。

 そう思うといったん落ち着いて、とにかく恩返しってわけじゃないけど、一晩ゆっくり寝かせてやるべくあれこれ手が動いた。別に、逃げてるわけじゃないけど、まず先に看病したってバチは当たるまい。

「クロ、とにかくまず、服、着ないと。熱が余計ひどくなる。濡れタオルもらったから、これで汗拭いて、新しいの着て・・・」

 着替えのTシャツをすぐ横に置いて、体を拭くよう促すけど、黒井はこわばったまま動かない。いや、さっきは欲望のままさわっちゃって悪かったけど、今度は下心なく、純粋な看病だから・・・。

「た、頼むよ。お、俺も、今も色々混乱してるけど、でもまず身体が優先だろ?いったん着替えて、ちょっと食べて薬飲んだら、そのまま寝たらいいし・・・」

「・・・、・・・う」

 黒井が何かもごもごと言った。

「え、ごめん、聞こえないよ。何だって?」

「お、おれ・・・」

「うん?」

「・・・で、できない」

「え・・・。な、何ていうか、風邪とかじゃないくらい具合悪い?」

「ちがう、そうじゃなくて・・・」

 ・・・。

 待っても待っても続きはなくて、もう、とにかく布団だけかけてやったらいいのかと思案し始めたころ、背中は向けたまま片手がやってきて、後ろ手に探り探り、あぐらの上の僕の手をようやくつかまえた。黒井のその、やや骨ばって、大きめで、血管の浮いた手の甲を見ながら、よく分からないけどこの手だけは知っていると思った。ここにあって、握られていることに違和感がない。

 少し熱いその手を包んだり撫でたり、自分の膝に押し当てたりしながら、僕はだんだんと暗くなっていく部屋を眺めた。関節や爪の生え際だとか、指の間も、細かく彫り込まれた彫刻を手入れするみたいに少しずつ指でたどり、飽くことなく触れて、その間、何も考えていなかった。

 それから何だか、すっと、体の内側に、水を張ったような静寂。

 それはキレた僕とか、あまりの混乱でネジが飛んでる僕とか、サイコでサディスティックな僕じゃなく、そして理屈屋で完璧な台本を遂行しようとする僕でもなかった。

 僕はその手を何度か撫でて両手で包むとクロの方へ戻し、膝立ちで起き上がった。

「クロ、俺がみんなしてやるから。起きて」

 黒井は大人しく、ゆっくり起き上がって、あとは僕のされるがままになった。


 僕よりいくらか分厚いけど、筋肉質というほどでもない胸板。やや逆三角形な上半身に、少し日焼けした腕。僕は水面みたいな心を保ち、思考を紡がないようにしてその身体をゆっくり拭くと、さらさらと気持ちのいい大きめサイズのTシャツを着せてやった。

 それから、甘いにおいのするシロップ漬けの桃やパイナップルをフォークで刺して、黒井の口に運んだ。噛んで、飲み込む音がして、もうひとくち。目が伏せられ、また小さな果物がその喉をとおり、もうひとくち。次はタイミングが悪くて、口の端からシロップが垂れる。ゆっくりティッシュで拭うと、さらに目が逸らされた。

 一瞬、胸のど真ん中から、何かの強い衝動が出てきそうになったけど、耐えた。

 そうしても、いいんじゃないかと・・・つまり、告白、されたんだから、・・・そして、僕はもう「される分には構わない」僕ではないのだから・・・、いろいろなことを振り切って、階下に彼の母親がいるというのに、もうその上に乗ってしまってもいいんじゃないかと、身体が前のめりになるけれど・・・耐えた。

 ・・・熱を出しているんだから。

 もちろん、欺瞞だ。本当のところはその体温が36度でも38度でも構わない。

 ただ、自分の中でまだ何も整理はついていないし、整理するべきなのかもよく分からないけど、相手が発熱しているというそれは事実で、また今までのそれに感謝して看病したい気持ちがあるも事実なのだから、今はとにかくそうしようと思った。

 風邪薬の錠剤を二錠、手のひらに出して口元にもっていくと、その唇がゆっくりとそれらをついばんだ。行きの飛行機で、梅干しのタブレットを僕がその手のひらに出したのとは反対だ。そう、何もかもが、何だか反対になっている。

 水を飲ませ、少しむせるので背中を叩き、頭を支えて氷枕の上に寝かせてやった。

 それからいつまででも隣でその手を握っていてやりたかったけど、下から「やまねこさん、ちょっといいかしらー?」と声がかかり、僕は肌掛けを肩の上までかけてやって、その肩をゆっくり押さえ、静寂のまま、すぐ戻るから、と意思を伝えた。黒井は一瞬の間の後、ひく、と浅く息を吸ってそれに反応し、そんな無言のやり取りの後、僕は和室を出て階段を下りた。



・・・・・・・・・・・・・・



「悪いんだけど、ちょっと手伝ってくださる?」

「あ、はい、何でも」

「彰彦さんはどう?」

「え、っと、今薬を飲んで、休んでます」

「そう。桃は食べられました?」

「はい。少し」

「ステーキは、さすがに無理かしらね」

「えっ、ステーキ?それは、うーん・・・」

「そうよねえ、ちょっとやめておいた方がよさそうね。せっかくあなたたちに買ってきましたのに。まあ、あとでおじやさんでも持っていきましょう」

 そして僕は風呂場の切れた蛍光灯を交換するという役目を仰せつかり、浴槽の縁に乗って作業に励んだ。何も考えなくてもよくて、今の僕にはちょうどよかった。

 それから、ついでだから風呂を洗いますと申し出て、浴槽の水を抜いた。ああ、やっぱり僕はどこででも風呂を洗うところに落ち着くんだなあなんて笑いが漏れ、ユニットバスじゃない広い風呂場で、端っこ(風呂場に、端っこという部分がある!)の棚にある洗剤を選んだ。中性洗剤やカビキラー、水垢取りにクエン酸などより取り見取りの洗剤、フックには用途別の大小ブラシがかかっており、こういうところは黒井に遺伝しなかったんだなあとまたもや笑みが漏れる。

 自宅や黒井のマンションの風呂より二倍くらい広いのに、逆に、身動きがとりやすいおかげで掃除は半分くらいの時間で済んだ。しかし、最後にシャワーでざっと洗い流す醍醐味というところで水がちょろちょろとしか出ず、何度もいろいろと試したが同じだった。

 様子を見に来たお母さんにそれを告げると、思い当たるところがあるらしく「あら、また!」と、そそくさとリビングに戻って何やら電話。僕は仕方なく隣の洗面台でたらいに水を汲み、手動で風呂場を流した。

「しばらく調子がよかったのに、たまーに馬鹿になるんでございますのよ。でも今、修理来てくださるから、そしたらあとで入りなさいな。彰彦さんは今日は無理でしょうから」

「ああ、そうですね」

「じゃあ、ついでにもう一ついいかしら」


 今度は、台所で料理の手伝いだった。たぶん、黒井が風邪をひいたことで僕とお母さんが看病をする側になり、連帯感みたいなものが生まれたのだろう。また、僕が自分を「俺」と呼んで黒井を送ると言ったことで、勝手におかしな自信を感じているということもある。

 ぽつぽつと和やかに会話をしながら、何だかしみじみした。本当は黒井の少年時代のエピソードなどをいろいろ聞いてみたいが、でも、別に聞かなくてもいい気がした。

 しばらくするとピンポンが鳴り、修理の人とやらが来たようだった。お母さんが出迎えていろいろと話しながら風呂場へ案内している。僕は生ハムとマッシュポテトのサラダを完成させるべくパプリカを切って、ああ、ちゃんとミル挽きのあらびき黒コショウなんて贅沢だなあ。

 ・・・ゴリゴリゴリ。

 ん?

 ・・・もしかして、このサラダやらスープやら、これから焼こうとしているステーキやら。

 僕と、お母さんと、二人で食べるのか。

 黒井にはおじやと言っていたし、お姉さんと甥っ子は昨日、挨拶もできないまま帰ってしまったのだし。

 いや、別に困ることもないけれど、食事となるとちょっと気詰まりだななんて思っているとお母さんが戻ってきて、見るからに上等そうなステーキを二枚準備し、「美味しそうでしょう?」と笑った。もちろん、普段僕がスーパーで選ぶどころか目に入れることすらない、Aなんとかの国産和牛。

 サラダが終わり、少し休むよう促されてソファで見るともなくテレビを見ていると、奥から「黒井さーん!」と野太い声。僕はびくっとその名前に反応したが、ああ、ここは黒井家なんだ。どうやらシャワーの修理が終わったようで、業者の男がリビングに顔を出した。僕は何だか居住まいをただし、相手が笑顔で会釈するのでこちらも会釈を返す。修理の業者というイメージ、そして声からのイメージよりずっと若い、茶髪で首からタオルをさげた青年が、黒井家の主と楽しそうに談笑していた。

「ごめんなさいねえ、こんなお盆に呼び出してしまって」

「いえいえいいんですよ。でもほんとに、ご馳走になっていいんですか?」

「いいのいいの。私は食べきれないしね、ちょうど良かったわ」

「黒井さん料理お上手だから、わあ、このサラダも綺麗ですね。嬉しいなあ、前いただいたあの、グラタンもすっごく美味しかったですし」

「あらそう、余りものよ?田根子さん、あ、お父さんにはね、いつも押しつけるみたいになっちゃって・・・」

 ・・・ああ、何だか庭を見てくれてるとかいう、タネコさん。

 その人の、息子なのか?まあ、どちらにしてもタネコさんなのか。

 そしてそのタネコさんが僕にもう一度会釈し、あらためて「あの、どうも、お邪魔してます」と。いや、僕だってお邪魔しているわけですが。

「やまねこさん、こちらあの田根子さん、の息子さんのシンヤくん。いつもお世話になってる、工務店さんなのよ」

「どうもこんばんは。えっと、黒井さんの息子さんの・・・え、山猫さん?」

 何だ、急に問答無用の自己紹介タイムなのか?っていうか、この未知の青年と三人で食卓を囲むことになるのか?

「あ、どうも、山根と申します。えっと、その、彰彦くんの友達で・・・遊びに来させていただいてまして・・・」

 あ、あきひこくんて!いやしかしここはそう呼ぶしかないだろう。

「あ、ヤマネさんね。あ、どうもどうも、田根子といいます」

 僕より若いのか同じくらいか、しかし年配マダムも余所での夕飯も、そこに知らない人がいても何ら気にかけていないらしい。茶髪の短い髪、やや眉毛が細くてよく日に焼けたシンヤくんとやらは、特にあれこれ気を使う様子もなく、さっと僕の向かいに座った。工務店だなんてそんなに世話になるものなのかよく分からないが、お母さんがここに越してきて、新築だかリフォームだかで付き合いがあるのかもしれない。

「息子さんのお友達っていったら、やっぱり東京から?」

「そうそう、こないだ彰彦さんと一緒に、飛行機でね。でも花火も見れなくてねえ・・・ああ、ほらシンヤくん、疲れたでしょうお茶は?」

「いえお構いなく。ご馳走の前に水っ腹じゃもったいない!」

「それじゃあちょっとお待ちくださいね」

 そうしてお母さんが台所へ消えると、何と、目の前のシンヤくんとやらと二人になり、僕はいったい、どういうことで何をしていいのか分からない。どうして黒井がいないのに僕が・・・と思うが、黒井がいないからこそ、修理のついでにせっかくだからステーキをというわけか。

 シンヤくんは首のタオルで少し額を拭き、僕に微笑みかけると、まるで実家にいるみたいに、テーブルの皿に載ったお茶請けの豆を勝手につまんだ。

 ・・・何だか、僕はもちろんのこと、黒井よりも、ここに詳しいみたいで。

 オジサンの田根子さんなら特に何とも思わないが、僕らとそう変わらない歳のこの青年は、そう・・・まるで、「息子みたいに」可愛がられているように見えて。

 ついさっき、手伝いをして可愛がられていた僕がその座を奪われたように思ったのだろうか。いや、それより何だか、急に黒井がかわいそうなような、何とも言えない気持ちになった。

「ヤマネさんは、お住まいはどちらなんですか?」

「えっ、あ、えっと・・・東京、ですけど、23区とかでもなくて、言ってもわからないかも」

「あ、僕もね、前は東京住んでたんですよ。今は戻ってきて父の手伝いなんですけど、それまで東京で、運送やってまして」

 僕が住所を告げると「ああ、多摩センターの近くでしょう!」と。

「あ、そうです、その辺りで」

「受け持ちで、よくまわってました!偶然ですね。あの辺かあ」

 少し、営業先での世間話を思い出して相づちを打った。職場から離れて数日、もはや気持ちは社会人と程遠いが、単なる営業トークであれば何とか出てきた。

「さあ、お先にサラダをどうぞ」

「あ、どうも、いただきます!」

 お母さんに給仕をさせてしまうようで申し訳ないが、僕まで台所に引っ込むわけにもいかないし、成り行きのままいただくしかない。シンヤくんが先に小皿に取り分けて、食べるかと思いきや僕に笑顔で「どうぞどうぞ」と差し出した。そしてフォークを持ってきたお母さんに、「ま、僕がどうぞどうぞじゃないんですけどね!」と笑う。

「そうよシンヤくん、だってこれはやまねこさんのお手製ですから」

「えっ!・・・あ、そうなんだ?・・・っていうかその山猫さんって何ですか?」

「ああ、彰彦さんがそう呼ぶもんだから。ヤマネ、こ・・・あ、あら、何だったかしら、ごめんなさい出てこないわ」

「あ、あの、ヤマネ、コウジです」

「そうそう!それでヤマネ、コさんだそうですよ。タネコさんと似てるわねってちょうど話してて」

「ああなるほどね。なるほどー。息子さんやっぱりちょっと面白いですね」

「そうなの、少し変わってますから。元気だったら、まあ実際話すとどんなか分かるんですけどねえ。残念ながら今は寝ております」

「いえいえ、なら休んでおかないと。ああ、それじゃちょっと静かにしないとね。僕なんかが代わりにご馳走になって申し訳ないです」

 それから他の皿が次々に並び、僕は二階の黒井を想うけれども、どうすることもできないので他人同士三人の食卓を囲んだ。

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