第267話:想定外の嫉妬

 霜降りの黒毛和牛ステーキは僕とシンヤくんがいただき、小食のお母さんはいろいろと僕たちの世話を焼いた。本来なら黒井に向けられる分の愛情までシンヤくんが笑顔で受け取っているのがやはり悔しいが、シンヤくんは決して悪い人ではなく、むしろ夫を亡くして一人暮らしのお母さんを支えている存在なのであって、僕などがとやかく言う筋合いはない。

「いやあ、ほんと美味しいです。こんなステーキ、久しぶりですよ」

 僕はもう味なんかよく分からないけど、とにかくとろけるほど柔らかくてやたらに旨い味が染み出してくることだけは分かった・・・って、それが美味しいってことか。

「あっそうだ、お肉に合うワインもありますのよ」

「いや黒井さん、僕クルマですから!」

「あらそうだった。それじゃ残念ね」

「あの、僕に構わず、お二人は飲んでくださいね。僕はもうこれだけで十分ですから」

 お母さんは何だか悪いわねと言いつつ、でもこないだはやまねこさんがそれで運転してくれたから・・・と寿司屋に行った話をはじめ、いつの間にか赤ワインが注がれていた。ワインは得意じゃないけど、シンヤくんに目で「どうぞ」と促され、とりあえず口だけでも付ける。・・・ん、いや、霜降り肉の後だと美味しく感じるのは錯覚か?

「それでね、さっちゃんが運転するのしないのって」

「さっちゃんて、えっと、上のお姉さんでしたっけ?」

「あ、そうそう。昨日までいたのよ」

 それからしばらくさっちゃんといくと君の話になり、気さくで聞き上手なシンヤくんがあれこれ質問をはさみながら話が弾んだ。僕も多少の手持ち無沙汰をワインで埋めつつ合いの手を入れ、あれ、だんだんと酔いが回ってくる。

「それじゃ、ここへ来てヤマネさん、突然運転したってこと?」

「はあ、まあ・・・」

「だって向こうで、乗ってます?」

「いや、実は全然、ペーパードライバーで」

「それで急に、こんな、お友達の家族乗せて知らない道・・・いや、僕ならビビる」

「いやでも、だってそちらは、トラックで知らない道だって運転してたんでしょう」

「・・・うん、そうだけど、人乗せて走るのって全然別」

「いや、別なことない」

「別だって!」

 僕はもう遠く感じるあの夜、バックミラーや速度計やサイドブレーキなんかに囲まれ、自分が運転席という場違いなところに座ってしまった緊張感を思い出した。もちろん隣に黒井がいたというのもあるけど、たとえ一人だったら緊張しないかといわれれば、決してそんなことはなかっただろう。

「・・・いや、やっぱり人がいなくても運転は運転だし」

「うわ、粘るなヤマネさん!でもね、そこは別なの!人と荷物じゃ感覚が違う!」

 いつの間にかお母さんはまた台所へ下がり、シンヤくんがワインを傾けるので、軽く頭を下げてグラスを取った。

「でも運転はさ、この辺りは穏やかな方だから良かったかもよ。ほら、田舎はひどい運転のところいっぱいあるから」

「ああ、それはまあ。確かに何事もなく、無事に着いたのは良かった」

 あらためてシンヤくんを見ると、日焼けした茶髪の細眉はやっぱりまったく関わったことのない人種なので腰が引けるが、逆に、そんな人物と一応話が出来ているということで、気持ちは上滑りながらも平静を保っていられた。眉毛まで茶色く染めるなんて僕には意味の分からない世界だけど、笑うと、目尻の皴が人懐こく刻まれた。

「ああ、クルマ欲しいなあ・・・」

「え、でも、車で来てるって」

「それはさ、店の、田・根・子・工・務・店!ってハイエース」

 そう言って、車のサイドに印字されているのであろう文字を手ぶりで示す。

「あ、ああ、なるほど」

「ヤマネさんはクルマ欲しくない?」

「いや、あんまり興味ない・・・」

「そっかあ。ま、東京じゃ要らないかもね」

 まだ空いてないのにワインを注がれ、無言で手を振って制した。何となくそれでそのままフォークを取り、皿の上の黒オリーブをつついたら、向こう側へと転がってしまった。しかし、「あっ」とフォークで追いかけたのが、同じくとっさに手を出したシンヤくんの腕を見事に突いてしまい、「いてっ!」「ごめん!」で僕は慌てた。

「ご、ごめん、だ、だいじょぶだった?」

「大丈夫大丈夫!あの、ほんとは全然痛くなくて、そんな強くなかったから。びっくりしただけで」

 お母さんの「どうかしましたー?」にシンヤくんが「平気ですー!」と答え、僕にまた「気にしないで、痛くなかったからね」と。うん、ほとんど標準語だけど、少しだけイントネーションがこちらの感じで、だからタメ口なのにそれほど違和感がない。

「いやいや、本当にごめん」

「でも、すごいお酒強いよねえ。まだ余裕?」

「あ、いや・・・そろそろ」

「っていうか何か、話しやすくて普通に喋っちゃってたけど、あれ、ヤマネさんってトシいくつ?」

「え、二十・・・八?かな」

「あ、なんだ、おないだ。良かったー」

 おないって、同い年のことか。・・・え、そうなの?それで元トラックドライバーで工務店・・・しかも父親と一緒に仕事だなんて、僕とはまるで違う人生みたいだ。

 でもほんの少しだけ、もしも僕にこういう、会社の同僚でも営業先でもない、何の肩書きも関係ない普通の友人というものがいたら、こんな風に喋るんだろうかと考えてみた。「ごめん、そこ、ティッシュ取れる?」で二枚ティッシュを渡し、「ありがとー」と言われる。「ちょい寒くない?」で「ああ、少し」と言えば、「エアコンちょっと上げよう」で、僕も「ありがと」。そんなお礼が当たり前で、その言動にときめかないのも当たり前。なんだ、もしそういうのが友人っていうなら、僕だって欲しかったなあ。っていうか、もしかして友人ってむしろ僕にこそ必要で、そういう存在がいれば僕はもっと前向きで健全でリア充な大人になっていたんじゃないか?いやまあ、本末転倒な話だけど。


 そうして少し頭がふわふわしてくる中、お母さんがケーキを持ってきて、今度は甘いもの談義。

「シンヤくんは甘いものは?お父さんはちょっと苦手でしょう」

「あ、僕は全然大丈夫ですよ。むしろ好きですね。・・・ヤマネさんは?甘いもの」

「まあ、ふつうに好きかな」

「僕もお客さんとこ行くと、お茶菓子とかやっぱり勧めてもらうんだけど、何か勝手に敬遠されてっていうか。ゼリーにしてもコーヒーゼリーで、いや僕そっちの甘いのでいいですーみたいな」

「ああ、あるある」

「でも言うわけにいかないから美味しいですーって言っとくと、また次も出てきたりしてね」

「うん。・・・ん、でも、何か言えそうなのに。さらっと」

 さすがにまだ「シンヤくん」とも呼べず、しかしタネコさんでもなく、それとなく呼び名は濁す。こういうとき臆せず名前で呼べて、ついでにアドレス交換まで持っていければ、友達というものが出来るチャンスも広がっただろうに。

「え、僕?んーん、実は言い出せないんだよね。ついね、つい先にこう、大丈夫ですーとか、ありがとうございますーみたいな」

「そうなんだ」

「ヤマネさん言える?」

「言えない」

「何だよ!」

「いや、言えないよ。コーヒーとか、お砂糖ミルクは・・・って、つい大丈夫です、ってなっちゃって。俺ブラックあんまり飲めないのに無理したり」

「分かる!分かるわそれー!」

 本当かいと思いつつ、とりあえず笑っておく。そうしたら相手も笑って、「いや、でも美味しいこれ」「うん、美味しい」でケーキをつつき、会話に詰まることもない。

 しかしこんな、こうして相手の本意も真実も関係なくただ表向き笑っておけば和やかに時が過ぎて、契約にこぎつけるとかもなくそれで及第点が取れて、サヨナラをしてしまえば特に相手のことを考えなくてもいいなんて、何て楽なんだろう。まるで天国だ。



・・・・・・・・・・・・・・



「もう少し、いく?」

「あ、いやほんとにもう・・・」

 シンヤくんは「飲めないとか言いつつ、だいぶいったねえー」とワインの瓶の残りをぴちゃぴちゃし、僕はぶどう色の脳みそで「あはは、そかな」とへらへら笑った。いやまさか、そんな一本空けちゃうほど飲んだつもりは全くないんだけど・・・。

「ちょっと酔ってる?酔ってるねえ」

「いや、しょうがないよ。だって飲ませるんだもん・・・」

 そうして少し眠気がやってきてソファにもたれると、シンヤくんがふいにさっと頭を上げ、「・・・あ、あの、ああ」と僕の斜め後ろを向いて立ち上がった。またお母さんが別のデザートでも持ってきてくれたのかと緩慢に振り向くと、そこには、まるで幽霊みたいな黒井が立っていた。

 ・・・血の気が、引いた。

「あ、お加減大丈夫ですか?お邪魔してます、田根子といいます」

「・・・」

 黒井はシンヤくんの方を向くこともなく、無言で僕を見ていた。

 冷たい、無表情。

 背筋が凍った。

 まずい、やばい、これはまずい、俺はまずいことをした・・・。

「あ、あの、クロ、大丈夫?も、もしかして、呼んでたりした?ごめん俺、様子見に行けばよかった・・・!」

 僕の必死ぶりと黒井の態度にシンヤくんが違和感を覚えまくっているのはビリビリと感じるけど、もうそれどころではない。

 僕が駆け寄っても、黒井は微動だにせず、目は据わったまま。

 それからふいにシンヤくんに向き直り、「いつも母がお世話になっています」と、ゆっくり喋った。

「え、いやいや、こちらこそ黒井さんにはいつも・・・。今日はご馳走になっちゃって、具合が悪いところに上がり込んで本当、申し訳ない」

「大丈夫です。俺のことは気にせず、ゆっくりしていって下さい」

 そこへお母さんが来て「あら彰彦さん起きましたか?今おじやをしてますよ」と言うけど、黒井は回れ右して階段へ向かった。僕はとにかく後を追って二階に上がり、ごめんごめんと謝り続ける。

「あの、俺、ごめん、放っといてごめん!」

「・・・」

「具合悪かった?その、寝てたかと・・・!」

「・・・」

 何やってんだ俺、な、なんでクロを放っといて見ず知らずの男にワインを飲まされたりして、いったい何をやってるんだ・・・!

 ・・・クロは、・・・僕に、告白、したんだぞ。

 その夜、熱を出して、どうして俺が他の男と楽しく食事なんて・・・。

 ・・・俺なら、そんなの。

 黒井に決死の告白をして、倒れて手を握って、クロはそのまま知らないやつと楽しく過ごしたりしてたら、もうだめだと世を儚むだろう。嫉妬すら起きないかもしれない。いや、実際、そうだった。お前の誕生日の夜、お前はどっかの誰かと楽しく飲んでいて、確かにあの日僕たちはあんなことをしたけれども、でもそれと、・・・告白は、やっぱり、別次元だ・・・。

 窓の薄明かりだけの暗い部屋で、僕は声が漏れないよう引き戸を閉じ、幽鬼のように立つ黒井にもう一度向き直る。

「ごめん本当に。俺、お前の気持ち考えてなかった。な、成り行きだったとはいえ、本当に、悪かった・・・」

 そうして、黒井が聞き取れないほどの小声で、抑揚もなく「・・・おまえ、酔ってるね」と。

「え、いや、あの・・・」

 ほんの、数分前に交わした会話。

 聞かれていた、のか。「酔ってるねえ」「だって飲ませるんだもん・・・」、・・・ああ、もう、言葉に出来ないほどひどい。

「クロ、俺ほんとに・・・」

「・・・」

「・・・ごめん」

 黒井がふいに息を吸い込んで、唇を噛む気配。もう、どうしてこんなことに・・・。

 ・・・。

 ・・・俺が、この俺が、<嫉妬>されてるだなんて、・・・人生で想定外なんだ、本当にごめん。

「・・・ねこ」

「う、うん」

 黒井が僅かこちらに寄り、僕の両腕に、触れた。

 エアコンで冷えた腕には熱いほどのその手のひらが、そっと微かに、添えられて。

「・・・おれと、いて」

 小さくそう告げた。

 僕は伏せていた目を上げて、黒井の、今の言葉を紡いだ、その唇だけを見ていた。僕もその腕に手をかけて、いや、もうだめだ。止めることはできない。止まることはできない。

「・・・」

 呼吸とともにゆっくりと近づいて、息がかかるほど顔を寄せ、もう目を閉じて、ほんの微かに、互いが触れる。きっとその熱い唇の奥は、もっと熱く・・・。

 ・・・その時、「彰彦さん?少し食べられますかー?」の声とともに足音が近づいて、僕は慌てて電気のひもを引いて明かりをつけ、呆然としている黒井を「ほら、寝て!」と横にならせると、その上から肌掛けをざっとかぶせて引き戸を開けた。

「・・・あ、美味しそうなおじやですね」

「卵と梅干しですよ。お具合どうですか?」

 黒井は布団の中から「・・・ねつで、あつい」と上擦った声でつぶやき、お母さんは「シンヤくん帰ったわよ。ちょっとうるさくしちゃったわね」と謝りつつ息子の髪を無造作に数回撫でた。

 僕は心臓だけまだどきどきしながら正座をし、意味もなく後頭部を掻いた。

 小さいちゅをして仲直り、なんて言葉が浮かんで、やっぱり頭を掻いた。

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