(5日目:行きとは別人の僕らが東京へ降り立つ)

第268話:今の二人は、誰?

 お母さんに促され、さっき自分で洗った風呂に入った。

 シャワーはしっかり出て、僕はしばらく立ったままぬるめの湯を浴びた。さっきここで茶髪の同い年の青年が直していった配管。でももう遠い。顔さえよく思い出せない。

 たぶん、ちょっとだけ、やっぱり逃げていた。

 黒井の声や手が震えていたのは風邪のせいで、動悸がして涙が出て服を脱いだのも、僕のことを考えたからじゃなく、熱のせい・・・。

 その可能性も考慮して告白をいったん棚上げし、今は看病に徹しようとして、そしてこうなった。

 あの時の、クロの冷たい視線。

 あれはただ熱で朦朧としていたのでも、うるさくて眠れないとか氷枕を替えてくれとかの文句でもなかった。僕にはそれが一瞬で分かった。

 ・・・嫉妬だと。

 お前に会ってから、もう何度も何度もわきあがってるから、自分でも驚くほどの、その冷たい感情はよく知っている。

 ・・・つまり、やっぱり、あれは告白だった。

 棚上げしているのは僕だけで、黒井の中でそれは進行している。

 僕は遅いが、お前は速いんだ。

 お前が僕に告白をしたなんて、そんなこと、まさか、一人で部屋にこもって三ヶ月くらい考えないと僕にはたどりつきそうにないことなのに。

 お前は今日の今日でもう嫉妬の炎が燃えた?

 でも、それでも、謝る僕をたぶん、許してくれた・・・。

 ・・・でも。

 好きな気持ちなら、この風呂掃除よりも細部にわたってよく知っている自負があるが、好かれる、気持ちなんて・・・知らないんだ。

 自分が、誰かから好かれる対象になる?

 まあ、確かに藤井からだって告白されたわけだけど、彼女のは自分の感情の発露を本人に教えてあげただけ、とのことだったから、僕が気にする必要はなかった。その意味できっと僕たちは似合いだったのかもしれないけど、きっと黒井とのことがなければ彼女は僕に告白していないし、だからやっぱりこうなる。

 クロに、告白、された?

 ああだめだ、やっぱりバグが起きて思考がシャボン玉みたいに弾け、体を洗いながら、もうこの肉体をどうしたらいいんだと持て余した。自分は何の規制もなくやりたい放題に黒井を好いてきたくせに、好かれているだなんてもう身動きが取れない気がする。

 今まで、馬鹿みたいに、何度も妄想してきたのに。

 それが、叶ったというのに。

 叶った・・・の?

 ・・・宝くじで百億万円当たりましたと言われたみたいな。

 湯に浸かって、のぼせて、出た。

 お母さんにお休みなさいの挨拶をして、冷たいお茶をもらい、部屋に戻った。

 彰彦さんのこと、いっぱいありがとうね、と、言われた。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 やはり酔っていたからかすぐに寝て、もちろん男の子や自分が死ぬ夢は見なかった。たぶんもう見ないだろう。何か根拠があるわけじゃないけど、これには確信があった。この一連の夢を見続けたからこそ無意識下で僕は僕の過去にたどり着いたのであり、そしてそれは、黒井が「男の子はお前なんじゃない?」と言ってくれたおかげでもある。

 いや、はじまりはもっと前か。そう、僕の誕生日に黒井が深海の本をくれて、それで最初のその夢を見て、だから全ては、やっぱり黒井が掘り起こしてくれたんだ。

 ・・・そして。

 黒井が僕の過去を掘り起こし、そうして僕はようやくそれを受け入れ、少し変わりつつあるけれども、その過去は黒井にも変化をもたらし、なぜだか僕を<好き>になってしまって、つまりは二人とも、何だか変わってしまったのだ。

 しかし、黒井が<好き>になった僕というのは、もしかして、あの車で過去を吐露したところまでの僕であり、今の僕ではないのではないだろうか。

 そして、僕の方も・・・僕が好きなのはこれまでの傍若無人な黒井であり、僕に触るか触らないかでわなわなしてしまう黒井では、ない、・・・のか?

 もしもそうなら、僕たちはあの夜の一瞬だけ潜在的に両想いになり、あとはお互い別人になってしまった、のかもしれない。

 ・・・実際のところは、分からなかった。

 それはまあ、分かるわけもない。

 しかし、もしそれが正しいとするなら、でもだからって、別にいいじゃないか。

 失ったものは、やはり、新しい形で得るのだろうから。



・・・・・・・・・・・・・・・



 最終日。

 黒井の熱は下がっていた。

 僕たちは言葉少なのまま、リビングでの朝食となった。黒井はソファでクッションにもたれてヨーグルトグラノーラのボウルをつつき、僕は昨日と同じところに座ってフレンチトーストをいただく。お母さんは万年健康だった黒井の病み上がりという状態を推し量りかねているのか、あるいは何かを察しているのか、それとも今日で僕たちが帰ることを少し寂しく思っているのか、こちらも口数は少なかった。

 お母さんは朝食の残りのパンを、「あら、またすずめさんがいらしてますね」と、庭に撒きに行った。庭には所狭しと鉢植えが置いてあり、お母さんはエプロン姿で出ていくと、トマトやらじゃがいもやらを採集して帰ってくるのだった。


 そして「あらそういえば」と、いくと君からのお礼だといって画用紙を一枚渡された。

「帰る前、一生懸命描いてたのよ。何だと思う?」

「え、えーと・・・どんぐり?」

「猫さん、みたい、なんだけどねえ・・・。お庭に来てたすずめさんかと思ったけど、どうかしらね。いちおうさっちゃんが、にゃんにゃん描いて、って描かせてたけど」

 真ん中には茶色っぽい丸、そして端っこにいびつな黒い丸がぐるぐるしていて、どうやらそれは僕の眼鏡ではないかとのことだった。おかきの海苔にしろ、彼の中では付属物は分離しているのか?僕はそれをありがたくいただき、鞄にしまった。彼がどのような認識の持ち主であれ、僕のような男の子になりませんようにと願った。


 お母さんはそのままでいいと言ったけど、僕は布団を押入れに上げ、和室の片づけにいそしんだ。黒井が散らかしたお菓子のごみを分別し、掃除機をかけた。

 あと何時間かで、ここを出るのか。

 飛行機は夕方で、お母さんはまた何かの集まりがあるらしいから、タクシーを呼んでくれるという。ここへ来たのはもう何週間も、何ヶ月も前のような気分だった。


 あっという間に昼になり、冷しゃぶのサラダうどんとかやくご飯をさらりと食べ、その後「やまねこさん」とお母さんに呼ばれた。

「ちょっと、前髪切ってあげましょう。目を悪くしますよ」

「え、あ、いえ・・・」

 あれよあれよと、姿見の前でタオルを首に巻かれ、新聞紙を持たされ、霧吹きで水をかけられる。何だか年季が入って擦り切れた革の道具入れからシャキシャキと音のするハサミが出てきて、え、着付けと編み物の先生じゃなかったの?

「下を向くとどんどん短くなりますよ」

「はっ、はい」

 顔を覗き込まれて思わずうつむくが、短くなるのは困る。顔を上げて、しかし、決して目が合うわけではない特有の視線。

 どうやら着付けの先生が髪を切るスキルも持っている、わけではなく、美容師さんが着付けもやっていて、編み物が趣味という、そういう順序だったようだ。言われてみれば成人式なんかの時、美容院で着付けの予約の看板が出てるっけ。そして、どうやらお父さんは服のデザイン関係の仕事だったらしい。お姉さんもアパレル関係というし、黒井はやはり芸術系の血筋なんだ。

「うーん、このくらい、かしら」

「あ、ど、どうも」

 あのね、もしおうちで自分で切る時はね、まず外側だけこうして指ではさんで、ハサミをこう、縦に入れます。切り過ぎてもこれなら目立ちませんから。そのあと内側を少しずつ揃えるんです。すきバサミがあるといいわね、でもふつうのハサミだってこれくらいなら十分出来ますよ・・・。

 前髪カットの指南を受けている間、黒井はソファに寝転んで庭を眺めながら、ちらちらと何度か僕を見ていた。



・・・・・・・・・・・・・・



 僕がそろそろ着替えや帰りの準備を始めようかと思う頃、黒井が久しぶりに声を出し、「あの、お母さん」とソファから立ち上がった。その声は病み上がりだからなのか、あるいは恋の病・・・いや、とにかく、その声は少し掠れていた。

「どうしました?」

「えっと、俺、ちょっと、やりたいことがあるんですが」

「はい、何です?」

「あのう・・・部屋の、あの、浴衣」

「はい」

「着てみてもいいですか」

 お母さんは一瞬きょとんとしたが、特に理由も訊かず「はいはいそれじゃ」と階段へ向かった。着物を着たいと言われたら着付けをするというオートモードなのだろう。僕は成り行きを見守っていたが、黒井に遠慮がちに目配せされ、一緒に二階へ上がった。・・・え、浴衣?

 黒井の、浴衣姿?

 花火が中止で、ないと思っていたそれが今になって急浮上し、僕は少しどきどきした。

 ・・・どきどきする?

 いや、するだろう。それはする。いろいろと混乱中で変化の途上であるとはいえ、ごくりと唾を飲み込むくらいには緊張する。それ以上の卑猥なあれこれは今は鳴りを潜めてるけど、見たいかどうかで言えば、まあ、100%見たかった。

 あ、まさか・・・。

 僕にそれを、見せてくれようとしてる?

 僕は思わず口元を手で覆い、目を伏せて右斜め下を見つめた。ぼ、僕のことが好きだから、帰る前にそれを見せてくれる、っていう、何だかそんないじましいイベントがこれから起こる?

 ・・・どうかな、今度は僕が倒れないといいけど。

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