第269話:浴衣と写真

 部屋に掛かっているのは紺色っぽいのと濃い灰色っぽいのの二着で、お母さんは灰色の方を取った。そういえばあの大江戸温泉でだって浴衣を着たけど、ここにあるのはああいう量産品とは全く違う、質感のちゃんとした浴衣だった。

「やまねこさんがどんなか分かりませんでしたから、まあ、横は関係ないけど、縦はね。つんつるてんだと格好悪いですから」

 そうつぶやきながら、お母さんは黒井の背中に浴衣を当てて下までたどり、裾と足首を確かめた。

「うん、こっちでいいですかね。じゃあ着てみますか?」

「・・・着てみます」

 言ったものの、黒井がそのまま突っ立っているので「着ないんですか?」とつっこみが入る。

「き、着ます」

「ちょっと羽織ってみるだけですか?ちゃんと着るんですか?」

「ちゃんと着ます」

「じゃあ脱いでいただきませんと」

 黒井はほんの一瞬僕の方をちらりと見て、あとはかがんで短パンを脱ぎ、前屈のままTシャツも脱いだ。お母さんは(当たり前だが)その半裸には目もくれず、さっきの、僕の前髪を切るのと同じ目つきで浴衣の袖と裾の長さだけを気にしていた。黒のトランクスがさっと隠れ、しかし襟のところを直すのでもう一度現れて、また隠れた。

 そうしてあれよあれよという間に帯が締められ、裾や襟がもういちどピンと直され、本当に、あの温泉の時とは比べるべくもない和服の青年が出来上がった。何ていうか、渋い。あの時はお前が左前なんかで着るから僕が直してやったけど、こういうお母さんの息子なのに分からないのか?・・・いや、何から何まで黙って完璧にやってもらうなら逆に分からないか。

「さ、出来ましたよ。あなた、また少し背が伸びたかしら?」

「こんな歳で伸びませんよ。じゃあ次は・・・ねこに着せてください」

 ・・・え、僕も?

「まあ、お二人でどこか行きますか?」

「いや、せっかくだから着てみるだけです。着るはずだったんだから、いいでしょう」

「そうね、なかなか着る機会もないでしょうしね。じゃあやまねこさんも」

 えっ、あと五分くらいはただ眺めていたいのに、どうして僕の番が来るんだ?しかしここで断るわけにもいかず、・・・つ、つまり二人の前で脱がなくてはならず、ああ、せめて下着が新しいのでよかった・・・。



・・・・・・・・・・・・・



 思った以上に腰の下のところで帯をぐっと締められ、うん、とても素敵な人になっているとは思えないが、もし江戸に生まれていたらこんな格好で歩いていたのかと思うとちょっと不思議な感じがした。

「やまねこさんの方が細いのね。和服は細すぎてもね、あまり様にならなくて、少しでっぷりしてるくらいがちょうどいいんですけどねえ」

「はあ、すみません」

 僕がしみじみ浴衣を見下ろしていると、「ここは鏡がないから、下で見てみるといいですよ」と、三人でぞろぞろ階段を下りる。着崩れてしまうのが心配で、何だか慎重に歩いた。黒井の後ろ姿はいつもと全然違って、ああ、でも、やっぱり江戸に生まれていたって僕はお前に惹かれていたかもしれない。

 そして、さっき前髪を切った姿見に映っていたのは、なんていうか、あんまり見たことのない僕だった。たぶんひょろくて見映えもしないはずだけど、悪くないような気もするのは、気のせいなんだろうきっと。

 黒井は着たいと言ったくせに自分の姿はろくに見もせず、ソファに座ってお茶を飲んでいた。

 そして、次の瞬間。

<バシャリ>

 音がして振り向くと、黒井がスマホを僕に向け、何かを連打しながらその場で固まっていた。

「え、あ、ちょ・・・しゃ、写真?」

「いや、その・・・」

 く、黒井が、僕の写真を撮った?

 しかも、ついさっきまで素知らぬ顔でお茶を飲んでいたのに、いったいどこからスマホを出したんだ?

 僕は大急ぎで思考を働かせ、別に、本格的な浴衣を着付けの先生に着せてもらったのだからむしろ写真くらい撮るのが礼儀だったかとか、っていうか撮ってもらったんなら僕もクロを撮ればいいのかとか、しかし、いったい何が正解なのか分からない。

 そうこうしていると「どうしました?うまく撮れないんですか?」とお母さんがやってきて、僕たちの顔を見て怪訝そうに首をかしげた。いや、ああ、何かの記念に写真を撮るなんて当たり前すぎる行為だけど、僕たちはそれぞれの理由で写真が好きではなく、っていうかそんな空気にすらなったこともなく、い、一度も撮ったことがないのですよ、お互いの姿だなんて!

「撮ってさしあげましょうか?」

「い、いや、お母さんどうせうまくないでしょう。それよりお茶のおかわりをください」

「あら、はいはい」

 ・・・。

 写真なんか、嫌いだと言っていたのに。

 や、やっぱり別人なのか?

 でも、こそこそ写真なんか撮って、それをいったいどうするつもりだったんだ・・・?


「やまねこさん、お茶持っていって下さいな」

「あ、はい!」

 僕は何だか書生みたいに飛んでいき、にごり緑茶とお茶菓子を和風なお盆に載せた。グラスぎりぎりのお茶をこぼさないようソファの前のテーブルに運び、和服だと所作まで自然とそれらしくなると思いつつ、お盆から顔を上げると、また<バシャリ>が待っていた。



・・・・・・・・・・・・・・



「な、なに・・・だから、なに?」

「いや、だって・・・」

 お母さんが来るのでテーブルにお茶とお菓子を置き、何だかそのまま神妙に正座した。さすがに様子がおかしいと思ったのか、お母さんも正座して「写真、どうかしたんですか?」と問う。

「あ、その・・・ちょっと僕、写真が苦手で」

 いや、嘘はついていない。僕は昔から写真が苦手だ。・・・あ、また<僕>が出たな。

「あらそうなの?まあ、苦手な人はいますからねえ」

 お母さんがそれとなく黒井を見ると、黒井は「いや、知ってるんだけど」と肩をすくめた。

「だから音ナシでこっそり撮ろうとしたのに鳴っちゃうし、しかもブレるし・・・」

 黒井はお茶のグラスを持つけどやっぱり置いて、今度はバツが悪そうにスマホを持って、また置いた。

「なあに、知ってるんならちゃんとお願いしたらいいじゃない。やまねこさんも、まあせっかく浴衣だし、少しくらい、だめかしら?」

「あ、いや、別に・・・」

 いや、いったい何なんだよこの会は。

「じゃ、じゃあ、その・・・ねこ、・・・撮ってもいい?・・・おねがい」

 ・・・。

「・・・はい」

 ・・・。

 僕はもはや顔を上げることができず、片手で顔を覆った。いや、お母さん、別に僕が写真一枚でこんな、よほどの恥ずかしがり屋とかそういうんじゃなく、・・・その、おたくの息子さんの、その恥じ入るような物言いをですね、あの、もうちょっと嘘も方便と言いますか、何か、ああそれなら写真を撮るのも当たり前だよねみたいな方向で言い訳のストーリーをひねり出していただきたくてですね・・・。

 ・・・。

 黒井は、嘘がつけないのか。

 いや、つこうと思っていない、っていうかつく理由がないのか。

 僕はいつも屁理屈という名の嘘ばかりで、でもその方が世の中が滞りなくうまくいくと思って、だからこそあの年末のケンカ騒動だって引き起こしたわけだけど・・・もしかしたら、世の中的に理解しやすいストーリーなんかより、ただ、自分の気持ち、っていう・・・うん、もしかして、自分の中身が気持ち悪いということを認めてさえしまえば、あとはそれで、良かったのかもしれない。

「じゃあ、その・・・どう撮る?」

 僕が顔を伏せたまま言うと、黒井は「へっ?」と裏返った声を出し、「あ、じゃあ、えっと・・・」ともごもご言った。


 黒井は僕の浴衣の写真が撮りたくて、僕は写真が苦手という、ただそれだけの構図。

 好きだの男同士だの関係なくて、黒井は自分の<今したいこと>について、恥ずかしそうにしてはいるけれども、<恥じてはいない>。

 そうだったんだなあ、と、思った。

 表面上、恥ずかしがるというところはいつもと違うけど。

 自分の欲求を恥じていない、というところは、自分の母親の前だって、変わらないんだ。

 いや、まあ、むしろこのお母さんだから、こうなったのかもしれないけど。


「ほら、どうするんだよ」

「えっと、どうしよ・・・」

「何だよ、どんな風に撮りたいとか、ないわけ」

「ど、どんなって別に、俺は、お前が写ってれば、それだけで・・・」

 もう、馬鹿!と怒鳴って、その頭をはたいてやりたい衝動に駆られた。

 たとえ自分の欲求を恥じる必要がなくたって、そこは声に出して言わないという選択肢もあるんだよ!

 ああ、このバカ犬、お母さんの前で顔を赤らめてうつむくんじゃない!この、恋の超ド級初心者マーク男!!

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