第270話:恋が、しにくい

 もういたたまれなくなって、「和服なんだから、和室で撮れば」と言って、二階に上がってきてしまった。

 確かに、ソファやテレビ、飾りのついた置物が並ぶ棚の前よりは、浴衣の記念写真としてふさわしいと思う。

 でも今になって、ああ、黒井が赤くなったのは病み上がりのせいにして、僕はさっさとピースサインか何か作ってその場で写真におさまってしまえばそれで済んだ話だと思った。

 もう、遅いけど。

 お母さんは何となく納得してくれたみたいだからよかったけど、僕たちはこんな空気の中、二人きりになってしまったわけで。

 ・・・何を喋ったらいいんだ。

 クロとの話し方が、分からない。

 僕はまたもや、看病の時と同様、今度は写真だけに集中することにして、映りのよい背景を探した。畳に正座しているのもおかしいし、ただ立っていてもあんまりだし、ああ、この障子のところで窓の桟にでも浅く腰掛けたらそれらしくないか?

「こ、この辺、とか」

「あ、うん・・・」

 僕はもう、僕のお面をかぶったマネキンでも座らせておきたいけど、僕本人が座って写真に撮られるしかない。なんて拷問だ!

 黒井はスマホの画面を見ながら後ずさっていき、少しかがんだり、普通に立ったり位置を調整していた。いつ本番を撮られるんだろうとチラチラ見ていたが、何かの設定をしているみたいで、やがて動かなくなった。

 ・・・まったく、何から何まで、もう頭が痛い。

 すべての時を一時停止して、僕だけ悠久の悩み時間が欲しい。

 一方通行の片想いのはずがもはや正面衝突事故を起こしていて、今まで僕だけがこっそりお前を見ていればよかったのに、まさか見られる方になるなんて・・・。

「・・・あの」

 気がつくと顔を両手で覆っていて、ああ、今は和服の写真モデルだった。

「あ、ごめん」

「もういいよ」

「えっ?」

 僕はスマホを持つ黒井をまともに見て、浴衣で何割増か大人っぽく見える感じと、その何ともいえずはにかんだ表情を馬鹿みたいにじっと見て、それから、やっぱり撮るのをやめたのかと思い、まあ安堵した。

「と、とにかく、もういいならいいよ」

「・・・うん」

「な、何だよ、いいんだろ?」

「その、脱がして」

 そう言って黒井は僕に背を向け、少し振り返って、目線でつと、帯を示した。

 僕は腰かけたまま、目の前にあるその、まるで箸置きみたいな形の結び目を見る。

 ・・・解けば、脱げるか。

 結ぶことはできないけど、ただ脱ぐだけなら、お母さんの手を煩わせるまでもない・・・。

「・・・クロ、その、・・・いいの?」

「・・・いいよ」

 ・・・。

 いや、お前も記念に写真だとか、何ならお母さんと一緒に写ったりだとか、そういうことをしなくてもいいのかという意味であって、別に変な意味じゃ・・・。

 ・・・変な意味でも、そうじゃなくても、もういいか。

 僕の中身が卑猥な妄想にあふれていたとしたって、恥じることはないのか。いや、ここは恥じた方がいい気もするけど、もういいか。

 僕はいったいどこがどう差し込まれているのかよく分からない帯に、手をかけた。それは思ったよりしっかりしていて、しゅるりと解けて着物がはらり・・・なんてことにはまったくならなくて、僕は両手でぐいぐいとそれを引っ張った。

 あとは黒井が巻きついているそれを自分で回し取って、畳に落とした。振り返ったら、前がはだけているんだと思って何かの準備をするけど、その前に「次、お前」の声。

 僕は立ち上がると黙って後ろを向き、同じように、帯がぐいぐいと引っ張られる。腰の圧迫がふっと緩み、帯はそのまま下に落ちた。

 そして、ふいに襟のあたりに手が伸びて浴衣が引っ張られ、肩がはだけた。

「お、おい、自分でできるよ・・・!」

 前を合わせようとするけど手が届かなくて、右半身が露出する。振り返って、まともに見られて、固まった。

 ・・・黒井が千葉に行く日の朝、僕の、それを、吸われて起きた。

 その、前日、・・・そう、なぜか黒井は今みたいに照れまくって、二人でおかしな雰囲気になった。

 そんな四ヶ月半前を思い出し、俺たちはいったい何なんだろうと思い、そして、「・・・あの、撮っていい?」と言われた。

「は、はあっ?・・・い、いいわけないだろ、駄目すぎる」

「だってお前、こんな、えろい・・・」

「・・・っ、だ、だめだろ、余計に駄目だろ」

「おねがい」

「いや、お願いされても無理」

「・・・じゃあ、おれ、どうすればいい?」

 そんなことを本人に訊くな。俺にだって分かるわけがない。

 ・・・。

 でもせめて、恥じることなく、隠さずに、言うなら。

「・・・記憶に、とどめとけば」

 だって俺ならそうする。気持ちの悪い俺ならいつもそうしてる。それで夜中に思い出して、舐め回しちゃうんだよ。ここは口には出さないけど、せめて恋の先輩として言えるのはそれくらい・・・。

「・・・それじゃ、そうする」

 そうしてしばし黒井の視線に耐えて、もうぎゅっと目を閉じていたら、離れていく気配。

 薄く目を開けると黒井はもうさっさと着替えていて、この野郎、と思った。

 お前の浴衣姿を僕に見せてくれる会でも何でもなかった。

 お前が僕の浴衣姿を写真に撮ると言って、しかもあられもない姿を脳内に留めるというとんでもない会だった!

 ・・・くそ、このことについて、いったいどう思えばいいんだ。

 僕はやっぱり後頭部を掻いて、ばさりと浴衣を畳に落とし、でも全部脱いでしまうより半分はだけているのがえろいのはどうしてなんだろうと思った。・・・いや、そんなことを猥談よろしく共感しあいたいわけじゃない。クロに恋していたのは僕のはずなのに、恋をされていたら恋がしにくいよ!!



・・・・・・・・・・・・・・・



 そろそろいい時間だったので帰る服に着替え、鞄も持って下におりた。

 僕はお母さんに浴衣のお礼を言い、うまく畳めなかったことを詫びると、「そのまんま置いといてくれたらいいのよ」と。和服は確かに魅力的だけど、畳むにしても帯を結ぶにしても、折り紙のような幾何学っぽさがあって扱うのが難しい。着付けにしろ編み物にしろ、もしかして髪を切るのも、ある形の物体をパターンに沿って変形させていくという、芸術系というより実は理系の行いなのかもしれない。

「それで、写真は撮れたんですか?」

 少し呆れたような、生温かく見守るような声でお母さんが訊く。いや、それが結局撮らなくて・・・と答えようとしたら、黒井が「撮れました」とつぶやいた。・・・えっ?

「あら良かったですね」

「動画も撮ったし、良かったです」

 ・・・ど、動画!?

「まあ、どんな?」

「見せませんよ。俺のです」

 ・・・。

 なんていうか、昨日は声も手も震えていたクロが、ちょっと、慣れてきたのか?やっぱりお前は速いのか?

 お、おれのですって、なんだそれは。

 もう、いい加減にしてくれ。僕の精神がもたない。


 

・・・・・・・・・・・・・・・



 特にどうしたいのか、何をしておくべきなのかよく分からないまま時間が過ぎて、出発の時が近づいた。

 もう一度がらんとした和室で忘れ物がないかチェックする。まとめた荷物を玄関に置いてトイレなどへ行き、もう一度歯を磨いて、ああ、こんなところに黒井とお揃いの歯ブラシセット。何となく、無意識に、お正月まで取っておいてくれるだろうか、なんて思っている自分がいた。いや、ここは自分の実家じゃない。

 表に車の音がして、タクシーが着いたらしい。ああ、空港に運ばれるのか。明日は会社で、現実に戻るのか。そんなの、どこか遠い世界の出来事みたいだ。

 玄関で、何だか、靴を履いてしまうのが、寂しい。

 本当にこのまま、あと三ヶ月くらい置いてもらって、あの肝試しからこっちの時間を解きほぐして、この混乱から浮上してきたいんだけどな。

「それじゃあね、お気をつけて」

「あ、はい、その、お世話になりました。本当に、たくさんご馳走にもなって」

「いいのよ。ただ、・・・彰彦さんちょっと、やっぱりまだぽおーっとしてるみたいですから、やまねこさんお願いね」

「は、はい・・・もちろんです」

「忘れ物は大丈夫だと思うけど、ああ、一応念のため、連絡先を教えておいてもらおうかしら。もし何かあったら送りますからね。ええっと、メモを・・・」

「あ、じゃあ、名刺の裏に書いときます」

「そうね、それがいいわね」

 僕は財布から名刺を出し、玄関のペンスタンドにあった金色のボールペンで裏に携帯番号と住所を書き付けた。横には綺麗な木箱のメモホルダーと印鑑入れ。そういえば、黒井も上等そうなボールペンを持ち歩いていたっけ。

「はい、どうも。・・・やまねこさん、山根、弘史さんね。これでこうじって読むのね」

「あ、はい。・・・それじゃ、いろいろ、どうもありがとうございました」

「はいはい、ああ、こうしてはいられない。それじゃあね」

 黒井は一言「それじゃさよなら」と言って、振り返りもせず家を出た。僕は誰もいない廊下に頭を下げ、それに続いた。


 別れが、淡白な家なんだろうか。親父さんのこともそうだし、お姉さんたちの見送りもろくにしなくて(それは僕の肝試しのせいだが)、でもたぶん、そんな感じなんだろう。

 晴れ間からの日差しが暑くて、少し前髪が短くなった額に手をかざしながら門扉を出る。むっとする熱気と蝉の声。

 待っていたタクシーに乗り込むとまたすうと冷えて、運転手さんの「空港ですね」の一言の後は、無言で景色を眺めた。

 数分で気まずさは少し緩んでいって、僕と黒井は別々の方向を見ながら、しかし、お互いに「混乱してるね」ってところで、何だか微笑んで握手したい気分だった。いや、もちろんお前が今どう思ってるのかは分からないけど、空気の感じとしては、そんな気がした。

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