第271話:機上、数ミリの愛撫

 帰りの飛行機は、行きとは違ってどことなく疲れたような、気だるい雰囲気だった。夕方という時間のせいもあるけど、やっぱり「これから夏休みだ!」っていうわくわく感は何もなくて、心なしか機内も狭くどんよりとして感じた。

 席は今度は二人掛けで、行きとは反対側の右の窓際。また黒井が奥に座り、外を眺めた。

 会話は、最低限だけ。

 お母さんもいなくて、旅行も終わりかけていて、僕たちはいったいどういう立ち位置のどんな二人でいればいいんだろう。

 行きの飛行機が懐かしかった。何だかやっぱり、すべてが変わってしまった。

 そして、ふいに気がついた。

 ・・・もしかして、プロットが、進んだのか?

 そう、第一幕で主人公は故郷を離れ、第二幕の転換ポイントで今までの自分と違う見方を手に入れる。それが、映画<アバター>でいえば、青い先住民、ネイティリと恋に落ちたこと・・・。

 ・・・恋。

 僕はあのゴールデンウィーク、それで黒井を菅野とくっつけた方がいいのかと、カラオケの誘いに乗ったのだった。

 とうとう、黒井が失った<それ>を取り戻すにあたって、転換ポイントが訪れたということ?

 次の第三幕で最大のピンチを迎えるけど、それを乗り越えれば、古い自分を捨てて生まれ変わり、ヒーローになる・・・。

 ついに、報われたのか。

 黒井を第二幕の転換ポイントに乗せたし、そしてその相手が、僕?

 ・・・はは、何だろう、ノーベル賞とアカデミー賞をダブル受賞みたいな?

 ちょっと笑えたけど、でもやっぱり現実感がなかった。


 無言のままに離陸し、シートベルトサインが消える。寝てしまおうか、それとも何か行動を起こすべきか。前を向いたまま、それとなく右側にいる黒井の気配を感じ取る。

 どうすればいいんだろう。

 いつものように思考を紡いで状況を整理したいけど、積み木をあるべき枠にぴったり収めて結論を出す僕は戻ってこなくて、ただ右に左に転がしているだけ。

 いつもなら、こんな時は黒井が何かの遊びをしたり、気まぐれのわがままを言ったりして、僕はそれについていくのが精いっぱい・・・と言っていれば時間はあっという間に過ぎてしまうのに。

 ・・・しかし何だかそれも、黒井の母や姉(そして写真の父)と接してみれば、少し違った見え方になるなあと思った。

 黒井は、一生懸命、僕の気を引きたかったのかな。

 まさか、という言葉が反射的に浮かぶけど、半分くらいは合っている気がする。

 旅行の前日、「お前に甘えてるから」なんて、言ってたっけ。

 今となれば、あれはあのまんま、そうだったのだろう。何となく腑に落ちた。きっと色んなことがそうなんだろう。今までの、すべてが。


 そんなことを考えているとふいに右から手が伸びてきて、通路を歩くキャビンアテンダントを呼び止めた。

「すいません、毛布、ふたつ、ください」

 お待ちください、とCA嬢が去ると、僕は黒井を見た。ああ、もしかして、また僕だけふわふわしている間に、風邪がぶり返していたのか?

「クロ、寒い?あの・・・」

「ううん」

 否定の言葉だけで、あとは続かない。とりあえず体調が悪いわけじゃないみたいだから、ひとまず毛布を待つことにする。・・・ふたつ?

 しばらくして毛布が一人に一枚ずつ丁寧に手渡され、黒井に渡そうとすると首を振り、自分で掛けるよう促された。別に僕は寒くもないけど、困ることもないので畳まれたまま置いておく。黒井の方は広げて膝まで覆い、その中に手もすっぽり入れた。何だ、やっぱり寒いのか?

「・・・こう、しといて」

 小さくつぶやかれて、そちらを向くけど、黒井は窓の外を見ている。

 よく分からないけど、同じようにしろということ?

 僕が毛布を広げ、そこに手を入れると、黒井はさらに窓側を向いた。・・・向きながら、その左手が、座席の間にある肘掛けの下で、僕の右の太ももに当たる。当たったまま、なおもそこにあった。

 ・・・。

 思考より前に、僕は自分の毛布の中の右手をおずおずと動かし、右側の毛布の下に潜り込ませた。するとそのまま、温かい手に当たる。瞬間、黒井がふと上を向き、そしてまたそっぽを向く。なんだ、人に見られないように、手を、繋ごうっていう・・・。

 ・・・。

 互いの手の側面だけが、今、触れ合っている。

 僕は、触れたままで自分の手をゆっくり裏返し、手のひらを上に向けた。

 するとすぐ、その手が上から握られた。

 きゅっと、つかまれて。

 握り返した。

 お互い、顔は、完全に別々の方向を向いている。

 黙って、焦点の合わない目で通路を見つめ続けたかったけど、それもきっとおかしいから、後ろにもたれて目を閉じた。せっかく変な目で見られないように毛布を頼んでくれたわけで、だったらそのまま、毛布を掛けて寝ている人にならないと。

 ・・・眠る可能性は、ゼロだけど。

 僕たちは、その握った手をやわやわと動かし、ほんの少し、指でなぞったり、小さく力を込めたりした。何秒も、何十秒も、少しずつ、すこしずつ。何分も、何十分も、浅い呼吸で、目を閉じたまま。

 何も、考えられなかった。

 だんだんと汗ばんでくる手は湿ってきて、まるで、僕たち自身が頭から毛布をかぶって、息苦しくなりながら、何かしているような錯覚。

 ああ、別の意味でも毛布があってよかった。

 心拍数は下がらないまま、手のひらだけの、数ミリの愛撫は続いた。



・・・・・・・・・・・・・



 やがて着陸が近づき、CA嬢にシートベルトをするよう促されて僕たちは手を離した。寝ていたわけではないがほとんど別世界にいたようなもので、目を開けると周りには人がいて現実があって、ちょっと驚いた。

 また少しの耳鳴りを伴って飛行機は羽田空港に降り立ち、その後しばらく滑走路をうろうろした。

 黒井がごそごそして、ポケットからあの梅干し純を取り出す。

「・・・あの、俺も、もらおうかな」

 意を決して話しかけてみると、黒井は少し微笑んで「いいよ。・・・ハマった?」とはにかんだ声を出した。それで僕の心臓は何だか痺れて、いろんな緊張の糸も解けて、「うん、ちょっとね」と笑った。

 黒井がひと粒差し出すので、手を出した。それはさっきまでお前と触れ合っていた右の手のひらで、そこに乾燥梅のタブレットがゆっくり置かれ、僕はそれを口元に持っていった。

 ・・・す、酸っぱい。

 思わず目をつぶり、きゅっと口を閉じる。

 さっきの右手を口に当てるという行為は甘酸っぱいはずなのに、舌の上は酸っぱさ100%だ。

「ふ・・・はは」

 黒井が吹き出すので、僕も泣き笑いみたいな顔で笑った。

「だって、やっぱり酸っぱいよ」

「ははは・・・無理するなってば」

「別に、無理じゃない。おいしい。でも酸っぱいだけ」

 久しぶりに普通に口を利いたのが嬉しくて、ほとんど涙目になっていろいろ喋った。たぶん、機内でなければ色々な感情に一気に流され、泣き出していたかもしれない。

 そうして、アナウンスとともに乗客がぞろぞろと立ち上がり、僕たちはまた居残り組。

「あの・・・連れて行ってくれて、ありがとう」

 僕は旅行の礼を言ったが、黒井はそれには答えず、何だかくすくすと笑った。



・・・・・・・・・・・・・・・



 東京は、暑かった。

 曇りがちな夕焼けと蒸した熱気が僕たちを迎え、一緒に降りた乗客たちも口々に暑い暑いと苦笑い。たぶん島根の方がカラっとしていて、東京は湿度が高いんだろう。

 しかし、何となく連帯感をおぼえた彼らもすぐ散らばっていき、モノレールを降りる頃にはただの月曜の帰りのラッシュ時。ちょっと何か食おうと言って浜松町の立ち食いそば屋で冷やしうどんを食べ、ああ、昼にも食べたんだったと思い出した。

 暑い、混んでる、疲れたを繰り返し、京王線までたどり着いた。そうして桜上水に着き、僕も降りる。一応、お母さんからよろしくと言われているわけだし。

「あの・・・うちまで、送るよ。べ、別に、要らないかもだけど」

「・・・うん」

 夜になっても温度は下がらず、ゆっくり歩くだけで肌がべとついてくるような湿気。そういえば足の水ぶくれは大丈夫かとか、何とかのお菓子を忘れてきたとか、そんなことをぽつぽつ話しているうちに、マンションに着いた。

 黒井は入り口の前で立ち止まって、「ここで、いいよ」と。

「あ、うん・・・じゃあ」

「あの・・・えっと」

 すっかり暗くなった住宅街で立ち止まり、沈黙が流れる。

 僕は緊張しながらも、何を考えるでもなくじっとただ立っていた。

 夜空を見上げて、ああ、せっかく島根まで行ったのに星空なんかは全然見られなかったな、と思った。

「あのさ、えっと・・・」

 ようやく黒井が切り出して、僕は「あ、うん」と答えた。放っておいたら、このまま何時間でも立っていそうだ。

「ほんとはその、このまま・・・いっしょに、いたいけど」

「・・・」

「俺、たぶん、今・・・何しちゃうか、わかんないから」

「・・・」

「いや、でも、うん・・・あ、明日、会社だね」

「・・・うん」

「また、・・・会えるし」

「・・・」

「あのね」

 僕は伏せていた目を上げて、黒井を見た。別人みたいな人がいるかなと思ったけど、それはクロだった。

「俺、その・・・やっぱり、お前のこと、好きでしょうがないよ」

「・・・」

「一瞬の気まぐれとかじゃ、なくて」

「・・・」

「・・・送ってくれて、ありがと」

「・・・いい、よ。・・・あの、明日」

 朝、迎えに来る。

 僕はそう言って、もう限界の心臓を抱えて歩き出した。それ以上は一言も言えなかった。後ろから「おやすみ!」と抑えた声がして、僕は振り返らず右手を一瞬上げ、そのまま駅へ向かった。



・・・・・・・・・・・・・・



 黒井のマンションから桜上水の駅まで、もうすっかり歩き慣れた道だけど、久しぶりだった。最初に歩いたのは十二月の真冬で、今は八月の真夏。

 思考は相変わらずふわふわとして、周りの停めてある自転車やら看板やらゴミ袋やら、いろんなものが無重力で浮かびそうな気さえした。はは、いったい何なんだろう。

 ・・・クロが、僕のことをまた好きだと言った。

 好きでしょうがないよ、と。

 声にならない、笑いのような痙攣が漏れる。

 何だそれ。

 飛行機に乗って、東京に帰って、病み上がりの黒井を送って、とりあえずそこまでが今日のゴールだった。それが無事に終われば何かがどうにかなって、うまいこといい感じにおさまっているかもしれない・・・なんて、物事そううまくはいかないみたいだ。

 ・・・飛行機での、あの、毛布の中でのそれが、・・・その右手の感触だけが、ただあった。

 好きだなんて言葉も今は無重力に逆らえない。こんな、沈殿するような湿気まみれの夏の空気の中でも、それらは浮き上がって飛んでいきそうだった。

 右の、手のひらと、手の甲と、その指と。

 黒井が熱で倒れた時も僕はその手を握ったけど、それは僕がしたいことをしただけだ。でもさっきのは、・・・少しなぞったらなぞり返されて、指が重なって離れて追いかけて、握ったらその想いに応えるように握られて・・・、そんな秒刻みでいつまでも続いたやり取りは・・・。

 ・・・両想い、なんだろうか。

 ぞわっと鳥肌が立って、僕は思考をやめた。

 言葉も思考もどこかへやって、身体だけ、動かした。

 自分の駅で降りてコンビニに寄り、身体の好きなように冷たいお茶だのアイスだのを買わせて、帰路についた。

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