33章:黒井彰彦は恋をする

(酔いとともに語られる高校時代の恋じゃない恋バナ)

第272話:会社がはじまる

 八月十九日、火曜日。

 とにかく早起きしてスーツを着て、急に自分が大人とか社会人になった気がして、鏡の前でぼうっとした。そして、ああ、ネクタイのせいだと思い、もうボケている。クールビズなんだからしなくていいんだ。クローゼットに戻す時、黒井からもらった萌黄色のそれが目に入って、ふいに涙が出そうになり、急いで家を出た。

 七時半に桜上水の駅に着いて、早朝といえる時間でももう暑い。

 ゆっくり歩いたって十五分もせずマンションに着いてしまい、少し早かったかなと思ったが、まあ、遅いよりはいいはず・・・。

 しばらく逡巡して、インターホンを押した。

 まだ起きていないかも、と待つつもりだったが、すぐにドアが開いた。

「あ・・・おはよう」

 水色のYシャツ姿の黒井が、僕を見つめて言った。反射的に僕は「お、おはよう」と返したが、何だか違和感。・・・お、お前、<おはよう>は嫌いなんじゃなかった?

「その、ちょっと早く来ちゃったけど・・・、あ、そうだ、体調はどう?」

「ああ、うん、大丈夫と思う」

「そっか。それなら良かった」

「・・・あ、とにかく、・・・ちょ、ちょっと待ってて、すぐ出るから」

「いいよ急がなくて」

 ガチャンとドアは閉まり、バタバタとする気配。僕は腕で額を拭い、ドアから少し離れた。

 ・・・やっぱり、おんなじだ。

 昨日の続き、あの、再々々度くらいの告白から、時間は地続きでつながっていて、ちゃっかり旅行前の時間軸に戻っていたりはしない。

 廊下をうろうろと右往左往し、見るだけで読めてもいない腕時計を見たり、無駄に身体を揺らしたりして黒井を待った。思考でなく身体に任せてみても、まあだめなものはだめみたいだ。

「ごめん、お待たせ」

「あ、いや」

「じゃ、行こっか。・・・今日も暑いね」

「う、うん、暑いね」


 そうしてまたぎこちない会話を交わして、会社へ向かう。こうしていると心拍数だけが速い無言の人間が出来上がってしまうが、これでは仕事ができない。

 ・・・何かを、どうにか、しないと。

 黒井に恋(仮)をされているらしい(仮を付けないと思考ができない)ことについて、自分の立ち位置を何とかしなければならない。ここはもう、合っていようがいまいが割り切って、何かに決めてしまうしかないだろう。とにかく仕事のためにも生活のためにも、無言人間のままでいるわけにはいかないから、まともな思考と行動ができる基本設定が必要だ。

 ・・・恋をされていても普通に動ける人間って、誰だ?

 芸能人とかアイドル?・・・黒井を僕の「ファン」だと思えばいいとか?

 あるいは、後輩からすごく慕われている感じとか・・・。

 先輩が僕を可愛がってくれる、だったら僕が受け身で済むんだけどな。ああどうしよう。


 僕は頭を抱えたが、もう地下通路から会社のビルに入らなければならない。黒井に合わせてゆっくり歩いてもまだ早い時間だが、それでも会社の火曜日は間もなく通常営業を始めてしまう。

 ・・・知った顔が、ちらほら。

 別に、僕が黒井と一緒にビルのロビーに入ってもおかしなことはないが、うわ、もう逃げ出したくなってくる。僕はいったい誰なのか、とにかく会社でつける仮面だけでも緊急事態として何とかしなくちゃ。黒井が初めてうちに来た時はそれでマヤが出たわけだけど、今はどうする?エレベーターに乗って、もうオフィスに着いてしまう。

 ・・・。


 ・・・思い浮かんだイメージは、朗らかな人、だった。

 そしてそれはたぶん、僕が会った頃の<黒井さん>、なのだった。



・・・・・・・・・・・・・・・・

 


「あ、おはようございまーす。暑いっすね」

 すれ違いざま笑顔で同僚に声をかけ、三課の手前で、「じゃ、また後でね、クロ」と、黒井の顔を見た。黒井はどぎまぎした声で「あ、うん」とうなずき、自席へ向かう。直後に小さく「じゃね」とつぶやいた声を聞き逃さず、振り向いて「うん」と微笑んだ。

 ・・・。

 ・・・い、一応、出来たぞ。

 即席ながら、まともな発音とまともな会話ができて、それほど悪い感じにもなっていない。

 手は小刻みに震えてるけど、四課の自席に鞄を置き、隣の西沢に「おはようございまーす!」。ああ、ここは会社。ここは会社。人がいっぱいいて仕事という物事を行って、夜になったら出ていくところ。

「おう、おはようさん。久しぶりやね、どうやった、お盆休み」

「あ、はい。どうも、のんびりできました」

「どっか行ったん?」

「え、いや・・・料理したり、片付けしたり」

 いや、嘘はついてない。料理もしたし、片付けもした。自宅でじゃないけど。

「ほおーん、山根君らしいわな。あー、しばらくぶりに朝から喋ったわ。俺も横田君も、隣おらんからしーんとなっとったよここ」

「そうなんですか?別に、僕なんかいなくたって」

「いやいや、意味ある意味ある。ちょい話しかけんのに、意味あるよ山根君」

 PCを立ち上げて、パスワードが一瞬出てこなくて焦りつつ、そして微かに何か馬鹿にされたような今の一言がちらつくが、<快活で朗らかな山根さん>を維持する。いや、別に西沢には不愛想に対応してもいいのかもしれないが、会社では同じ仮面でいないといろいろ辻褄が合わなくなりそうだし。

「・・・あ、山根君といえば、最近オススメのスイーツやけどね」

「え、何ですかそれ?」

 いや、スイーツの内容じゃなく、何ですかその話?

「うん、それがな、新しいコンビニスイーツ見つけてな、瀬戸内レモンのこう、レアチーズの」

「レアチーズ。それは美味しそうですね」

「せやろー!ほんでな・・・ん」

 一瞬の沈黙。西沢が後ろを向いて見上げる。そして「おう、おはよう黒井君」・・・。

 あれ、このシチュエーションは知っている。ついこないだも同じことがあった。

 顔だけ振り向くと、そこには水色のYシャツ。

「・・・山根さあ、コーヒー行こう」

 ・・・。

「あ、うん」

 西沢に「ちょっと失礼」と声をかけ、立ち上がる。後ろを歩くと、黒井は僕の手首をぐいとつかみ、強引に引いて歩いた。

 ああ、またやっちゃった・・・。



・・・・・・・・・・・・・・・



「ご、ごめんクロ、俺が悪かった」

 もう、とりあえず謝罪。とにかく謝罪。シンヤくんの時と違って、告白とか発熱とかは関係なく、今は会社で隣の人と話してただけだから悪いことはないはずだけど、でもたぶんこれは謝罪するシチュエーションなんだ。

「ごめん、ちょっといろいろ、会社が久しぶりとかあってつい」

「・・・山根さあ」

「・・・」

「俺、怒ってるから」

「・・・ごめん!」

 黒井は今まで、上司の前とか以外で「山根」なんて呼んだことはほぼないのに、そして今は給茶機で他に人はいないのに、これは本当に怒っている。もうだめだ、快活な<山根さん>どころの話じゃない。

「ほんとにごめん。俺、反省するから」

「な、何なのお前、あんなさ、俺以外と楽しそうに・・・」

「ごめん。ほんとに俺、あの、お前だけだから」

「・・・っ」

 な、何を言っているんだ俺は。

 それに、どうしてこう、謝罪モードだけはやたらにすらすら出てくるんだ。

「・・・とにかく、ごめん」

「・・・わ、わかった」

 じゃあいいよ、と黒井は震えた声でつぶやき、コーヒーのボタンを何度も押した。

 黒井から恋(仮)されていることについて何の用意も整っていないとしても、たぶん、やってはいけないことをやったら怒られるから謝罪するということについては、準備万端、最初からうまくやれるようだった。そして、そのやってはいけないことの基準は何かといえば、同僚と仕事の話はセーフだが、仕事以外の個人的な話を楽しそうにするのはアウトだ。

 ・・・僕の基準、厳しいな。しかも男女関係ないし。

 今までそれを黒井に当てはめて、背後の三課の話し声に聞き耳を立てていたわけだけど、・・・自分自身にそれが当てはめられるとなると、なかなかに難しい状況だった。もちろん黒井のセーフとアウトがどこだかは分からないが、とりあえず今のは、わざわざ席を立って話を中断させに来るほど、完全にアウトだったということだ。

 ・・・ぼ、僕は、お前がアウトだったとしても歯噛みしていじけるだけだけど、お前は実力行使に来るわけか。

 驚きと心の悲鳴とでふと顔を上げて黒井を見ると、しかしその張本人はほとんど泣きそうな顔をしていた。

「だ、だって・・・だってしょうがないじゃん、俺だってよくわかんない・・・!」

 絞り出すような小声で、背中を丸めて首を振る。

 ああ、そうだよな。お前だって、混乱中なんだ。

「ごめん。俺もいろいろ、頑張ってるんだけど・・・別に、お前に嫌な思いさせたかったわけじゃなくて」

「・・・そう、なの?」

「うん」

「その、俺たち、どうしたらいいの?」

「いや、それは・・・」

 それが分かったら苦労しないよ。もうラブラブで仲良くすればいいんじゃないの??



・・・・・・・・・・・・・・



 給茶機に人が来てしまい、僕は「おはようございまーす、すぐどきますね」と黒井の肩に手を回してそそくさと逃げた。黒井は一瞬固まってしまったけど、少しすると僕の方に身を寄せてきて、あわわと思って手を離した。

「と、とにかく・・・きょ、今日だけ頑張ろう。今日一日だけ仕事して、そしたら明日はノー残だし」

「・・・できるかな」

「もう、いろいろ、乗り切るしかない」

「今日一緒に帰れない?」

「・・・わ、わかんないけど、頑張る。それじゃ・・・」

 三課まで来て、ちょうどチャイムが鳴った。振り返ると黒井はやっぱり泣きそうな顔で僕を見ていて、僕はただうんうんと頷いてみせるしかなかった。


 次の試練は、キャビネ前。

 「お久しぶりですねー」と、制服の女性陣と再会し、何だかえらく昔みたい、というか、やっぱりこの人たち誰だっけ状態。前世で見たことあるような工程表のファイルを広げて、山根と黒井のハンコに驚く。僕たちはつい一週間前、当たり前に仕事をしていた人たちらしい。

 すると黒井が何やら箱を持ってきて、ああ、確か昨日、島根の空港で何か買ってたっけ・・・。

「あ、かわいい、どこのお土産なんですか?」

「えっとね、島根。あの、四課には配らないから、佐山さんだけ特別ね」

 黒井は多少ぎこちないものの、何とか普通に喋っていた。僕は、島根のことは何も知りませんという顔で意味もなくファイルをめくる。

「うわあ、ありがとうございます!<しまねっこ>だって。ご当地キャラってやつですね・・・あれ、ゆきちゃんのは?」

「あ、私のは吉田くんです。島根って聞いてたので、頼んじゃって。どうもありがとうございます!」

「それでよかったでしょ?」

「はい。この、黄色い服は十四歳の吉田くん」

「・・・よしだくん?」

「あ、知らない?鷹の爪の吉田くん。島根の観光大使だから」

「・・・鷹の爪?・・・あ、もしかして映画館で静かにって言ってる赤い人?」

「あ、そう、それ」

 そして黒井は「・・・お前にも、やるよ」と、僕にも<しまねっこ>のカスタードスフレをくれた。しまねっこは、何やら屋根みたいなものを頭にかぶった黄色い猫だった。

 僕は「どうもありがとう」とそれをもらい、ファイルを片付けて席に戻ると早速食べた。カスタードクリームが甘かった。


 それからしばらく「仕事って何だっけ?」状態は続いた。見積もり?粗利?契約書?引き出しの中に自分のふせんメモつきの書類がいくつもあるが、自分の筆跡なのにさっぱり思い出せない。ああ、僕は毎日こんなことをしてたんだっけ・・・。

 そして休み中のメールをチェックし、支社全員宛のお知らせで、今週中にISMSとやらの研修を受けろとのこと。情報セキュリティだの、コンプライアンスだのの、毎年受けなきゃいけないテストだ。月曜から金曜までの朝イチで開かれるらしく、そんなの早速今日出たかったが、あいにく時間はすでに過ぎてしまっていた。

 仕方なく僕は先週の自分のふせんに頼り、一つずつ仕事というものを思い出していった。



・・・・・・・・・・・・・・



 火曜日はあと半日も残っているが、自分のメモに助けられながら、ようやく失われた三営業日を取り戻していく。

 先週の木金と、昨日の月曜日。土日を含んで五日間の盆休み。たぶん僕の人生が変わった、二十八歳の夏休み。

 割り当てられた夏季休暇二日間は八月中に使えばいいので、今日休んでいる人も多かった。おかげでオフィスはややがらんとして、まだまったりムード。

 見積もり一件、テレアポ一件、外回り一件に、契約書の仕上げを二件。

 普段なら、さっさと終わらせて喫茶店で少しサボろうか、くらいの件数だ。

 何度も何度も、頭は黒井と恋(仮)と告白とへ飛んでいきそうになったが、都度、何とかこらえた。とにかく、さっき自分が言ったとおり、今日を乗り切らないと。


 ほんの少しずつ勘を取り戻して、夕方。あとは契約書だ、というところで黒井からメール。


<同行して、直帰になった、ごめん。また、明日>


 読んで、はああ・・・と盛大にため息をつき、僕は椅子からややずり落ちて天井を仰いだ。

 そして念のため振り返って三課を見て、うん、いない。とにかくもう、あとはだらだらと力を抜いていつまででも残業してたった二件の契約書を仕上げるだけだ。あ、気が抜けて、もうだめ。

 下のコンビニで十五分かけてジュースを選び、植え込みのところに腰かけて炭酸を飲んだ。

 ・・・やっぱり僕は、恋をされるのに、向いていない!

 はは、と苦笑いが漏れた。うん、すべてが混乱中ではあるけど、あのメールで気が抜けたことは確かだ。

 好きだとか好かれてないのかとか振られたとか、あれだけ命を懸けたような勢いで騒いできた僕なのに、嫉妬されたり、どうしようと震えられたりしたら、見事に何もできない。

 こんな大役、務まる気がしない。

 恋をされても平気そうな<黒井さん>を真似て乗り切ろうとしたけど、全然保たなかった。

 っていうか今までお前、よく僕にこんな重たい片想いをされていて、生きてこれたな。

 そうして僕は黒井のいないオフィスに、あははと笑いながら戻った。そんなのってどうかと思うけど、今はもうしょうがなかった。

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