第273話:生徒会長の思い出
水曜日。
とにかく朝からISMS研修に出ることだけを考えたが、しかし黒井を誘うべきなのかどうなのかはさっぱり分からない。
そしてもう成り行きに任せることにしてメモ帳とペンを手に立ち上がり、給茶機の奥のセミナールームへ向かう。三課をチラ見して、一緒に、行くかな、と思ったが。
・・・何となく、さっと顔を逸らされた。
それは、はにかんで目を伏せるようなあの表情では、なくて。
慣性の法則のまま僕は歩き続け、振り返ることも出来ず、給茶機を越えたら地平までの展望が広がった。思わずそのまま窓の方へ行き、遠くの真っ青な空を眺めながら、しかし、頭は白くなっていく。
・・・あれ、また、何かやっちゃったのか?
いや、今朝は西沢とも話していないし、何も失態は犯していないはず。
・・・と、いうよりも。
もしかして、今日はもう、好かれてない?
・・・。
ふむ、好かれていないとなると妙にがっかりするというか、苛立つというか、キリキリして、何だお前は、と自分につっこんだ。
それから少し、だから期待するのは嫌なんだとか、そもそも俺は好かれるような人間じゃないとか、確約がないならそんなものを当てにしたくないとか、ぐちゃぐちゃと腹に渦巻いた。しかし、ふと、黒井という一人の人間を考えて、たとえ彼が昨日僕のことが好きで、今日はそれほどじゃなかったとして、でも、そんなのいいじゃないかとも思った。
・・・うん、いいかもしれない。
僕を好きな黒井だって、僕を嫌いな黒井だって、どっちだってあいつだ。
別に、突き放す意味じゃなく、どっちだっていい気がした。それが黒井の感情なら、どんなクロだって僕は好きだ。
・・・あ、やっぱり好きなんだな。
思ったら、ふいに、後ろに気配。
「おい」
振り向くと、目を伏せた黒井が立っていた。何だかすらっとしていて、シャツを腕まくりして、片手は腰に当てて。
「お前、研修、出るわけ」
低い声でぶっきらぼうに訊かれ、とりあえず「うん」と答える。
「・・・何で今朝は、来てくんないの」
「え?」
・・・まさか、今日も迎えに行くって思ってたのか?
「メール、だって、返事、来ないし」
「あ・・・そうだった」
「お前、俺のこと嫌い?」
「なっ、何言ってんだよ」
「だって」
「・・・いろいろ、ごめん」
「・・・うん」
「俺・・・」
好きだよ、と言いそうになったが、研修に出る人と講師の小嶋先生が後ろを通り、いったん会話は中断した。そうか、お前も疑心暗鬼になってたのかと思うとちょっと気が抜けて、俺なんかずっとお前が好きに決まってるだろ、と思った。
・・・・・・・・・・・・・
優しい優しい小嶋先生が<テストに出るところ>だけゆっくり二回読んでくれて、生徒たちは同じタイミングでそこに線を引き、そのテキストを見ながらテストに臨んだ。情報漏えいがどうとか、社内帳票の管理と保存についてとか、何となく耳に痛いような問題が並ぶけど、まあ痛そうなままやり過ごした。
カリカリ、カツカツと、セミナールームに物を書く音が響く。およそ15人くらいの男女が本当に試験よろしく、静かに何かを書いている。早々に終わらせた僕はボールペンを弄びながらふと、明け方まで勉強して必ず金縛りに遭い、幻覚の中で脳みその記憶領域に詰め込んだ知識を整理し、フラフラになりながら高得点を取り続けた高校時代を思い出した。特に、高二でミステリに出会ってからは勉強も知識として面白く、昼休みにひとり教科書を読むのも苦ではなくなり、学年トップに名を連ねて生徒会長から秘訣を訊かれたりもした。金縛りですなんて言えるはずもなく、のらくらかわしていたら妙に興味を持たれて、よく強引にいろいろ引っ張り回されていたっけ。「ヒロはね、俺に言わないけど、何か秘密があるんだよ」なんて取り巻きに吹聴するから<会長に一目置かれている人>みたいになっちゃって、むしろ孤立してるくらいがちょうどよくなったりした。今思えばあの人も僕を掘り起こそうと奮闘したみたいだけど、十年経ってそれを遂げたのは黒井だったんだ。
高校時代の思い出がこんな風に去来するなんて、今までほとんどなかった。
色々と、フタが開いたから、勝手に出てくるんだろう。
そうそう、会長から強引に点数を訊き出され、僕の方が上だと分かると盛大に怒られたっけ。「おい、ヒロは本当にむかつくな、嫉妬がおさまらない!」なんて。ああ、そういえばあれも嫉妬されてたのか。でも僕は別に頭がいいわけじゃなく、暗記の効率が良かっただけで、羨ましがられる必要性を感じなかったから無視していた。それがまた気に食わないんだと余計に絡まれて、テストが近づくと勉強を教えろ、俺に付き合えと、しつこく迫られたものだ・・・。
・・・俺と付き合えよ、ヒロ。
悪いようにはしない。ちゃんと大事にする。ヒロは俺くらいの人間と付き合うべきだ。
・・・。
放課後の教室。会長は僕の前の席で、いつもこちらを振り返ってきて、でも授業中だって先生に注意されない、させないくらいの存在だった。
あの時、僕は、何て言ったんだろう。
間に合ってます、って、言ったような。
意味が分からなかったし、帰ってミステリの続きが読みたかった。
だってショウゴさんもそんな暇じゃないでしょう?・・・そう言うといつにも増して鋭く睨まれ、<さん>付けするな、ショウゴって呼べとまた釘を刺されたけど、結局一度も呼び捨てになんかしなかった。下の名前で呼んだだけでもかなりの譲歩で、呼ばせていたのも譲歩だった。
僕は顔を上げて、教壇に肘をついて気を抜いている小嶋さんを眺め、テストを見直すともなく見直した。
・・・まさか、男から告白されるのが、二回目だったとは。
隣の黒井を見ると、何やらテキストにぐちゃぐちゃと書いては塗り潰していた。
「俺、お前が、好きだ」・・・公園でのせりふが、あの時のセミの声をともなって再生される。「好きってのは、ちゃんと、恋の、好きだから・・・」。
・・・ああ、俺は、告白されたんだ。
あの教室よりずっと、何ていうか、ストレートに。
ヒロじゃない、ヤマネコウジが、好きだと言われたんだ。
・・・今もまだその意味をつかみかねてはいるけど、急にどうしようもなく恥ずかしくなってきて、効きすぎている冷房も暑いほどだった。
今の俺は。
間に合ってなんかない。
お願いします。
付き合ってください。
「ハイ、それでは時間でーす。テスト用紙だけそのままで、お忘れ物のないようお隣りへお帰り下さい。朝からお疲れさまでしたー」
黒井は少し反り返って背筋を伸ばし、こちらは見ないまま、「・・・コーヒー、寄る?」と言った。僕は「ああ、行こう」とうなずいて、テキストを片付けた。
・・・・・・・・・・・・・・
頭の中では「俺も好きだから、付き合ってください」というフレーズが延々リピートしてるけど、行われたのはコーヒーの抽出とカップを携行しての移動、そして「じゃあまた」の一言だけだった。まあこんなオフィスのど真ん中で言えることでもないし、ノー残なんだから夕方まで待つか。
告白されたということ自体は、おかしなところからスポットが当たったせいで、やや噛み砕けるようになってきたみたいだった。しかし、それを具体的にどうするかとなるとまた別問題だ。今まで完全に受け身でやってきた僕は、頭ではそうじゃなくていいと分かっても、だからって突然アクティブになれるわけじゃない。
そうして、でもまあ一緒に帰るチャンスがあれば何かができるかもしれないと思っていた。
しかし、夕方にまた、メール。
<今日は、一人で帰る。ごめん、夜、電話して>
何なのかはわからなかったが、とにかく電話をすればいいわけで、それまではただ黙って仕事をした。
・・・・・・・・・・・・・・・
「あの、もしもし」
夜、21時過ぎ。黒井は電話にすぐ出たものの、「あ、うん・・・」と何となく思い詰めたような声。もちろん僕は不安になるけど、とにかく話をしないと何も分からない。
「その、どうかした?何か、具合悪いとか・・・」
「ううん、いや、違うけど」
「・・・うん」
旅行中五日間もずっと一緒にいたわけで、電話で話すのは久しぶりだった。目の前に相手はいなくて、右手で持った小さな機械だけが頼りというのは、何とも心許なかった。
しばらく待つと、たどたどしい言葉。
「あの、俺・・・えっと、・・・ふう、何かさ、ほら、・・・ああ、そう、朝のこと」
「うん、朝?」
「俺、お前に怒ったじゃん。何で来なかったって」
「ああ、その」
「だ、だからね、・・・うん。・・・しょうがないな、もう。だってね、俺、全然・・・」
「・・・うん?」
「全然、だめで・・・」
「だ、だめ?」
「だって俺、何か、すごい、ただかっこ・・・わるくて」
「かっこ悪い?」
「何か、嫉妬したり、連絡がないとイヤになったり、何でこんなだかわかんないけど、・・・だってさ、思わない?俺、・・・全然、前の方が、お前にカッコつけられてた」
「・・・」
「な、中身がかっこいいって言われたいのに、これ全然逆じゃん!」
「・・・あ、ああ」
「全然、前の方が、出来てたじゃん。あんな、空っぽの俺だったってのに、でもちゃんと・・・な、なんていうか、わかんない?」
「え、えっと・・・な、何となくは」
「今の俺は、なんか、あるはずなのに、でも何にも出来てないし、お前に、会っても、・・・全然、だめじゃん・・・」
「・・・だ、だめってこと、ないだろ、別に」
「だめすぎだよ。嫉妬とかで怒りまくってる時だけ落ち着いてお前のこと見れるけど、そうじゃないともうどきどきするし、しゃ、写真だって、あの、動画、撮ったのだって、こんな俺じゃ見れなくて、何でこんなだめなの俺?」
「いや、だめとかじゃなくてその、ちょっと、混乱してるだけだろ?色々、あったからさ。急に、いろいろ・・・」
「そう、だけど」
「落ち着けよ、別に、・・・お前がかっこ悪くなったなんてこと、ないんだから」
「・・・嘘つけよ」
「嘘じゃないよ」
「どっちでもいいよ。どうしたらいいんだよ」
「え・・・っと、それは・・・」
言葉に、詰まった。うん、・・・恋してる時のダメ人間具合ならもちろん知っている。しかも黒井は感情がそのまんま外に出て、僕みたいに理性で抑えることをしないから、それだと残念だけど、どうにも、ならない・・・。
「・・・こんな、なのにさ、俺」
「・・・うん」
「だめなんだよ」
「・・・」
「・・・やりたい、ってのだけ、ずっとある」
「・・・うん?」
「お前と、したい。でも・・・無理。こんな、かっこわるい俺じゃ」
「・・・」
「前だったら、ほんとにしたければ、押し倒せてた。キスも出来た。でも今は無理。身体が言うこと聞かないし、今日だって、電話でなきゃ無理だって、一緒に帰るの、無理だった。テストの時も、となり座ってるだけで、もう、さ。お前の、体温とか、においとか、・・・頭おかしくなりそうで」
「・・・」
「手首、とか、腰、とか、・・・くちびる、とか」
「・・・」
「・・・聞いて、る?」
「きい、て、る」
「お前の、ことだよ」
「・・・ん」
「どうしたらいい?」
俺に、訊くなよ、そんなこと・・・!
「ねえ、やまねこ」
「・・・うん?」
「俺、お前で、していい?」
「・・・っ」
「・・・嫌?」
「そ、そんなの・・・勝手に、好きに、すれば」
「俺さ、写真、見れないから・・・でも、お前が、記憶にとどめとけばって、言ったから」
「・・・だ、だから、好きに」
「いいの?」
いいの、って・・・、お前が、俺のことを、考えながら、ひとりで・・・。
「・・・いい、よ」
「わかった・・・どうなるかわかんないけど、してみる・・・」
どうなるって、どうなるんだよ。
してみるって、何だよ・・・。
どうしてそういうの、お前、本人の前で、言うんだよ・・・?
「・・・もしもし、ねこ聞いてる?」
「ああ、まあ・・・それ、じゃ、け、健闘を、祈る」
「・・・ばかだなお前」
「しょうがないだろ」
「ごめん」
「いや、別に」
「ううん、そうじゃなくて。朝お前のこと怒ってごめん。お前のこと好きなのに、何か怒っちゃうんだよ」
「・・・き、気にするな、平気だ」
「うん。・・・じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
「ねこ、ありがとう」
「・・・どう、いたしまして」
電話が切れて、俺がひとり、部屋に残された。
・・・どうしろっていうんだ。
あの、はだけた浴衣の、俺を、想ってしている・・・お前を、想って、すればいいのか?
・・・できるよ、そんなの。
もう知るか。俺はお前に許可なんか取ったことないし、これからも取らないからな。
頭の中だけは、自由なんだから。
・・・。
それは、もう、いいか。
「・・・お前で、するよ。よろしく」
僕はそう声に出して、まあ本人の前ではないけれども、あいだを取って、とりあえずそれでいいことにした。
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