第274話:黒井と山根の飲み会

 木曜日。

 昨日の電話であれだけ「かっこ悪い」を連発されて、それでのこのこ会うわけにもいかず、朝も時間をずらし、コーヒーにも誘わなかった。

 西沢が遅めの盆休みに入り、横田との会話は前を向いたままの独り言とあまり変わらないから、社内での心配はしなくて済む。仕事もまだまったりムードで、少しずついろいろ思い出してきたし、ひとまず金曜まで頑張って週末に滑り込めそうだった。

 ゆうべ、しばらくぶりに抜いたからか、何となく、体が軽かった。

 お前は、どうだった・・・?なんて考えてしまえば、恋わずらいだか恋されわずらいだかが始まるので、思考はそこで止める。とにかく明日までは会社だ。俺は会社員で、単なる新宿サラリーマンで、独り暮らしで、恋人は・・・って、だからやめやめ。


 19時半ごろ仕事を終え、ちらっと三課を見たが、黒井は別の誰かと話していたのでそのまま帰ることにした。電車の中でメールが鳴り、<また電話して>と一言。・・・べ、別にいいけど、いったい何時くらいにかけたらいいか困るから、お前が帰宅して夕飯とか終えて、いい時間にかけてくれたらいいのに、と思うのは間違っているのか?

 家に帰り、旅行前に冷凍しておいたカレーを食べきって、電話の前にシャワーと歯磨きを済ませた。22時過ぎになり、黒井の方が通勤時間が短いことも踏まえつつ、遅すぎない時間というとこの辺か。

 何度もメールを見返してから、発信ボタンを押す。うん、昨日の展開を考えるに、緊張してしまうのも致し方がない・・・。

「・・・もしもし」

 あ、出た・・・。

「えっと、・・・メール、見て、かけたけど、今大丈夫?」

「うん・・・別に、だいじょぶじゃなくたって、話すけど」

 くそ、いちいち汗をかきそうなことを言ってくれるな。

「あー、それで、何だった・・・?」

 ああ、何か電話くれって言われたけど用事は何ですかっていうこの感じ、もう少し何とかならないのかなあ僕は。

「いや、えっと・・・その、明日」

「うん」

「あ、明日ヒマ?」

「へっ・・・明日、会社だろ」

「や、そうだけど、その・・・えー、会社終わったら」

「あ、ああ」

「・・・」

「・・・うん?」

「・・・の、飲みに行かない?」

「え、飲み?」

「だ、だめ、かな」

「だめじゃない、だめじゃないけど、なに、飲みって、二人で?」

「二人、だけど」

「そ、そうか。・・・いや、あの、何か飲み会とか、そういうのに参加する的なあれかと思って・・・」

「・・・ふたり、だけど」

「うん、いいんだ、ただの確認だ。行くよ」

「・・・だからね、あ、明日、会社で、一回コーヒー行って、それから、飲み行って、帰る・・・」

「う、ん?」

「な、何て言うの、リハビリ!?」

「・・・リハビリ」

「だってこのまま、会社では会わないで、電話だけしててもしょうがないでしょ?」

「そ、それは、そうだけど」

 言ってから、確かにそれはそうだけど、そうなんだけど・・・!と思った。

 僕は、黒井が恋(仮)わずらいで混乱中で、だからそっとしておいて、本人が何かを納得するまで遠くから見守ろう的なスタンスに入りつつあったけど、黒井は早くそれを乗り越えて・・・。

 ・・・乗り越えて?

 のり、こえると、どうなるの?

「・・・あの、どうしたの?」

 黒井の不安そうな声。

「えっ、あ、ごめん。何でもない」

「じゃあ、そういう、わけだから」

「分かった。・・・な、なるべく早く、仕事終わらすよ」

「・・・うん」

「それで、飲みに、行こうか」

「・・・、うん」

 ・・・あれ。

 なぜだろう。

 その、ちょっとほっとしたような、はにかんだ、嬉しそうな「うん」が、・・・かわいく、思えて。

 か、かわいい?

 いやいや、黒井は僕の<カッコいい黒井クン>のはずなのに、かわいいはないだろう。

「じゃ、明日ね。ねこ、おやすみ」

 ・・・かわいい。

「うん、おやすみ、クロ」

 携帯を耳から離して見つめて、通話が切れるのを待つけど、通話時間の秒数は増え続ける。

 な、何だよこれ、僕から切っていいの?

 もう、どうすりゃいいんだよ!

 目をぎゅっとつぶって、えいと切った。

 しばらく眠れなかった。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 金曜日。上の空。これが上の空でなくてなんだろう。

 一回、コーヒーに行く。仕事を終わらす。飲みに、行く。

 むしろ西沢と話したかった。「何ですかそれ」とか「別に結構です」とか、「興味ないんで」とか、言いたいだけ言ってやりたかった。そして「ほんま嫌なヤツやな山根君、そういうの、かわいないでー」とか、どうでもよく笑ってほしかった。

 ・・・僕はどうなっちゃうんだろう。

 たぶん、少し、怖かった。

 期待されているのがプレッシャー、というのもあるが、もう少し根本的に、自分が何か変わってしまう気がした。

 その昔、毎日ラブラブな電話をして週末はラブホでセックスしてディナーして、メールにはハートマークが並ぶ<恋人>になれたって、だから何だ、そんなところに何もないじゃないか、そしてその先、結婚だって出来ないんだぞ、と、本気でそう思っていた。

 それなのに。

 告白(仮)されて、毎晩(二日だけど)電話をして、かわいらしく(これも仮)おやすみなんて言われて、あっという間に舞い上がっている僕は何だ。

 ・・・でも。

 黒井もきっと、同じか。

 あいつだって、戸惑って、混乱して、今までかっこつけられていた自分がかっこ悪くなったと感じて、困っているんだ。

 ああ、また僕は遅いな。一昨日言われたことだ。あいつも、変わっていってしまっている自分を持て余している。

 恋をすれば、プロットの第二幕で転換する、と思ったけど。

 映画みたいに数十分でどうにかなるものじゃない。現実では、数日、数週間かかって、何かが変わっていく。それがいい方へなのかどうなのか、見当もつかないまま。

 ・・・それでも、進むしかない、か。

 三課を振り返ったら、黒井は僕を見ていた。

 その表情まではよく見えなくて、僕は外していた眼鏡をかけ、もう一度振り返った。

 そうしたら鮮明に見えた。黒井は、口元だけ照れたように、笑った。

 僕は立ち上がってそのままそちらへ歩き、午前中だから三課の島にはまだ人がいたけれども、その席まで行って「コーヒー、行こう」と声をかけた。黒井は「うん」と言って、僕の後ろをついてきた。手が震えているのを悟られないようカップを持つだけで、精いっぱいだった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 外回りから帰社する前に、コンビニで涼む。

 もちろん、頭の中は黒井彰彦のはにかんだ笑顔でいっぱいだ。

 しかし、こうしてみると、いかに僕がただクロの来訪を待つだけだったかというのが身に染みる。コーヒーに誘うのも、電話をするのもメールをするのも、どこかへ行こうと提案するのも、すべてクロだった。

 自分からは世界に何の影響も与えることがないよう、この気持ちの悪い中身を晒してしまうことがないよう・・・そして、もしかしたら実はそうしても大丈夫なんじゃないかと1ミリでも期待してしまうことがないよう、絶対に自分を抑えてきた。特にその気がない時だって、無意識のプログラムは完全に僕と同化して、それがもはや僕になってしまっていた。

 その効力は今ももちろん健在だけれど、しかし、それはこの世の絶対の定理でもなく、自分を守るためのやむを得ない防御策だったことも、今は分かってしまった。それでも、だからといって、じゃあ今すぐ別の回路で動けるかというとそんなこともない。

 でもまあ、少なくとも、黒井彰彦に関してだけ言えば、今も昔も変わらず・・・ただがむしゃらに、その時出来る精いっぱいの本気で向き合うだけ。そういうことで、いいんだろう。理論理屈じゃなく、それは腹で納得していた。


 帰社して、黒井の背中を見て、自席についたらたぶん僕の背中を見られているのも感じつつ、仕事をした。「そういや山根君さあ」で横田の愚痴を聞き、三課には新人が「黒井さん、ちょっと」とやってきたけれど、僕たちは仕事をした。

 金曜日、仕事終わりに、飲みに行くために。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 本当は、仕事を終わらせたらその席まで行って「俺終わったけど?」でその後の段取りを決めるのが一番早いわけだけど、それらしい感じを少しでも出してしまうと・・・つまり、社内で「これから飲みに行く」というにおいが少しでも発せられてしまうと、どこからか誰かに嗅ぎつけられ、「お、飲み、いいねえ!」と勝手に「飲み会開催のお知らせ」が出されてしまうので、どうにかしてコソコソするしかなかった。

 もしかしてお前は、そんな隠れる必要ないじゃん、って言うかもしれないけど。 

 でも、約束を遂行するにあたって、余計な面倒はない方がいい。特に、今の僕たちには。

 ・・・今の僕たちって、何だよ。

 つ、つまり、色恋沙汰の渦中にいる僕たち?な、何だそれは。

 おもむろに両手をこすり合わせ、マウスなどをつかんだりして、現実を見る。恋(仮)の海は深い。溺れていては飲みに行けない。

 それで僕は「お先でーす」でオフィスを出る時にほんの少し振り返って、そして黒井もこちらを見ていて、「先に出て待ってる」という意味のうなずきと、つい目を伏せたのが一緒になったような、結果的にはただうつむいただけ、みたいなことになったけど、たぶん伝わったと信じて廊下に出た。ビルの地下のコンビニ前でメールを打ち、十分ほどで黒井が現れた。

 歩いてくる。当たり前だけど。

 だからその、僕が近づいていくにしても、相手が近づいてくるにしても、距離が詰まっていく一歩一歩が、ジェットコースターが落ちる瞬間の、ひゅう、なんだってば。

 同じ白でも、ちょっと光沢があって、ボタンとボタンホールが黒い、僕なんかとは違うオシャレなYシャツ姿で、ああ、この人とこれから飲みに行くって、誰なんですか僕は。

「そ、その・・・おまた、せ」

「いや、待ってない」

「じゃ、どこ、行こっか」

「とりあえずそこら辺、歩くか」

 エスカレーターで一階に上がり、正面から外に出る。僕たちはアトミクを一緒にやるパートナーとして互いの良き理解者みたいな存在になりつつあったはず、だけど、もう全部忘れた。気持ちとしては、あの忘年会の十日後くらいに逆戻りしている。

 お、お前が飲み会なんて言うからだ。これなら、どちらかの部屋の布団の上で正座でもしている方が、まだ<そう>だっただろう。肝試しをして、おかしくなって、変な引き金を引いた黒犬と山猫がのたうちまわっている夏、というベクトル。

 しかし今はただ、まだ熱気のこもった西新宿の繁華街を、同期の黒井と山根が歩いているだけ。

「お兄さん、居酒屋のご利用ないですか?すぐご案内できますよ!」

「飲み放題本日お得ですよ、お兄さんたち、いかがすか?」

 次々に声をかけられて、しかし、居酒屋の基準が分からない僕は、何だかぼったくられるんじゃないかと警戒するけど。

 黒井が僕を見て、「どうする?」と控えめに目で告げる。

 呼び込みの兄ちゃんと黒井に見られて焦る僕は、歌舞伎町じゃあるまいし滅多なことは起こるまいという思考で「あ、それじゃ・・・」と答えた。

「お、ありがとうございまーっす!お二人様で」

「あ、はい」

 兄ちゃんは何やら襟に付いたマイクみたいなものに「二名様ご案内~」と告げ、「こちらっすね。階段お気を付けて!」と僕たちを送り出した。上がると特に何でもない四人テーブルに案内され、ああ、もっと個室とか半個室とかそういうところがよかったのに。

 そして、今頃気づく。待てよ、もしかしてそういうところを、ちゃんと、予約しておくべきだったんじゃないか?

 それからおしぼりとメニューが置かれ、成り行き任せでこんなところでごめんと謝ろうとした、直前。何か込み入った話をするなら個室の方が気兼ねしなくていいと思ったけど、でもそれって何だか、<今の僕たち>で言えば、個室を予約してあるなんて<下心があります>という表明みたいになってしまうんじゃ・・・と、慌てて謝罪を引っ込めた。まったくいろいろ忙しい。

「お先、お飲み物いかがしますか?」

 僕はこれ以上考えるのに疲れ、メニューも見ず「それじゃ、生二つ」と答えた。

「ジョッキでよろしいですか?」

「・・・」

 えっと、ジョッキ以外だと何があるんだ?これ、言うととりあえず持ってきてもらえる何かじゃなかったっけ?くそ、最短でいろいろな手続きを済ませたいのに、会話形式のフローチャートが続くんだな。そのチャート、図入りで紙におこしてペンを添えて無言で持ってきてくれないかな。

 すると黒井が「二つともグラスで。あとお通しいらない」と平坦に告げ、注文のお姉さんは下がっていった。僕たちは斜め向かいに座って、水を飲み、おしぼりで手を拭いた。店員のお姉さんに何らかのアクションをしない黒井は、初めて見た。

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