第92話:来週はバレンタインデー
目覚ましが鳴って、金曜日。週末。眠くて、ヴォルフガングに代わりに行ってもらいたいけど、夜型のあいつが朝から起きるわけないか。朝型の僕が行かなきゃだめなの?でも、ゾンマーフェルト先生が待ってるから・・・。ああ、僕はハイゼンベルクじゃない。会社はゼミナールじゃない。
朝からずっと物理漬け。ハイゼンベルクとディラックはアメリカから船で日本の横浜へやってきた。この人たち日本にも来てたのか。しかしこの会話、本当は何語なんだろう。この人たち、何ヶ国語喋れるんだろう。そしていくらなんでも日本語を喋れたわけはないから、彼らを出迎えた日本人も、ドイツ語か英語はぺらぺらだったわけで・・・。そういえば黒井も帰国子女だっけ、やっぱり英語ぺらぺらだったりするのかな。何それかっこよすぎる。そりゃ菅野ちゃんも惚れちゃうよ・・・ああ、気を抜くとすぐこれだな。
会社に着くと、隣の席に知らない女の子が・・・と思ったら菅野だった。制服姿だったから、分からなかったのだ。
「おはようございます。制服、やっと来たんだね」
「あ、山根さん、おはようございます。あの、あの・・・」
「なに、どうしたの?」
「う、後ろ・・・」
「え?」
振り向くと、黒井と目が合った。あ、おはよう。・・・あれ、逸らされちゃったかな。いや、ちょうど逸らすところだったんだろう。
「・・・で、どうしたの?」
「どうしたのじゃないです。もっと早く来てください」
「え?」
「五分前とか遅いです。社員なら十五分前から来ててください!」
「な、何で?」
「う、後ろ姿、ずっと、見られてる気がして・・・いえ、自意識過剰、ですけど」
あ、ああ、また緊張しまくってるのか。それで姿勢も伸びまくってるのか。
「そんなに固まってないで、普通に挨拶すれば。手でも振ったら、振り返すんじゃない?」
何言ってるんだ俺!昔の自分にアドバイスしてるんじゃないんだから、恋のキューピッドはよせって!
「・・・山根さんはいいですよね。手なんか振り放題、っていうか繋ぎ放題じゃないですか」
「・・・つ、繋ぎ放題、ではないけど」
ぼ、僕だってそれがいいよ。そうしたいよ。
「今すぐ行って繋いでくればいいじゃないですか・・・あたしなんかこの姿勢のまま十分も動けなくて・・・」
・・・何だかちょっとかわいそうになって、握手くらいさせてやってもいいような気になってくる。ここで甘いからいけないんだけど。うん、だめだめ、余裕ぶっこいてる場合じゃない。たとえ彼女にしなくても、あいつはやっちゃうかもしれないんだ。
・・・。
な、なんてこと!
ふ、不潔!ふしだら!あり得ない!
こんな状態のこんな子、何もしなくても落ちるじゃないか。新宿にいくつラブホがあると思ってるんだ。今夜にでも直行出来ちゃうよ!
・・・。
ま、いっか。別に、彼女にしないなら。
・・・いいのかな。どうなのかな。
っていうか、あいつ、そういうのって、どうしてるのかな・・・。
黒井がこの間僕の部屋でしてたらしいことを思い出し、僕も菅野の隣で赤面した。何だろうね、黒井に後ろ姿を見られながら、何してるんだろうこの二人。
朝礼が始まって、ひとまずそちらに集中し、事なきを得た。その後課長がやってきて、また菅野に指示を出す。
「ええと、ここの欄の、この日付なんだけどね。一応来週を目処に考えてるんで、来週の日付で書いてくれる?」
「はい」
「えっと、カレンダー・・・山根、ちょっと貸して」
「あ、はい」
僕は自分の卓上カレンダーを渡した。得意先からもらった、耕うん機の写真が入ったかっこいいやつ・・・って、渋すぎるだろ。ちょっと変えようかな。
「じゃ、よろしく」
「はい、分かりました・・・」
課長が行ってしまうと、菅野はカレンダーを見つめてまた固まって、というか、わなないてしまった。あ、耕うん機にウケてる?
「あ、あのね、それ・・・」
「や、やまねさん」
「はい」
「見てください、これ・・・」
細い指と、整えられた爪とマニキュア、その先には・・・耕うん機ではなく、14の文字。
「え?来週でしょ。それだよ。今日七日だから」
「ち、ちが・・・」
「うん?さっき言われてたの、来週の日付じゃないの?」
「え、えっと」
「何。十四日がどうしたの・・・あ」
バレンタインだ。
恋する乙女の日、だ。
「ああ、バレンタインデー・・・ね」
「・・・」
え、ここで黙られても・・・。僕から何を言えっていうの。
「い、いい機会なんじゃない?」
うわー、バカバカ。何でだよ。・・・でもさ、ここで理由もなく「やめときなよ」とか「無理だよ」とか言えないでしょ。ごく普通の隣人としては、何とはなしに、頑張ってね的な対応しかとれないでしょ。
「や、山根さん・・・」
「は、はい」
「お願いしても、いいですか」
「・・・何を」
「いろいろ、教えてもらっても」
「え?」
「その、くろ・・・あ、あの人と、一番仲良いのって山根さんですよね」
「えっ、そ、そうかな」
「好みとか、そういうの・・・」
「い、いや、俺だって、そんなには」
「聞き出したりして、ください・・・」
そ、そんなこと・・・!いや、酷ってもんだよ、菅野さん。
だって俺だって、<あの人>のこと、好きなんだからさ・・・!
「ええ?好みって、チョコの?」
「しぃー!」
菅野が片目をつぶって人差し指を立てる。すっかり椅子ごとこちらに寄ってきて、背中も丸めてひそひそ話。腹筋も背筋ももうどうでもいいらしい。まあ、そりゃ、真剣だよなあ。年に一度の、絶好のチャンスなんだし。女の子っていいなあ。あ、でも僕が女だったら負けてるか。
「と、とにかく、何でもいいからお願いします!山根さんしか頼れる人いないし、たぶん聞き出せるのって山根さんだけです」
「・・・、そ、そんなこと言われても。な、何て聞けばいいの?この時期に、お前どんなチョコが好き?って、俺が聞くわけ?」
「そ、そうです!」
ちょっと変だと思ったのか、菅野も笑いをこらえている。そりゃ、おかしいでしょ。
「何でって言われたら、菅野さんが訊けって・・・」
「だめだめだめ!それ言っちゃったら、意味ないです!」
ま、そりゃそうだ。
「・・・じゃあ、どうすればいいの?」
「お、おれが知りたいんだって、言って」
「はあ?」
二人とも、ほとんど吹き出している。何だそれ。
「じゃ、じゃあせめて、嫌いなチョコはあるかって」
「何でって言われたら?」
「・・・おれが知りたいんだって」
もう今度は声に出して笑った。あははは、そんなの、俺も知りたいけどさ。あはは!
二人して大笑いしていたら、後ろから椅子を蹴られた。あ、うるさかったですか?すいません、仕事中に申し訳ない・・・って、あ。
「楽しそうだね」
く、くろいくん。
菅野は電池が切れたみたいに向こう側へフェードアウトしていった。ま、まさか聞こえてた?いや、別に僕は聞かれたって構わないんだけど・・・。
「ねえ、菅野ちゃん」
「は!はい」
「あっちのコーヒー、やったことある?」
「な、ないです」
「じゃあ教えてあげるよ。ついてきて?」
「は、はい・・・」
黒井はそのまま給茶機へ歩いていった。な、何これ。どういうこと?たぶん同じ顔で菅野が僕を見た。
「ど、ど、どうしよう!」
「どうって・・・い、行っておいでよ」
もう顔面蒼白だ。本当に好きなのかな、何だかほとんど怖がってるようにも見える。僕も時々、こうなってるのか?
「え、どうしよう、山根さん助けて!」
僕の手を両手で握ってすがってくる。泣きそうだけど、助けられないよ。
「別に、大丈夫だよ。ついでに自分で訊けばいいじゃん」
「そ、そんなの出来ない!・・・あ、でも行っちゃう!」
「急いで!」
「は、はい!」
菅野は小走りで黒井に追いつく。背の高い黒井と髪の長い菅野、スーツと制服で、後ろ姿も美男美女だった。ああ、何かお似合いだね。嫉妬の虫が昨日より落ち着いている。僕なんかより、こっちの方が、いいのかな。
でもさ、朝だって目は逸らされるし、今も、僕には一瞥もくれないし、あれれ、まさか、もしかして?
・・・もしかする、かもね。
何度目だろう、もう慣れっこだよ、大丈夫。せーの。
・・・ふ、振られた?
あはは、もしかして、嫉妬されてたのは菅野とずっと楽しそうにしてた僕の方か?そういえば昨日だって、いつも仲良く喋ってる、みたいなこと言われたっけ。
何だよ、彼女が出来ても、一緒にいて・・・なんて言ったくせに!・・・でも、しょうがないよね。人の心なんて、次の日にはわかんないんだから。菅野だって昨日のあの瞬間からあれなわけだし、それは僕だってそうだったんだし、実証済みだ。今日の朝から黒井が菅野を好きになったって、おかしくも何ともない・・・。
そして、菅野が足をふらつかせながら、コーヒーをこぼしそうな勢いで帰ってきた。
「・・・お帰りなさい」
「・・・も、もうだめ、ドキドキして」
「ほら、コーヒー置いて」
「そ、そうですね。落ち着かなきゃ、深呼吸・・・」
「・・・で、訊けたの?」
「ま、まさか。そんなわけないです!」
「あ、そう」
「だから、あの、山根さんのこと、ひたすら話しました」
「・・・は?」
「昨日封筒折れなかったってこと聞いたし、洋楽聴いてるってこと話したり、あとそのカレンダーの写真のこととか・・・」
「はい?」
「コーヒーにクリープどか入れすぎることとか、蹴られても喜んでるってこととか・・・」
「へっ?」
「山根さんのこと話してたら、ちょっとは大丈夫でした・・・」
「あ・・・そう」
「・・・でもやっぱり、優しいんだ。友達のことあんな風に話せる人って、絶対いい人・・・」
な、何か恋する乙女による美化が始まってるような気もするけど・・・。
はあ、でも、もういいよ。
二人とも、僕をダシにしてせいぜい楽しめばいいんだ。
僕の趣味が悪いとか、変態とか、出来損ないとか言い合って、どんどん仲良くなればいい。そんでいつの間にか勝手にチョコの好みも聞き出して、バレンタインになればいいじゃん!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
菅野がコピー機かどこかへ行って、横田が僕に話しかけた。
「・・・山根くん、菅野さん争奪戦ですか」
「もういいんだ。俺はだめだ」
菅野は僕に、僕は横田に聞いてもらう。何か昔の歌でこんなのなかった?バスの切符をお隣へ、お隣へって・・・。
「そんなことないって。まだ一歩リードしてるよ」
「・・・そうかなあ」
「まだわかんないっすよー」
「でも無理だよ、あの後ろ姿見たらさ。もう、お似合いで・・・」
「・・・うーん、まあ、ね」
「横田くん、僕もう出かける」
「はい、行ってらっしゃい。忘れ物なーい?ハンカチちり紙持った?」
「・・・ちりがみない」
「あらあら、だめじゃない。ほら、これ持って・・・あ、ねーや」
「ないのかよ」
「ない」
「あっそ」
仕方なく僕は立ち上がってふらふらと出かけた。もういいんだ、僕なんか。かっこいい黒井くんと可愛い菅野ちゃんの前では、全くの無力だ。リードも何もしてないただのお邪魔虫だよ。ああ、こんなんで来週バレンタインを迎えるとか、つらすぎる。きっと菅野は優しいから僕にも義理チョコをくれるかもしれないけど、ああ、僕だって本命をあげたいよ。そしたらせめて勝負できるのに。
・・・負け戦、してみる?・・・正気の沙汰じゃない。
・・・。
あーあ。
今日も、寒いなあ・・・。
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