第91話:恋のライバル、生成中

 17時過ぎに帰るか、その前に帰るか。

 結局、やり過ごそうと思ったけど、心配で16時過ぎに帰社した。

 電車で音楽を聴いていると少し落ち着いたけど、会社まで来たら居てもたってもいられなくなって。しかし、黒井はまだ帰ってなくて、横田もいなくて、菅野が一人鼻歌交じりに封筒を折っていた。

「あ、お帰りなさい」

「・・・ただいま、戻りました」

「寒かったでしょう、外」

「ま、まあ」

「あ、これ、よかったら。北海道ミルク飴」

「・・・どうも」

 何だ、そんなに無邪気に微笑まれたら、怒れない。まあ、悪いのは菅野じゃなくて、あの女たらしの方なんだし。

 席についてパソコンを立ち上げる。課長もいなくて、何だかぽつんと二人きり。ちょっと気まずいというか、何というか。しかし菅野の方はそんなことは気にもしていないようだった。ちょっと、悪い気になってくる。ふんふんという鼻歌が、やがてラララに変わった。

「・・・えらくご機嫌だね」

「えっ、あ、あたし、声出てました?」

「ラララーって」

「やだ、あはは」

「声、綺麗だね」

 あ、お世辞とか、言っちゃったかな。しかし菅野は無言でにやにや微笑んで、「・・・うれしい、です!」とささやいた。ふふーん、褒められちゃったもんね、という顔で小首を傾げる。つい悔しくなって、「お世辞だよ」とつぶやいてみた。

「え・・・」

 手も表情も固まって、動かなくなってしまった。あ、ごめんって。

「・・・なんてね。でもそんなことないって知ってます。山根さんは嘘とかつかないもん」

「え、何で?」

「今朝の、コーヒーのこと・・・黒井さん、嘘つくんですよ。あれは嫌がらせだよとか言って。そんなわけないのに、最後まで認めないんです。本当は優しいのに、嘘つきですよあの人」

「・・・あ、そ、そう」

「ですよね。もしかして、椅子蹴ったりするのも、本当は愛情の裏返し?」

「へっ?」

「素直じゃないんですかね。あまのじゃく」

「そ、そうかな」

「きっとそうですよ。あれ、何でしたっけ、ツンデレ」

「・・・ツンデレ」

 黒井が?ツンデレ?・・・まったくぴんとこない。そういうのって、美少女限定じゃないの?

「でもちょっと、カッコイイですよね」

「・・・そ、そうね」

 何て言えばいいの。いや、カッコイイよ。俺、嘘つかないから。

「やっぱり・・・素敵な彼女とか、いるんでしょうね」

「・・・いないよ」

「え、ホントですか?」

 うん。嘘、つかないし。

「へえ、そうなんだ・・・ふうん」

「なに、菅野さん、もしかして」

「え?」

「・・・好きになっちゃった?」

「・・・っ」

 菅野は今度こそ本当に硬直して、動かなかった。しばらくして両手で口元を覆い、うつむいて、じっとしていた。・・・。もしかして、本当に?

 あれ。

 これって、あの、もしかして。

 恋してることに、気づいた瞬間っていう、あれ?今、目の前で?

 僕が忘年会の夜に体験した、あの・・・。

 え、なに、僕が気づかせちゃったの?引き金引いちゃった?自分から、恋のライバル、作り出しちゃった?今この瞬間に?

 うわー、何やってんだろ。あはは、どうしよっか。いや、どうしようもないよ。きっと今僕が引かなくても、いつかこうなってただろうし。しょうがないよね、だって、カッコイイんだもん。

「・・・山根さん、あの、あたし、あの」

 ほとんど涙目でこちらを見てくる。うんうん、そうだろう。

「うん、まあ、そうだろうね」

「え・・・あれ、自分でもよく、わかんなくて」

「菅野さん、分かりやすいから」

「・・・やだ、いつも言われるんです。顔に、出やすくて。でも」

「違ってた?」

「・・・ううん、ちが、わない、んですか?」

「僕に訊かれても」

「そ、そうです、よね・・・。え、ど、どうすればいいですか?」

「どうすればって・・・。まあ、その、とりあえず仕事でもすれば」

 ちょっと嫌味だったかなと思ったけど、菅野は素直に「そうですね!」と頷いて、今度は調子っぱずれの鼻歌で封筒折りの続きにかかった。僕も画面に向き直る。しかし五分としないうちに「ああ!」とか「やだ」とか聞こえてきて、封筒がおかしな台形になっていた。困ったことになった、という気持ちと、まるで以前の自分を見てるような親近感とで、苦笑いが出た。


「ここ来て、たったの四日だよ?」

「・・・あたし、いつも、突然で」

「それにしても早いよ」

 僕だって、一ヶ月くらいはあったんだからさ。

「ああ、でも、山根さんの隣で良かった。だめなんです、緊張しちゃって」

「今朝はしてなかったじゃない」

「・・・気づいちゃったら、だめなんですよ」

 封筒そっちのけで、両手を机にそろえ、その上にお辞儀するように突っ伏してしまう。あーあ、どうしよう。恋する乙女が隣にいるよ。

「ほら、封筒、折ってしまえば」

「はい・・・そうします」

 従順に従うので、憎めない。相手さえ別の人なら、全力で応援するんだけど。

「・・・菅野さん、またズレてる」

「あっ」

「あと、シール貼るとこ違う」

「ああっ」

「・・・だめだね」

「だめです。もうだめ・・・あはは」

「でも頑張らなきゃ」

「そんなあ」

「こんなの見られたら、かっこわるいよ?」

「あっ・・・」

 気持ちは痛いくらい分かるけど素直に応援するわけにはいかないし、だからいじめてしまうけど、からかうと楽しいし、僕の方こそあまのじゃくだった。今のところ余裕があるけど、これ、そのうち黒井の気持ちが傾いてきたら、後悔するかな・・・。まあ、もしそうなら、僕が介入しようがしまいが結果は同じか。男女の愛に勝てるものなし。

「・・・で、でも、見えませんよね。後ろから、こんなヘマ」

「うん、でも、後ろ姿は見えてるっぽいよ」

「・・・っ、や、やめてください。て、手が震えちゃう」

「それはやりすぎでしょう」

「違うんです!ほんとに、だめで」

「・・・あ」

「え?」

「帰ってきた」

 つい後ろを振り向いたら、ちょうど黒井が帰社して、席に着くところだった。こちらに気づき、ちょっと微笑む。やだ、かっこいい。

「やっ!山根さん、どうしよう」

「あ・・・こっち来る」

「だ、だめ!だめだめ、たすけて!」

 菅野は僕の腕にすがって、必死に隠れた。ちょ、ちょっと、大げさな・・・。っていうか、女の子に腕をつかまれて、甘い匂いがして、困ったな、冗談なのに。

 しかしちらっと見ると、黒井は本当にこちらに歩いて来ていた。うそ、どうしよ!なに二人で震えてるんだよ、菅野さん、たすけて!

「お、お疲れ」

 上ずった声で片手を上げる。菅野がさっと離れて、またおかしな形の封筒を量産し始めた。

「どしたの?」

 黒井が何食わぬ顔で言う。何だよ、お前が来るから二人で仔鹿みたいになってんじゃないか。

「あ、あのね、その、菅野さんが・・・」

 菅野がすごい勢いで僕の腕を叩いてきた。「しぃー、だめ!」と首を振る。別に、好きだなんて言わないよ。

「見てよ、このひどい封筒」

「・・・何これ」

「山根さん!」

「あんまりひどいから、ちょっとね」

「菅野ちゃん、不器用なの?」

 ・・・。おい、ちゃんってなんだよ、ちゃんって!

 菅野は無言で首をぶんぶん振って、手を震わせながら意味なく別の紙を折った。ちょっとかわいそうなくらい動揺している。ぶりっことかじゃなくて、本当に緊張しちゃうんだな。僕だってここまでは、いってない、と思う。

「・・・ちょっとからかいすぎたみたい。ごめんね」

 今度は首を縦にぶんぶん振る。いや、本当にごめん。

「なに、お前菅野ちゃんからかって遊んでんの?」

「あ、遊んでるわけじゃ、ないけどさ」

「楽しい?」

「・・・まあね」

「俺もやってみた方がいい?」

「・・・やめとけって。お前がやると、たぶんもっと・・・あ、ごめん。すいません」

 隣からさっきより強く叩かれる。いちいちリアクションがあって飽きない。いや、本当はそんな場合じゃないんだけど。

 すると突然菅野は立ち上がり、足元から鞄を取って、「じ、時間なので、お先に!」と裏返った声で僕と黒井の間をすり抜けていった。腕時計を見ると、定時の五分前。

 嵐のように去っていった菅野の席に黒井が座って、おもむろに封筒を折り始めた。

「・・・簡単じゃん。どうやったらあんな風に折れるの?」

 僕も試しに折ってみる。・・・あ、あれ。何だろう、左半身が、緊張して。

「ええ、お前も?」

「あれ?違う、違うんだ」

 違うんだよ、不器用とかじゃなくて。いや、不器用なのかな。そうかもしれない。こんな、恋のキューピッドみたいなこと、してる場合じゃないわけだし・・・。

 


・・・・・・・・・・・・・・



 帰りはまた、<リチウム>を聴きながら読書に戻った。今となっては、本当に藤井に感謝した。音楽を聴いてその世界に没頭しなければ、菅野のことで気が散って、本など読めなかっただろうから。

 徐々に専門用語にも慣れ、また物理学を理解することも放棄し、著者の人生の経験をたどることに集中した。若きハイゼンベルクが何を目標とし、どうやってそこへたどり着き、誰と話し、何を考えたか。やっと、第七章、つまりちょうど僕と同い年になるくらいまで読み進めた。ヴォルフガングの他に、新しい人物、年下のディラックが登場して、彼もまた天才のようだった。僕は最初のページの白黒写真を見返した。ちょうど、この章で著者たちが出席した会議の集合写真が載っていて、キュリー夫人やアインシュタインとともに、二十六歳そこそこのハイゼンベルク、パウリ、ディラックが名を連ねていた。キュリー夫人!偉人の代表みたいな人とともに、まだ大学生の延長みたいな若者たちが招かれている!っていうかまあ、彼らもどうせ全員、いずれノーベル賞学者なのだから、不思議なことではないのか。

 今の自分と比べ、何たるエリートぶりか。別にノーベル賞を目指すつもりなど一ミリもないけど、ちょっと情けなくなる。・・・って、危ない、乗り過ごすとこだった!

 家に着いたらすぐにCDをコンポに移して、重低音を響かせる。冷えた空気がドイツっぽくて?今日は買ってきたウインナーを焼いた。ビールで晩酌して、つけあわせにザワークラウト・・・っぽいものを、ネットでレシピ検索して作ってみた。まあ、キャベツの酢漬けだ。

 風呂の後はランプの明かりでまた読書。それっぽい雰囲気に満足して、少しして本を閉じた。考えないようにしていたことが出てきそうになり、羊を数えて紛らわした。今までに世界中で、いったい何匹の羊が数えられたんだろう。その数の膨大さを思いながら、物理学のことを、原子のことを考えた。目に見えない小さなものがどうなっているのか、ただそれを探るためだけの、労力と想像力。世界中で誰ひとり答えを知らず、全員が手探りの時代。たったの百年前だ。たったの百年前、すいへーりーべの中身を誰も知らなかった・・・。寝てるのと、起きてるのの間、この状態が答えだ、と思いながら寝た。やけに明確な確信で、ああ、これじゃないか、と思った。この、記憶のデータの中にいる、洗剤の成分表示まで読み上げられる、今のことだ。消したはずの音楽も全部再生できる、時間のない仮想世界。このまま、どこ、まで・・・。あ、だめだ、引っ張られて落ちた。あとは夢を見て寝た。

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