第90話:もう喰ってやりたい

 帰宅。

 コンポに入れると、それはそれは重厚感のある音で部屋が満たされた。曲とともに本のイメージも再現されているようで、その雰囲気に包まれながら、1920年代の気持ちで僕はアイロンをかけ、靴を磨いた。ドイツ人は何を食べていたんだろう。とりあえずカレーではないなと思い、またコンソメでリゾットにした。

 僅かな食器を洗い、歯を磨いて布団に入った。遅くなってしまったので風呂は省略した。藤井にあれだけ言ったくせにね。

 そして、枕もとの白い猫を見た。さみしくて眠れない夜。

 うん。黒井の声が聞きたい。

 布団に入って電話して、他愛もないことを話しながら、そのまま眠りにつきたい。

 でももう一時を過ぎているし、何の用?って言われたら死んでしまいそうだ。

 音楽を小さい音でつけたまま、左手が下へと伸びるけど、何となくそういう気にもなれなくて、でも本を読む気にもなれず、目を閉じた。切ない女性ボーカルの合間に淡々としたインストゥルメンタルがはさまって、その隙に平静を取り戻し、リモコンでコンポの電源を切った。黒井彰彦のことが好きで、たまらなかった。


 翌日、電車の中でもイヤホンと読書。同じ行を何度も読み返すこと多数。文体には慣れたけど、原子の描像とか物体の安定性とか、たぶん物理学の基礎を知らないと分からない話なのだ。それでも、ちょっとだけ知ったような気になって、ひけらかしたくなったりもする。ハイゼンベルクの良き親友がヴォルフガング・パウリで、毅然として思いやりのあるゼミの先生がゾンマーフェルト。アインシュタインはその頃既に天才であり、今はニールス・ボーアというデンマーク人が新しい原子像を打ち立てている・・・。人間関係だけはうっすらと分かってきたが、その会話の多くは著者の記憶の再現であり、むしろこの本はフィクションなのだろう。だんだんと著者の癖や性格が見えてきて、どうも、ロマンチックな人だなと思った。哲学と音楽がこの人の基礎になっているようだ。

 ミュンヘンから新宿に着いてしまい、電車を降りる。物理学の探求に比べたら、何てつまらなくて、くだらない仕事。しかしそれを選んだのは僕であり、それしか出来ないのも僕だ。もし今から何でも好きなものになれるとしたら、なんて夢想するけど、死体の特殊清掃屋くらいしか思いつかなかった。でもそう思ったら、どうして今そうなっていないのかということの方が不思議に思えた。どうして普通にサラリーマンなんかしてるんだろう。でも、この会社にいなかったら黒井に会っていないし、そんなのはもう無理だった。死体として出会っても、形の残ったところはみんな先に鑑識が持って行っちゃうんだから、髪だの、皮膚だのしか掃除できない。もし黒井が死んだら清掃屋なんか頼まずに、全部僕がやろうと思った。あいつの中身だったら、もう食べてしまってもいいかもしれない。朝礼が始まってもイヤホンをしていることに気づいて、慌てて取ると、世界はごく普通に流れていた。

 

 自分でもちょっとだけ、気違いじみているとは、思った。

 でも、たとえば、野草を煮た緑色の汁と、イタリアンチーズハンバーグどっちが食べたいかといわれれば、当然ハンバーグが食べたい。そこで、あなたはさっきまで生きていた動物の肉をぐちゃぐちゃに混ぜて焼いたものを食べるのね、こちらの草ではなくて?と問われれば、それでもやっぱりハンバーグが食べたい。そのくらいの当然さだった。何の迷いもないし、後ろめたさもない。これっぽっちも変なことじゃない。

「あの・・・何聴いてたんですか?」

 菅野が話しかけてきた。今日もまた違うワンピース。ああ、音楽、やってるんだったね。

「いや、洋楽だと思うけど」

「けど?」

「もらいものだから、よく知らないんだ」

「あ、そうなんですか」

 僕がそれ以上言わないので、会話も途切れた。だってそれ以上思い浮かばないんだ。それでも菅野は機嫌を損ねることもなく、小さな鼻歌さえ聞こえた。高くて、透明感のある声。あの英語の、低く力強い声とは違う。

「うわっ」

 急に椅子を蹴られて、後ろを振り向くと黒井だった。「コーヒー」と一言。

「お、おはようございます」

 菅野が声をかける。

「うん、おはよう」

「あ、あの」

「ん?」

「・・・か、かわいそうじゃないですか?いいんですか?山根さん・・・」

 眉根を寄せて、困った微笑みで僕と黒井を交互に見た。

「そんな、蹴ったりしなくても、コーヒーくらいあたしが・・・」

 立ち上がる菅野。何だか、クラスの真面目な女子みたい。そこにちょうど課長が来て、言わなくてもいいことを言う。

「あ、菅野さんね、この二人は気にしないでいいから。無視して。お茶汲みとかもね、もってのほかだから。あ、私らには汲んでくれてもいいけどね、ってこれ冗談」

「え、そうなんですか?あの・・・」

「蹴ろうが殴ろうが放っといて。菅野さんに何かなければ、それでいいからね」

「は、はあ・・・」

「あ、じゃあ今日の仕事なんだけども、まず、またコピーをやってもらおうかな」

「は、はい」

 何となく苛ついてるのであろう黒井が給茶機へ歩き出すので、僕も気まずさから逃げ出すように席を立ち、後を追った。


「・・・そんなつもりじゃないんだけど」

「う、うん」

「何か、うざい」

 ああ、ごめんって。うちの課長が嫌味っぽくて若い子に弱くて、本当にごめん。

「だから嫌なんだ、女って」

「・・・って、え、菅野さんのこと?」

「蹴ったくらい何なの?蹴られて嫌だった?」

「いや、別に、そんな」

「じゃあ言っといて。俺黒井に蹴られるの好きだからいいんだって」

「え・・・そ、それもどうかと思うけど」

 い、いや、好きですけど。大好きですけど。

「コーヒーだって、淹れて来いなんて言ってないし」

「そうだね」

「むしろ汲んでやったら恐縮して謝るかな」

「え、えっと」

「そうしよう」

 ・・・。

 よくわかんないな。とにかく朝から給茶機に誘われてすごく嬉しいんだけども、何だか変な方向へ行ってるような。

「嫌がらせにブラックにしてやろっか。いや、むしろ丁寧に砂糖とミルクひとつずつかな」

「あ、あの、黒井くん?」

「何だよ、ねこもあの子に加勢すんの?いつも仲良く喋ってるから?」

「え、いや、そんな」

「ちょっと可愛かったら文句も言えない?」

「いや、か、可愛いけどさ。そんな、男子対女子戦争みたいな」

「あ、それ懐かしいね。あはは、俺あれ嫌いだった」

「え、何で?」

「だってさ、女子がいっつも、黒井くんは味方してくれるよねとか泣きついてくるんだもん。男子からは裏切り者呼ばわりだし、最悪」

「そ、そうでしたか」

 僕なんか、そもそも参加出来たかすら微妙な立ち位置だったけど・・・。もしかして、モテるというのも大変なのかな。

「はい、これ持って」

 二人とも自分のコーヒーを作った後、菅野の分のコーヒーを持たされる。

「え、俺?」

「うん」

 砂糖とミルクは胸ポケットに突っ込まれた。ひゅう、とあの感覚。腹じゃなくて胸が透けるよ、もうコーヒーを落としそう。

「あ、あの、そういえば」

 無理やり話題を変えようとするけど、何も思いつかない。本当は本の話をしたいけど、訊くなと言われているし。

「なに?」

「えっと、その、何でもない。・・・あの」

「ん?」

「いつか」

「え?」

「いつか、教えて、くれる?・・・あの本のこと」

「・・・」

 三課まで戻ってきてしまった。あれ、何かタブーだったのかな・・・。余計なこと言わなきゃ良かった?

「あの、ごめん。忘れて」

「ううん。・・・いつか、ね」

「ほんと?」

「また雪でも、降ったら」

「そっか」

 雪なんか最近、年に何べんも降らないしね。

 来年、かもね。それもいいか。来年の約束なんか、しちゃったりして。

 一瞬目を合わせて、黒井は席に戻った。僕も席に戻り、菅野の席にコーヒーを置いた。



・・・・・・・・・・・・・



「あの、これは・・・」

「ああ、黒井から。何か、お詫びにって」

 嫌がらせだよ、なんて説明できないし。ま、いいよね。

「べ、別に、そんな」

「まあまあ、タダだし、マズいし、気にしなくていいよ」

「そ、そうですか?何か、悪いことしちゃったかな。山根さんも、すみません」

「そんな。こっちこそ、何か朝から変な感じになっちゃって・・・」

「あの、・・・喧嘩したって、本当なんですか?」

 菅野が声をひそめた。あの課長め、そんなことまで蒸し返さなくていいのに。

「・・・別に、そういうんじゃないし、もう去年のことだよ」

「そうなんですか?じゃあ、今は普通にお友達なんですね?」

 ・・・ふ、普通かどうかはわかんないけどね。っていうか、会社でお友達ってどうなの。まあ、どうでもいいけど。

「う、うん、そういうこと」

「・・・良かった。あたし、暴力振るう男の人ってだめなんです。黒井さんそんな人じゃないですよね」

「そ、そう、だね」

 ・・・暴力振るう男の人?何だか、そんな風に言われるとえらく怖いな。まあ、振るわれないこともないんだけど、女の子には・・・あ、それも絶対ないとは言えないか。

「あたし、ちょっとお礼言ってきます」

「あ、あの・・・」

 嫌がらせのお礼に行っちゃった。嘘がばれたら僕が怒られちゃうよ。困ったな・・・。

 ・・・。

 しかし心配することは全然なくて、ちょっと振り返ったら、二人は楽しそうに喋っていた。なーんだ、あっそう。勝手にすれば?もう出かけるわ。ああ、腹立つ!

 ・・・。

 しょうがないよ!嫉妬だよ!

 拳でデスクを叩こうとして、寸止めした。

「ど、どうしました?」

 横田が言う。何でもない、ただの嫉妬!

「ああ・・・もうぼくらの菅野さんじゃなくなっちゃいますね」

「そうだね!」

「うわ、お怒り?でも山根くん、彼女いるじゃん」

「いないよ。返事はいらないって、念押されたし」

「へ?何すかそれ。まだ付き合ってなかったの?」

「ないよ。だから、いいんだって」

「・・・何が」

「え?」

「ああ、横恋慕?菅野さんもキープして、二股?」

「何言ってんの」

「いや、山根くん手ぇ早いから」

 ・・・。

 僕はまた後ろを振り返った。遅くない?まだ喋ってんのあの二人?

 うわわ、ちょっと。

 菅野さん、黒井の肩に手なんか掛けて。触んないでよ、離れてよ!

「・・・あっちの方が早いみたい」

「え?・・・あら本当だ」

「・・・ったく」

「菅野さんメンクイそうだからなー。負けましたかね」

「もう出かける。行ってきます!」

 何だこれ。もう知らん!冷静な僕がどこかでバケツリレーしてるけど、たぶんかけたそばから蒸発して、間に合わなかった。僕は胸ポケットの砂糖とミルクを菅野の机に、ばしんとハエたたきみたいに置いてやって、さっさとオフィスを出た。何だよ、黒井のバカ!うざいとか言っといて、この女たらし!もう殺してやる!喰ってやる!とりあえずエレベーターの中でもたれかかった頭をゴンゴン叩いたら、他の人にすごい白い目で見られた。あはは、すいませんね、気持ち悪くて!

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