第89話:物理学者の回顧録

 外回り中にメールが入って、藤井からだった。時間は12:56。


<量子力学セレクト完成しました。今度は社内便で送りましょうか。発送部屋に呼びつけてくれればいつでもどうぞ>


 返信。


<どうもありがとう。・・・あの、すごく図々しいようだけど、もし持ってたら、CDウォークマンとか貸してもらえないかな?出来れば今日帰りにどこかに寄って読みたくて>


 13:35返信。


<了解です。音楽を聴く媒体は常に三種類持ち歩いてますから。いつもはMP3だけど、だって急にCDを買ったり借りたりしたときすぐ聴けないと困ります。というわけで、イヤホンとヘッドホンどちらがお好み?>


 14:20返信。


<あのバッグにはいろいろ、そういうものが入ってたんだね。ええと、それじゃイヤホンをお願いします。いつもきみが聴いてるけど、借りて大丈夫?>


 14:22返信。


<大丈夫です。というか差し上げても差し支えありません。山根さんに「きみ」と呼ばれると発熱しそうですね。私が山根さんの下の名前をお呼びしても・・・差し支えありますよね>


 ・・・。また少しおかしくなってきたな。どうも女の子とメールしてるというより、何か、シミュレーションゲームの中にいるみたいだ。しかしいったいどう返したものか。まあ、あまり深入りしない方がよさそうだな・・・。


 16:45新宿着。歩きながら返信。


<いろいろとありがとう。17時10分頃に発送部屋にいます。忙しかったり、大変そうなら無理しないで下さい。名前・・・会社で呼ばなければ、好きにどうぞ>


 うちの会社は、ノー残業デーといっても社員の就業時間は17:30までだ。バイトの菅野さんや派遣の佐山さんたちは17時で上がるけど。


 17:02返信。


<了解 ・・・やっぱりよべません!だいそれたのぞみでした>


 ・・・。さては机の下で打ってないだろうね。


 帰社してそのまま発送部屋に向かう。電車の中でだいたい仕事のめどを付けてきたから、出来れば19時前には上がりたい。そうすれば、黒犬からもらった本が読める。考えただけで恍惚とするじゃないか。

 扉を開けると椅子に座って作業中の女の子がいて、それは藤井の後ろ姿だった。

「あ、あ、いらっしゃいませ」

 僕に気づいて、慌てて立ち上がる。制服姿だから、いちおう普通の女の子に、見えるけど。

「・・・あの、わざわざ、どうも」

 メールとか電話では何となく平気だけど、面と向かってどのくらいの感じで話しかければいいか、つかみかねた。

 ・・・っていうか、藤井って誰だっけ?

 どうにも、既視感と逆の感じによく襲われる。僕は誰と相対してるんだ。この場に立っている意味もよく分からなくなってくる。考え始めると、ここの社員だってこともあやふやになってきて、息をして心臓が動いていることすらも、初めて見る物体を手に取ったような違和感。

 いや、だから、本を読むために、CDを受け取るんだって!

 だんだん、思考で言葉を紡ぐこともおかしくなってくる。ああ、何だっけ、こういうの。

「・・・何とか崩壊」

「はい」

「ほら、何か、よくわかんなくなって、何だこれってなってくる、字とか見つづけてると変に見えてくる・・・」

「ゲシュタルト崩壊」

「あ、それだ」

「・・・崩壊中なんですか?」

「う、うん」

「それは悩ましいですね」

「・・・はい」

「じゃあこれ、ご注文のセットです。ご一緒にドリンクはいかがですか?」

 途中から、店員さん風の口調。トレイのようにしてまた茶封筒を手渡された。

「え?」

「嘘です飲み物は出てきません。昔のバイトですよ」

「あ、ああ」

「山根さん、あの」

「はい」

「握手してもらっていいですか?」

「はい」

 浅めに、藤井の細い指を握る。うつむくから、頭の上しか見えない。

 ぱっと手を離して、「またどうぞ!」と出て行ってしまう。

 その細い手首をつかんで、ドアに押し付けて、何かしてしまいたくなる衝動を抑えていたら、お礼の一言すら言えずじまいだった。


 少し発送部屋で頭を冷やしてから席に戻った。握手しただけで発情してるようじゃ、僕も相当欲求不満だ。急に藤井とのあれやこれやや、黒井とのあれやこれやが思い出されて、仕事が手につかなくなる。こんなときは単純作業で落ち着かなくちゃ。

 しばらくパソコンを眺め、ふせんを並べ替え、最低限今日やらなきゃならないものをリストアップした。・・・意外と多い。残業申請を19時で出して、必要なものだけマッハで終わらせよう。



・・・・・・・・・・・・・



 何となくスタバという感じでもなく、コクーンタワーのタリーズも21時までしかやっていなかったので、工学院の隣、いつものエステックビルまで地上を歩いた。雪が降ってからやたらに寒い。しかし寒いのは嫌いではない。冷えれば冷えるほど、空気が清浄で綺麗な気がした。

 ニューヨーカーズカフェのテラスというかロビー席もそれなりに冷えていたが、もう仕方がない。そもそも感じのいいお洒落なカフェなんてあんまり知らないんだから。

 とりあえず熱いコーヒーを頼んで席に着き、茶封筒からCDプレイヤーを取り出した。ご丁寧に予備の電池までついている。僕が片想いの男からもらった本を読むために、BGMを編集してセットにして丸ごと貸してくれて、電池まで買わせちゃって、考えてみれば申し訳ないというか、最低、という感じか。藤井が僕のことを好きだと知った上でやってるわけだから。しかし、だからといって僕の目的を正直に伝えて、気分を害したならごめんと言ってみたところで、何がどうなるものでもない気がした。藤井は僕なんかと違って、ふらふら流されず自分の意思でしっかり生きているわけで、その生き方について僕がとやかく言うこともない・・・だろう、きっと。だって、藤井はもう黒井に会ってるんだし、薄々感づいてる気がする。

 ・・・何だっけ。

 何となく思い当たることがある気がして、携帯を開いた。藤井が黒井のことについて言及した言葉。

 <人生の本番>を始めたとき、ファミレスから出て打ったメールの返信に、それがあった。CDを受け取ったというお礼に対する一言。


<渡すとき噛み付かれてしまいました。保険に入ることを真剣に検討中です。>


 ・・・。

 三回くらい読み直す。どういう意味?

 噛み付いたっていうのが、黒井のこと、だろう。廊下で封筒をひったくった、とか言ってたか。・・・保険?まさか黒井のやつ、つかみかかったりしてないだろうな。ちょっと冷や汗が出てくる。キレちゃったわけじゃ、ないよね。女の子に手を上げたり、しないよね?

 ・・・山根さんの、何とかまで、知ってますかとか。

 ムカついたから、とか、言ってた。

 ・・・彼女が出来ても、一緒にいてくれるでしょ?

 藤井にもらったあの音楽とともに、あの夜のせりふが再生された。僕は胸に本を抱えて、宙を見上げて放心した。黒井は、もしかして、藤井に嫉妬してる?

 どうしよう。

 そんなわけないって思いと、言葉の意味と論理を繋ぎ合わせれば、そうならないか?って理屈と、もうそのすべてをごちゃ混ぜにして、イヤホンを耳に突っ込んだ。僕と、藤井のCDと、<黒井彰彦>の本。僕は誰で何なんだか、またゲシュタルト崩壊。ええい、もういいよ、耳と目だけ働いて、脳みそに情報を送り込めばいい。

 CDの再生ボタンを、押した。



・・・・・・・・・・・・



 前奏はなかった。

 英語。

 低い女性の声。

 ピアノ。

 重々しい雰囲気。何て言ってるんだろう。<レシアム>?

 とにもかくにも本を開いた。最初のページには、著者らしき老人の白黒写真。その後もしばらく古めかしい写真が続いた。学者らしき人物たち。外人。アインシュタインだけ識別できた。あの舌を出している写真じゃなくて、ごくふつうの紳士。年代順になっていて、スキーを楽しむ著者の後には、ジープと軍人。1946年の写真では、著者は驚くほど痩せていた。

 写真が終わると、序文。湯川秀樹って・・・ああ、ノーベル賞の。背表紙にも名前は出ていたが、あまりぴんときていなかった。

 どうやらこの本は、ハイゼンベルクという物理学者の回顧録であるらしい。時代は1919年から1965年まで。いつの間にか音楽は、歌のない単調なリズムだけのものになっていて、聴こえているのに気づかないほどだった。そのままページをめくる。古いフォントに目が慣れてくる。

 その後しばらく、古めかしく持ってまわった言い回しと、意味不明な単語の連なりと、聴きなれない人名、地名にしばしばつっかかりながら、何とか第三章くらいまで読み進めた。昔、ニーチェの<ツァラトゥストラはかく語りき>を読んだが、それよりは若干こちらの方がマシか、という程度。とにかく、原子だの相対性理論だの一義的だのアプリ・オリだの、物理学と哲学の難解な部分ばかりがごちゃ混ぜになって、ほとんどお手上げだった。

 内容は、著者の高校から大学にかけての友人や師との対話で、1920年当時の物理学に対する姿勢や思想についてのものだった。<アインシュタインの相対性理論>という、いわばキャッチコピー的な単語だけ目で拾うことが出来たが、それ以外の専門用語はまったく分からない。一生懸命議論を戦わせて、何かを言い表そうとしていることは分かるが、それが何についての話なのか、推し量ることは出来なかった。

 ただ、著者はこれをかなり老齢で書いているわけであって、二十歳そこそこの頃の友人との会話が一言一句思い出せるはずもないだろうが、その頃の気持ちと雰囲気を再現、あるいは創造出来るというだけでもすごいと思った。僕が二十歳そこそこで何を思い、誰と何を話していたのか、十年も経ってはいないのにどんな一言すら思い出せない。日記でもつけていればよかったんだろうが、まあ、読み返したくはなるまい。これほど高邁な思想があったはずもなく、友情や師弟関係もなく、打ち込んでいたのは犯罪ごっこだけ。学んだ法学が何の役に立つでなし、単なる会社員になり、営業しながら男を好きになって、何の回顧録が出来ようか。

 ・・・。

 何だろうね。

 ページに目を戻す。ゼミナールの先輩ヴォルフガングと皮肉の利いた挨拶を交わし、物理とは、世界とは何たるかを、ゲーテやルソーを引きながらとことんまで話し合う。著者らにとって物理学は目の前に広がる巨大な迷路であり、それを解き明かすことに人生をかけているのだ。著者も、この口の悪い親友も、師も、友人らも、みなそうであるらしい。物理学、アインシュタイン、と言われるとただ天才、としか思い浮かばないが、こうして大勢の若者たちが真剣に、情熱を持って取り組むような学問であったらしい。そういえばつい最近も、ノーベル賞がどうとか言ってたっけ。

 きりのいいところでひとまず本を閉じた。

 すっかり冷めたコーヒーを一口飲み、切ないメロディーを聴きながら椅子の背にもたれる。どうして僕にこの本を渡したのだろう。黒井って理系の人間?大学も学部も知らないけど、まあ、知っていたところで意図は図れまい。何も訊かないでって、どういうことだろう。

 少なくとも、「お前好みの推理小説かと思って」というようなプレゼントではない。僕が提示した本を読んで、そのお返し、かとも思ったけど、読む前から決めていたみたいだし。何だか、<本番>は終わったのに推理ごっこが続いているな。でも、ヒントなしでは厳しいな、これは。

 物理学、ハイゼンベルク、自伝。

 ドイツ、20世紀、量子力学。

 まあ、別に謎かけをしているわけじゃないだろうし、答えというものもないんだろうけど。

 ふと、奥付けのページを確認した。2007年の日付。当時、黒井は二十歳ちょっとのはず。少なくとも幼少時代からの愛読書ではないようだ。やはり大学時代?それを引っ張り出してきて今僕にくれたのはなぜ?

 もう一度<黒井彰彦>の名前を見た。黒の、油性サインペン。どうしてこんな本に名前を書いた?音楽のせいで、きりきりと焦がれてくる。全然詳しくないからわかんないけど、あのタイタニックのテーマみたいな、ささやくようなAメロから、ずっと高く伸びていくサビ。まるで映画の主人公になったみたい。

 携帯を見ると、九時半をまわっていた。十時には閉店だ。

 そのまま藤井の番号にかけた。イヤホンの左はしたままで、右の耳に当てる。すぐに藤井が出た。

「あ、もしもし」

「もしもし、夜遅くすみません。山根です」

「こんばんは」

「・・・こんばんは。今大丈夫?」

「はい」

 雰囲気に当てられて、電話なんかかけちゃったりして、調子に乗りすぎだな。ちょっと自分に酔ったりして、かっこ悪いったら。

「あの、CD、どうもありがとう。とても、その、良かった」

「ああ、それはよかったです。ドイツ語の歌はさっぱり知らなかったので、ちょっと納得いかないところも・・・」

「ドイツ語。ああ、本のこと、知ってたのか」

「少し調べましたから。どうですか、読んでますか」

「うん。・・・すごく難しくて、何言ってるのか、さっぱりだけどね」

「そうなんですか。またどうしてそんなもの・・・あ、いえ、人の趣味には立ち入らない主義です。とにかくお役に立てたなら嬉しいです」

「あ、そ、そう。うん、とにかくこちらこそありがとう。あの、曲のことだけど」

「はい」

「<レシアム>、みたいの、何だろう」

「れしあむ」

「一番最初の曲」

「・・・ああ、あれは、リチウムです。すいへーりーべの、リチウム」

「すいへーりーべ、僕の舟。水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム・・・」

「量子ではないですが、原子ってことで」

「ああ、なるほどね。しかしリチウムについての歌って何だろうね」

「あ、あの、すみません、風呂に入れと要請が入ってしまいました。今日は断りきれないか」

「え?あ、誰かいるの?」

「いるというか、まあ、住んでいますよ、実家ですから」

「あ、そうだったんだ。何か、一人暮らしのイメージがあって・・・」

「山根さんは、もちろんお一人で?」

「う、うん」

「・・・寝るとき、さみしくて眠れなくなりません?」

「え?どうかな、すごくたまには、あるかも」

 手を縛って、凌ぐんだけど・・・とはもちろん言えない。

「私、恥ずかしながらぬいぐるみを抱っこしないと眠れないんです。灰色猫のジュリちゃん」

「ね、ねこ」

「山根さんにもそういうのってありますか?あ、いや、風呂が先だそうです。寒いから嫌なんだけど・・・」

「お風呂には入ったほうがいいよ。遅くに邪魔してごめん」

「邪魔なのは風呂の方ですよ。お話できて嬉しかったです」

「あ、あの、ごめん。最後に一つだけ」

「はい」

「・・・そ、その、何て言ったらいいかわかんないんだけど。こ、こういうことで、いいの?その、・・・返事とか、やっぱり、してなくて」

「・・・別に、生きてて下されば。いえ、死んでてもいいですが」

「え?」

「物騒でしたね、すいません」

「いや、え、どういう・・・?」

「ジュリちゃんの次にもう一匹いたんですが、いつの間にかいなくなったんです。山根さんはぬいぐるみじゃなくて生きてらっしゃるので、大丈夫じゃありませんか。たとえ息絶えても、私は生きてたことを知ってます。私の所有の範囲外で、私の責任が及ばない生。・・・素敵じゃありませんか」

「・・・。その、いなくなった猫には、責任を感じてるの?」

「・・・たぶん、引越しのとき、私がどっかへ置いちゃったんですね。行方不明は嫌です」

「・・・きみは猫が好きなんだね」

「はい、猫は好きです」

「僕も最近白い猫を・・・あ、ごめん。お風呂に行ってきてよ」

「大丈夫です、脱ぎながら話してますから」

「そ、そういうことは、言わなくていいよ」

「この携帯、防水なんですよ」

「お願いだから、おやすみを言って切らせてよ」

「仕方ない。名残惜しいですが、さようなら。本を楽しんでください」

「うん、わかった。どうもありがとう、おやすみ」

「はい。おやすみなさい。今日はよく眠れそう」

「・・・うん、それじゃ、また」

 藤井はもう一度おやすみなさいと言い、僕は電話を切った。僕はイヤホンをつけたまま席を立ち、帰路に着いた。

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