第88話:溶ける雪、燃える独占欲

 何か、久しぶりで・・・。

 緊張、しまくっている。

 手は離れてしまったけど、エレベーターはまだ来ない。

「何か、ひ、久しぶりだね」

 た、たったの二日ぶり、だけど。ああ、隣に、立ってるよ。足しか見れない。ああ、もっと靴を磨けってば。

「ほんと、すごい久しぶり、こんなの」

 ・・・こ、こんなのって?会社で僕と二人でいること?っていうか、僕に向かって喋ってる・・・。会話してる。二人きりで、会話とかしちゃってる。もう、心臓、どきどきしすぎ!エレベーター、早く来て!ううん、やっぱりまだ来ないで!

「・・・ねこ、どしたの?」

「・・・っ、ちょ、ちょっと、緊張しちゃって」

「うん、何か、うわあってなるよね」

「そ、そうそう」

 え、なに、お前もなの?うわあ、って、なってるの?顔が見れない。エレベーターを呼ぶボタンと、床と、カーペットの継ぎ目と、お前の靴と・・・。

「・・・俺さ、何かすごい、嬉しくなっちゃって」

「・・・」

「お前も、嬉しい?」

「・・・っ、う、う、うれしいよ」

 こ、声が上ずってるし、震えてる。う、うれしいです。一緒にいられて、しあわせです・・・。

「・・・お前も、好き?」

 ・・・。

 ひい。

「すき、だよ」

「あのね、俺も」

 ・・・。

 チン。

 エレベーターが来る予告の音。な、なんだ、こ、告白を・・・。

「好きなんだ、雪って。積もらないかなあ」

「・・・ゆき」

 ぎゅうう、と、エレベーターが近づく音がする。四基のうちの一基のランプが点滅する。やがて、扉が開く。・・・ゆき。黒井くん、雪が好きなのね。あはは。月とか雪とか、風情があるね・・・。

 エレベーターには何人か乗っていて、やはり雪の話題。

「電車、動いてますかね」

「まあ大丈夫でしょう」

「今年初、っていうか、この冬初ですよね」

「みぞれくらいはあったっけ。でもこんなに降るのは久しぶり・・・」

 途中の階で開いて、また人が入ってくる。僕と黒井は左右で離れ離れ。・・・はあ。久しぶりなのも、嬉しいのも好きなのも、雪のことね。そりゃそうか、雪を見に行こうとしてるんだから。

 一階に着いて、ドア側の僕は<開>を押して他の人が出て行くのを待つ。うん、お前も反対側のドア側にいたけど、真っ先に出て行ったね。あはは、さっさと雪を見に行っちゃえよ。

 最後の一人が会釈とともに出て行って、僕も出る。入れ替わりにこれに乗る人が飛び込んできた、と思いきやそれは黒井で、「早く!ほら」と手首をつかまれた。

「そんな、ボタンなんか押してる暇ないよ!」

「い、いや、だって」

 押す決まりなんだから押すんだよ!せっかちだな、もう。ロビーを突っ切って、外に出る。うわ、すっごい寒い。冷え切ってる。こんなんであの<現場>で寝たら、凍死しちゃってたかも・・・。

「・・・雪だ」

 空を見上げると、暗い青から白いものがたくさん落ちてきていた。・・・ほんとに、雪だ。何だか嘘みたい。西新宿の雪景色。

「でも、積もりそうもないね」

 足元を見ると、水たまりに雪がどんどん消えていく。一晩中降り続けなければ、積もりはしないだろう。

 僕は何となく何も言えなくなって、黙って雪を見ていた。僕だって天気予報なんか見てなくて、全然知らなかったんだ。

「・・・傘、持ってないな」

「俺、折りたたみあるよ。・・・まだあれば」

「え?」

「引き出しの奥に、突っ込んだ気がする」

「あ、そう」

 ・・・。

 あっそう、だから何。相合傘して帰ってくれんの?

 ・・・。いやいや、新宿は地下を通るんだから、差す場所ないよ。わざわざ駅まで地上を歩かないし。

 ・・・こいつなら、歩きたがるかな。

 いやいや、別に、一緒に帰るわけじゃないし!

「ほ、ほら、もういいだろ。コーヒーだかおでんだか、買いに」

「・・・うん」

「・・・もうちょっと?」

「・・・うん」

 空を見上げる黒井の横顔を見た。落ち着いて、でも切ないような、<やっとここへ来た>っていうような。ああ、きっとお前は、月とか、雪とかを見てるとき、そんな顔で何かを感じてるんだ。あの<現場>で思った、黒井は何が好きで、どんなことに幸せを感じるのかって・・・。その一端をきっと今、見てるんだ。その隣に、今僕は立ってるんだ。


 しばらくして黒井は「うん、もういいや」と言い、きびすを返した。エレベーターへ向かうので、「コーヒーは?」と訊いてみる。

「え、何か、いいよ」

「そう?」

「お酒が飲みたいよね。日本酒」

「まだ仕事中」

「本当はさ、今このまま行きたいよ、温泉」

「・・・雪見酒」

 えへへ、と黒井は笑った。ああ、そうだ、そんな話してたんだ。ずっと昔のことみたい。

 ほんの、五分か十分の、二人きりの時間。でももう、胸がいっぱいだ。帰りのエレベーターでは、他に誰もいなくても、無言。それが逆に、世間話なんかするより嬉しくなる。帰りまで、降ってますように。相合い傘で帰れますように・・・。

 エレベーターが開くと、そこには真っ白なコートの菅野がいた。

「あ・・・お疲れ、いえ、お先に失礼します」

 何となく入れ替わりに乗るんだと思ったけど、あ、そうか、これは上行きだ。

「すごかったよ、傘、持ってる?」

 黒井がホールに立ち止まる。僕も横に並ぶ。

「はい、折りたたみ持ってきました。・・・おでん、もう食べてきたんですか?」

 菅野が手ぶらの手元を見て、いたずらっぽく笑う。

「ううん、何か、やめた。すっごく寒かった」

「東京の人ですか?あたしどさんこなんで、これくらい大丈夫ですよ、雪とかも」

「・・・え、どさんこって何?」

 ・・・。

 北海道の人ってことだよ。

 っていうかさ、僕、ここにくっついてんの、嫌なんだけど。先に戻ろうか。もういいや。

「え、どさんこって知りません?」

 うんうん、僕が説明するまでもないよ、本場の人に教えてもらいなよ。

 僕はそっと二人の元をフェードアウトして、最寄りのドアへ向かった。はいはい、イケメンとカワイコちゃんで仲良くやりなって。カードキーをかざそうとして、あ、そうだ、さっきかざして出なかったから、入れないよ。何それ、僕だけ廊下で立たされるわけ?何だ、喜んだり怒ったり忙しいな僕は!

 つかつかと二人の元に戻る。菅野はまだボタンを押していなかったらしく、エレベーターが来るはずもない。黒井が「あれ?」って感じで振り向いた。

「・・・お前がいなきゃ入れない」

 ・・・うわ、何そのせりふ。自分でどん引き。そんくらい一人で何とかしろよ!

「え、何が?」

「・・・これ」

 僕は仕方なく首から提げたキーを持ち上げる。

「<ピッ>、忘れたの?」

「忘れたんじゃない、出来なかったの」

「あ、さっき、黒井さんが強引に連れていったから」

 菅野が思い出して笑った。忘れちゃうと入れないですもんね、とニコニコする。

「しょうがないな、入れてやらなきゃ。じゃあね!」

 黒井は僕の肩に手を回して、ホールから廊下へと歩きだした。・・・わ、ああ、ど、どうしよう。

「あ、お、お疲れさまです・・・」

 途中から笑いの混じったウグイス嬢の声が、後ろから追いかけてきた。



・・・・・・・・・・・・



 帰りは一緒じゃなかったし、雪も、雨すらも止んでいた。傘を持ってないと言ったけどよく見たら鞄に折りたたみが入っていて、先週横田に借りたんだったと思い出し、返しておいた。

 しかし、あの嫉妬癖は、ちょっとまずい。世間の人は黒井に嫉妬してると思ってくれるかもしれないが、僕は菅野に、黒井と親しくする全ての人に嫉妬してるのだ。

 ああ、この、顔と態度と声と言葉に、バカみたいにストレートに表れてしまうのを何とかしないと、会社でやっていけないな。今までよく爆発しなかったもんだ。っていうかたぶん、僕は<本気の本番>を越えて、独占欲が盛り上がりすぎている。かつてない、思い出すだけで握った拳が震えてくるような嫉妬。<部分と全体>を抱きしめると少しだけそれが薄らいだ。でもそれは嫉妬の本体を小さくしてくれるんじゃなくて、サウナから出て新鮮な空気を吸うってだけ。元の場所に戻ればたぶん、何も変わらない。・・・文庫本だったら、肌身離さず持ち歩けたのに。腹に刻まれた<くろ>の文字だってとっくのとうに消えてるんだし、・・・ああ、何だろうね、何もなくても信じられるはずなのに、俺の愛が足りないのかな・・・。

 ・・・。

 重症だね。ちょっと、気持ち悪いよ。

 あはは、ごめん。

 誰にだか知らないが謝って、もう、明日本を読むことだけを考えた。絶対早く帰るんだ。とにかくそれだけ。仕事を終わらせて、早く、帰ること・・・。



・・・・・・・・・・・・



「ノーザンって、何ですか?え、北?」

「・・・違いますね。すごい、さすがどさんこ」

「え、なになに?やだ、違う?え、山根さん教えてくださいよ」

 僕を挟んで菅野と横田が笑っている。菅野のきらきら感にまだなじめないけど、僕を無視しないで笑いかけてくれるとつい、浮かれてみんなの輪に入れたような気になってしまう。浮かれすぎるなよ、自重、自重。

「あ、あのね、ノーザンっていうのは<ノー残業デー>のことで」

「え、ノーザン・ギョーデイ?誰?名前?」

「ち、違う・・・ギョーデイって何すか、菅野さんウケる」

 横田が苦しそうに笑っている。僕も遅れて吹き出した。

「・・・何かぎょう虫検査デーみたい」

「な、に、それ。やべー、北海道ではそう呼ぶんすか」

「ぶっ、やだ山根さんほんとやだー。元はといえば山根さんの発音がおかしかったのに」

「そうだよ、山根くんのせいだよ。菅野さんは悪くない」

「そうですよ」

「菅野さんはぎょう虫じゃない」

「・・・ふふふ、もう、おこった」

 えい、と言って菅野はふせんをまるめて横田に投げつけた。

「うわ、投げてきた。かっわいー」

「かわいくないもん。ぎょう虫だもん」

「・・・それ違う。菅野さんそれ違う」

「あれ?」

 もういい!と頬をいっぱいに膨らまし、一瞬後にはまたえくぼを見せて楽しそうに笑った。ああ、これが、ちょっかいを出したくなる女の子というやつか。いちいち反応してくれて、でも本当に怒ったりはしなくて、最後には「ねー?」と小首を傾げる。

「・・・菅野さん、あのさ、今日は何の日?」

 自重しようと思ったのに、どうしよう、面白そうでつい、言ってしまった。

「え、今日ですか・・・きょ、きょうは、のーざん・・・」

 途中から噛み殺した笑いが漏れて、それから、両手で顔を隠してひいひい笑った。

「菅野さん、頑張って!続きは?」

 横田が声をひそめて冷やかす。菅野は余計に笑って、「む、むり・・・」と腹をよじった。

「菅野さん、覚えてない?うちらの会社、水曜日は・・・」

「や、やまねさん・・・真顔で言うの、やめて・・・」

「ついさっき教えたと思うんだけど。菅野さん仕事すぐ覚えるのに、どうして?」

「・・・も、もう、ごめんなさい」

「お客さんから電話で訊かれたらどうするの?ちゃんと答えなきゃ」

「・・・で、でんわ、でれなくなっちゃう」

「電話で・・・んなこと訊かれねーよ!」

 横田がつっこみをいれ、三人でゲラゲラ笑った。そしてその時図ったように電話が鳴ったので、菅野が「やまねさんおねがい・・・!」と受話器を指差し、僕は「横田くん!」と助けを求めたが、横田は既に撃沈していて、机に突っ伏していた。

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