第87話:嫉妬を、しました
先週の金曜にやった封筒のシール貼りを、なぜだか僕が菅野に教えることになり、大したことじゃないのにあたふたした。横田も出かけてしまうし、何だか間が持たない。こんなの、佐山さんにやってもらえば女性同士うふふと笑いながらすぐ仲良くなって、済む話だと思うんだけどな。
菅野はよく相づちを打ち、僕が「これは、まあいいや」などと言うと、「ふふ、いいんですか」とえくぼの出る笑顔を見せた。うちの同期の女子連中のずけずけした物言いとか、あるいは藤井の理解不能な言動とは全然違う。まるで、女の子の見本みたいな子だった。佐山さんだってもちろん女性らしいけど、あのおっとりして天然ぽい感じとも違って、何ていうか、女子大生みたい?
「・・・あの、菅野さんは」
「はい?」
小首を傾げて口角を上げ、まともにこちらの目を見てくる。いや、あんまり、見られたくないんだけど。
「え、えっと、もしかして大学生?」
「え、やだ、違いますよ。もう二十五です。・・・あたし、童顔だから」
「あ、別に、子どもっぽいとかじゃなくて」
「いえ、いいんです。まあ、若い方に見られたってことは、いいんですよね。あの、失礼ですけど、山根さんは・・・」
「え、僕?年?・・・え、何歳だったかな。二十七くらい?」
「・・・くらい?」
菅野はジョークだと思って楽しそうに笑ってくれた。いや、違うんだ、本当にちょっと思い出せなくて。今二十七?それとも今年二十七?
「結構若い方、多いんですね。お隣の、横田さんも・・・?」
「あ、ああ。うちら、同期で、多いから」
「同期。いいですね、何か。あたしフリーター長くて、そういうの、憧れます」
「そ、そうなの?」
「あの、あちらの、女性も?」
「いや、佐山さんは派遣さんだし、年・・・」
年上で、今年三十路だって・・・おっと、そんな余計な情報言わなくていいよ!
「う、うん。同期ではないんだ」
「あ、そうなんですね。じゃあお隣の島の女性も?」
「ああ、島津さんも派遣さん。あれ、三課も担当するんだよね。もう紹介してもらった?」
「あ、はい。こっちより先に・・・。あの」
「うん?」
「黒井さんって方・・・」
「・・・、う、うん?」
「・・・」
「あ、ああ、あいつも、同期なんだ。いや、年は上だけど」
な、何で僕がしどろもどろにならなきゃなんないんだよ。っていうか言う必要もないし。だめだな、クロイの三文字を聞いたとたんに挙動不審になってしまう。
「え、年上なんですか?」
「う、うん、二つばっかし」
「え、じゃあ、二十九・・・そうなんだ」
菅野は少しうつむいて、ふうんと思案するような顔をした。あれ、まさか。
そこで菅野は課長に呼ばれ、コピー機へと連れて行かれた。
外を回って見積もりを出して帰社すると、菅野が山積みの封筒をせっせと処理していた。まだ横田も帰っていないし、何だか隣に座りづらいが、どうしようもない。
「・・・ただいま戻りました」
「あ、お帰りなさい」
「お帰りなさーい。外、あったかいんですか?」
佐山さんが僕に訊いた。
「ああ、すごく、春みたいだった」
「へえ、さっき鹿島さんが、暑いくらいだって」
当の鹿島は席を外している。菅野と佐山さんに迎えられて、何だかこそばゆかった。
「あ、えっと、山根さんに電話がありました」
早速、菅野が机に置かれた架電メモを差し出す。名前の欄には<菅野>の文字。
「え、電話も取ってくれてるの?」
「はい。あたしコールセンターずっとやってたから、電話応対も」
「へえ、そうなんだ」
そして言ったとたんに電話が鳴り、菅野はためらいもなく反射的に手を伸ばした。
「お電話ありがとうございます、株式会社***、菅野が承ります。・・・安田様。はい、こちらこそ、いつもお世話になっております・・・」
・・・。
柔らかい、流れるような、ウグイス嬢の声。しかも感情がこもっていて、本当にお世話になっているって気にさせられる。コールセンター長いってだけあるな。安田さん、この子はまだ何もあんたの世話になってなどいないよ。
「何かすごいですよねー」
佐山さんが小さめの声で僕に言う。僕も無言で頷いた。
もちろん佐山さんも島津さんもずっと電話を取ってくれているが、受話器を取って事務的に「はい***です」としか言わないし、「左様でございます」なんて使わない。しかも、菅野が言うと何というか、一言一句が恭しくて、それでいて初々しかった。
・・・。
いや、いいんだけどさ。
何だろう、肩身が狭いというか。まぶしいというか。
「・・・はい、それでは失礼致します・・・」
菅野は何度か受話器を耳に当て、相手が切ったか確かめてからゆっくりと受話器を置いた。メモに追記し、立ち上がると席表とにらめっこしながらフロアを歩いていく。
「菅野さん、可愛いし、電話も取ってもらっちゃって、助かります」と、佐山さん。
「そ、そうだね」
「取るのが早くて、追いつかないんですよ?」
「全部取りそうな勢いだね。この調子じゃ、席と名前、すぐ覚えそう」
「ほんとですよー。でも、営業さんいないから、顔が一致しませんけどね」
「あはは、確かに」
席に戻った菅野は生真面目に背筋を伸ばして、封筒の作業に戻った。・・・うん、やっぱり、居たたまれなくなる。
「あ、あの、菅野さん」
「はい」
「も、もうちょっとリラックスというか、気を抜いて、いいからね。その作業、そんな大それたもんじゃないし」
「え、そうですか?・・・だいぶ、慣れてきたと思ったんですけど」
「いや、何か、そんなにぴりっと背筋伸ばさなくても」
「・・・ああ。これは、背筋と腹筋を鍛えてるんです。もう癖になっちゃって」
「・・・鍛えてる?」
「背中丸めると、声が出ないから。腹式呼吸のために・・・」
「え、電話出るために?」
菅野は、いえいえ違います、と笑った。
「歌・・・やってるので」
「・・・え?」
「歌手を、まあ、やってますというか、目指してますというか」
「・・・え、そうなんだ」
歌手志望。
ああ、それであんなに綺麗な声なのか。
・・・。
「すごーい、どんな歌、歌うんですか?バンド?」
「いえ、自分で作って」
「ええ?すごい。シンガーソングライター?」
「大したあれじゃないんですけど」
役立たずの僕に代わって佐山さんがフォローしてくれた。「そうなんだ」で終わらせたら会話にならないよね。だめだな、興味がないことについては頑張らないとそういう気が回らない。気をつけなきゃな、っていうか、やっぱり面倒だよ。これなら横田の愚痴の方がまだいいや。
歌手志望の、ひらひらした服の女の子の隣で、僕は今日も今日とて粗利計算書に向かう。何だろうね、この、世界のギャップは。夕方横田が帰ってきてくれたので、僕はいらんことまで話しかけ、息抜きをした。しかし、横田は気のない振りして菅野が気になるみたいで、もう、席を替わってくれよ。
「あの、すみません」
「あ、はい」
横田と話している僕に、菅野がおずおずと声をかけた。
「この、IDと、パスワードって・・・」
「・・・ああ、今日は発行されてない?」
「・・・?」
また小首を傾げて微笑んだ。
「じゃ、アドミンで入ってくれる?パスワードなしで」
「・・・?」
口元の笑みがこぼれて、うふふ、と笑いになった。何の話かわかりませーん、という笑い。
「あの、アドミニスト・・・わかんないか」
「わかんないです」
ニコニコしてれば許されると思って・・・、うん、まあ、許されるだろうよ。僕は「ちょっといい?」と椅子を寄せて、<administrator>でエンターを押し、プログラムに入った。
「どうも、ありがとうございます」
「いや、別に」
たどたどしくキーボードを打つ指には綺麗な薄ピンクのマニキュア。ようやく17時になって、菅野の業務も終了した。
・・・・・・・・・・・
翌日も、菅野は隣の席にいた。今日も制服が届いてなくて、上から下までたぶん昨日と違う服。っていうか、ミニスカートが目の毒なんですけど。
今日は顧客リスト片手に三課と四課を歩き回って、両課長からは秘書みたいに呼びつけられ、なかなか大変そうだった。おい課長ども、鼻の下が伸びてるぞ。
「・・・ええと、次は山根さんですね」
「あ、はい」
「今、大丈夫ですか?」
「はい」
「あの、ここのお客さんなんですけど、展示会の通知どうしましょうかって」
言いながら資料をデスクに置いて、座った僕の隣で床に膝をつき、同じ目線になる。近い、近いよ。またあの甘い匂いがする。下を見ると、黒いストッキングのふくらはぎが床に伸びていた。ああ、そんな、大した掃除もしてないんだから、汚れちゃうのに。
「あの、ここの・・・担当山根さんって」
「あーはい。ここね。えっと、展示会。どうしようかな」
「担当者さんのお名前は、合ってますか?」
「ん?この人は・・・こないだ変わったな。情報更新してなかったっけ」
なるほど、こういうことをみんなに訊いて回ってるのか。グループ長なんかなかなか捕まらない上に、ぶっきらぼうだから・・・って、ああ、あんたらの鼻の下も伸びてるのか。
・・・ん?
と、いうことは。
三課と四課なんだから。
黒井のとこにも、行ってるんだろうな。お前の鼻の下も伸びるの?いや、あいつには効かないだろう、こんな可愛い子でも、慣れきってるから通じないんでしょ?
それで少し安心して、また会社を出た。・・・って、雨?しかも寒い。何だよ、昨日春だったのに。
<部分と全体>は、明日読もうと決めていた。
水曜のノー残で、どこか落ち着いたカフェにでも寄って、コーヒーでも飲みながら。その至福の時間のことを思うと、頬が緩んだ。好きな人からもらった本を、少しずつ読み解く悦び。うわあ、こういうの、やりたかった・・・。また二日も会えない日々だけど、いいんだ。この本をお前だと思って、ああ、あの直筆の名前を思い出すだけでも胸が熱くなる。いつかのお前が書いた<黒井彰彦>。それが今は僕の手の中にある。仕事の間、僕の代わりに、袋の中に不細工な猫を入れておこうかな・・・。
そうとなれば、夕方前にさっさと帰社して、明日の早上がりのために全力を尽くすことにした。菅野の電話応対にこそばゆくなりながらふせんを並べ替え、課長に見積もりの相談をし、共有フォルダの顧客リストを更新する。やがて夕方になり、人が増えてきて、妙に騒がしかった。
「え、雪?」
「吹雪だよ、吹雪」
・・・え?
さっきまで、雨だったけど。じゃあ、初雪ってことか。まあ、今の僕にはそれほど関係ない。課長に頼まれた社内便を一通、発送部屋に置きに行った。ああ、ついでに先日失敬した雑多なものも返しておこう。
発送部屋から戻ると、席に人影。・・・課長が菅野に何か教えてる?いや、違う。僕の席に座ってるのは、・・・黒井だ。
「雪なんて、びっくりだよね」
「ほんと、こんなに降るって思ってなかったです」
「こんなに、って、知ってたの?」
「え、今朝もテレビで、雪マークがついてて」
「へえ、そうだったんだ」
「見なかったですか?」
「うん・・・テレビ、ないから」
「えっ!・・・信じられない。本当ですか?あ」
菅野が僕に気づき、つられて黒井も気づいた。二人の親しそうな会話につい、うん、嫉妬だね。嫉妬。
「・・・なに?」
ぶっきらぼうに訊いてやる。何の用?っていうか、菅野に用事ってわけ?僕の椅子にどっかりと腰掛けて?
「あ、お前、雪。見た?」
「見てない」
興味ない。どうでもいい。・・・いや、自分でもびっくりする。大人気なさ過ぎ、顔に出過ぎ。それでも、話せて、浮かれてるんだけど。
「ねえ、見に行こうよ」
「え?」
「行こうって」
「何を?」
「雪」
「・・・どこに?」
「下」
「・・・。窓から見れば?」
うわ、何だよ拗ねたりしてみっともないな。ああ、でも、まずい。黒井のやつ、菅野に「じゃあ一緒に行かない?」なんて振りそうな気配。それを僕は黙って見送るの?そ、そんなわけにいくか!
「・・・わ、分かった。行く。コーヒー買うついでだ。しょうがないな」
黒井の腕を取って椅子から立たせたいけど、緊張しちゃって、手が、触れられない。だって手を伸ばすと、ジェットコースターが落ちるみたいに、ひゅっ、て、ああ、だめ。
「コーヒー?俺も欲しい」
「あ、ああ、買うから」
「・・・ううん、やっぱりおでんがよくない?」
「い、いいよ、どっちでも買うから!」
椅子を左右に回しながらくつろぐその腕に、ついに、手をかけようかって時に、黒井はがばっと起きて、逆に手をつかまれて、「じゃ、行こ!」と引っ張られた。・・・手、て!つ、つないでる!手のひらと、手のひらが!
視界の端に、こちらを呆然と見ている菅野の顔があった。あ、やっぱり変?手とか繋ぐとかってありえない?・・・でも、振りほどけないんだもん、しょうがないじゃん。もうだめだ、心臓が高鳴って胸が熱い。ねえ、菅野さん!手を繋ぐどころじゃないんです、本当は僕たち二回もキスしてるんです!口移しも入れれば、三回も!!心の中で叫んで顔がにやけた。黒井がカードキーで廊下に出て、引きずられる僕はキーをかざす暇もなくエレベーターへと連れ去られた。
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