第93話:情熱と幻滅の両輪で

 ハイゼンベルクと友人、師との対話は年を経てなお続き、物理学、というより、世界の具体的、抽象的な在り方について、あますことなく語られていった。言語学、哲学、化学、生物学・・・。それでも、しかしそれらはあくまで<言葉>を駆使して語られるのであって、どれもその実体ではなかった。そしてそれこそが<世界の描像>なのだ、ということが、もどかしくも確実に、たたみかけられて感じられた。言葉の持つ概念、言葉が内包する意味、それをたどたどしく繋ぎ合わせて、それで人間同士、ある程度は同じ理解に至ることが出来る。ここで感じるのは、一つはこの、<ある程度>というくくりの、多少の誤差。これを完全に払拭することは出来ないが、たとえ100%でなくとも通じるし、それで事足りる。しかし科学が100%を放棄することをどう捉えるのか、というのが差し当たって論理的な問題。物理学なら数学同様、全て数字で答えが割り切れるのかと思っていたが、どうもそうでもないらしい。物理学者は数学を言葉として使い、自分のイメージを数字で表現しているのだ。

 そして二つ目は、概念とか、意味とか、描像とか、理解とか、つまり人間が頭の中で想像する<それ>のことだが、その<それ>がたとえ正確だとして、しかしいったいどこまで実体であるのか。どんなに正確にリンゴを思い浮かべようと、その手のひらに持っていないのであれば、全ては個人の感覚的なものに帰してしまう。その体と脳みその、個々の身体的特徴に委ねられてしまう。しかし、ここで一歩更に踏み込んで、それでは世界とは、個人の身体的特徴に委ねられた個人的な感覚以外のいったい何だというのか。その<外>などあるのか。人間が脳みそから意識を飛び出させて、その網膜なしに何かを見ることなど出来るのか。仮に出来たとして、どうやってそれを証明し、共有するのか。逆にいえば、証明できて、共有できたものだけが僕たちの確固とした科学的実体であり、でもそれは本当に世界そのままの、ありのままなんだろうか。

 自分と外界との境界線がだんだん曖昧になってきて、生きて、時間を一秒一秒過ごしているのがちょっと気持ち悪くなってくる。さっき自分が感じていた落胆や何かも、だんだん客観的に見えてきて、それは言葉の塊として僕の中に落ちているだけの、<それ>だった。感覚が形になり、それは今そこに、僕の胸の奥にぼてっと落ちているだけだが、僕が拾って形を変えて、質量を損なわずに綺麗に整えてやれば別の綺麗な感情になる気がした。

 大局的に見てしまえば、大勢の人間の中で今日も僕が生きているという以上のどんなことも起きていない。僕はどこまでいってもこの身体一個の一人なのであり、つまりは孤独なのだ。

 それを思うと、ほんの少しも楽にはならないけど、胸の痛みがちょっと斜め上にずれた。綺麗な形に整えるほど器用じゃないから、せめてこれ以上悪化しないように、放っておいた。もう一度だけ、どうして黒井は僕にこの本をくれたのだろうと自問し、今となっては、その問いは全く意味をなさない、と思った。言葉の積み重ねによってそれを推し量ることは出来ても、それは実体ではないし、どんなに尽くしても共有することは出来まい。なら、それまでじゃないか。100%でないなら、70%でよしとするか、55%でも妥当と思うか、それはもうどっちでもよくなってくるじゃないか。

 帰社すると菅野はもう帰っていて、何枚か電話のメモ。女の子らしい、可愛い字だった。いったいどこの誰が、この女の子の健全で真っ当な恋心を止められるというのだろう。それについて僕が何がしかを思うことすらおこがましく感じた。

 外の空気と同じくらい冷たく、淡々とした気持ちで仕事を終えて、帰路に着いた。嫉妬とかそういうのもなくて、澄んでいた。いつか落ち着くべきところに、大体の精度で落ち着くのだ、と思った。70%か55%か、しかし時間をかければ確実に落ちていく。重力が働くなら、質量のある僕がそれに逆らう術はない。ゆらゆらと、いつか深海の底へ落ちていくのだ。

 帰宅してからも本を読み続けた。ついにナチスが台頭して、ハイゼンベルクもあらぬ疑いをかけられてしまう。時代が変わって、その空気も確実に変化していた。ハイゼンベルクがどんなに憂いても、ドイツごと変えることなど出来はしない。もう、国境を越え、国籍を越えて物理学者たちと自由な対話をすることもままならない。コンポは夜中じゅう鳴り続けた。そして、翻弄されながらもハイゼンベルクは物理を捨てることはなかった。僕に何か、そういうものがあるだろうか?家を追われ、軍に捕まり、それでも持ち続ける<魔法の石>のような何か。頭蓋骨という鉄壁の囲いに守られた、思考。紙がなくても、ペンがなくても、軟禁されても続けられる、思考という行為。何かそういうものが、僕の頭にもインストールされていればいいのに。そしたら拷問に耐えながら、それを続けることが出来る。魔法の石は、持ってたら奪われる。中に、中に、埋め込まないと。自分以外のどこかに大切なものがあるなんて、怖くて仕方ない。やはり、食べてしまわないと・・・。

 いつの間にか本を落として眠っていた。

 すごく、寒かった。



・・・・・・・・・・・・・・



 何だか外が騒がしくて、昼過ぎに起きて窓を開けたら、世界が白かった。

 ・・・何だこれ。

 これ、何?

 テレビをつけたら、雪だということだった。大雪警報?寒いわけだ。

 子どもの金切り声が響いている。靴下でも買いに行こうと思ってたのに、これじゃだめだ。っていうか、買い物も行けないか。卵切らしてるんだけどな。

 どうでもいい冷凍食品を食べながら、僕は読書を続けた。ハイゼンベルクはようやく解放され、彼らの業績の延長である原子爆弾投下の是非について、ドイツ側で話し合った。原爆というものは、言うまでもなくアメリカが日本に落としたものだが、それ以前にはその物理学の最先端であったドイツで開発されると見られていたらしい。アメリカはずいぶんそれを気にしてスパイなど放っていたようだが、結局ドイツはそれを作ることはなく、牽制としてわれ先にと作りはじめたアメリカがさっさと完成させてしまった。それを指揮したのはフェルミという男で、ハイゼンベルクと同年代のイタリア人らしいが、ヒトラーに追われてアメリカへ亡命したらしい。となると、ドイツとしては自業自得というか、自分から優秀な科学者を、アインシュタイン含め、ヨーロッパから駆逐してしまったのであった。ハイゼンベルクは頑なに残ったわけだが、何度も亡命を薦められていた。そのおかげというか何というか、原爆を製造し落とすいう直接的な罪を負わずに済んだ。どこまでを罪と呼ぶか、それも議論された。

 その対話の中で、別に命題と関係ないのだが、<情熱と幻滅とによって世界が形成されている>、というような記述があった。誰が発言した、というよりは、著者がその人物に言わせているだけなのだから、著者自身の認識でもあるのだろう。しかしそれがなぜか僕の心を捉えた。情熱と、幻滅。その両輪でずっと走ってきた。黒井と会ってから。

 戦争が終わり、ハイゼンベルクは、師ボーアと旧友ヴォルフガングと再会する。様変わりした世界の中で、もう彼らは最前線ではない。それでも原子の中の、電子と陽子と中性子の話をいつまでも飽くことなく続ける。いつまでたってもそれしかない。そんな、見えないような小さな粒だか波だかの話を、一生続けている。そんな小さな中に、一生分の何があるというのだろう。それでも著者は、まだ語りきれない。ページはもうすぐ尽きるのに、著者はボーアにニュートンのこんな名言を引かせている。

<私は海辺で遊び、そして時になめらかな小石や、特別きれいな貝殻を見つけて喜ぶ子どものようなものなのに、私の眼前には真理の大海原が手つかずのままに横たわっている>

 僕はまた、僕の魔法の石のことを思う。なるほど、石を飲み込んでも意味などないわけだ。砂浜の、ほんの見渡す範囲の遊び場からすると、目がくらむような、海という範囲。そんなものが本当に、僕の目の前にも横たわっているのだろうか。人生の本番の舞台の建物など凌駕するほどの大海原が、見ようと思えば見えるのだろうか。


 午後、ほとんど食い入るように続きを読んだ。

 その輝かしい二十代と同じように、ハイゼンベルクはまたヴォルフガングと共に研究を始める。発見があり、興奮があり、同意があり、批判がある。彼らはたぶん何百通と手紙のやり取りをして、意見を戦わせた。やがて一旦は同意に至り、著者はヴォルフガングからのかなり親しい内容の手紙からいくつか抜粋している。よくゲーテを引き、最後は<心をこめて、君のヴォルフガング・パウリ>で締められていた。<君の>だなんて、そういうの、向こうの国の言い回しなんだろうけど、僕は少し心が苦しくなった。その手紙の後しばらくしてヴォルフガングは急に研究から遠のき、やがて、病に倒れ急逝した。ハイゼンベルクと共に過ごした訳者は、その時彼が最も意気消沈していたと訳注で述べている。

 その後は最後の一章を残すのみだったが、どうしても手がつけられなかった。人生の大半を同じ目的に向かって共に過ごしてきた親友と、最後は本当には分かり合えないまま、<退屈な合意>で終わってしまったのだ。ヴォルフガングは批判的な討論を好み、合意とはつまり退屈な合意に他ならなかったらしい。彼の中で晩年、何かが失われたことは明らかだった。それは魔法の石かもしれないし、眼前の大海を見る目かもしれなかった。


 夕方になり、更に雪と風は強くなった。

 ほぼ横殴りの、吹雪。

 僕は窓を開けてしばらくその白いものを眺めた。

 ・・・黒井は今頃、喜んでるのかな。

 先日とは違って、ひらひらと舞いながら落ちてくるような雪じゃない。それでも乾いたそれは綺麗に積もり、ベランダにもさらさらと白い絨毯が敷かれていた。

 本のせいで、感傷的になっている。

 雪が落ちるところに落ちて、電子がその軌道を跳躍するように、僕が選んでも選ばなくても、なるようになる・・・。しかしまた、<情熱と幻滅>が繰り返す。菅野との約束、ってほどでもないけど、それを果たしたって、いいのかもしれない。引き金を引いたのは、僕なんだし。まあ、本当は菅野をダシにして黒井と話したいだけだけど、それは自分の首を絞めるだけだけど、僕が今取れる選択肢はそれくらいしかない。そして、選択肢があるということは、量子力学的にいえば、そこに在る確率が何割かあるということだ。・・・理解などしていないが、つまり、出来ることが出来て、出来ないことは出来ないのだ。

 ・・・携帯を握りしめて、何分も逡巡した。

 もうすぐバレンタインだね。お前はいっぱいチョコをもらってきたんだろうね。全部自分で食べてたの?

 それだけで十分だ。ありとあらゆる種類のチョコをもらっただろうから、好き嫌いがあれば分かるだろう。それを菅野に教えてあげて、そしたら僕の役目は終了だ。来週、あとは勝手にしてくれればいい。

 それだけで、いいか。それくらいなら、出来そうか。

 意を決して、通話ボタンを押す。コンポの音量を絞って、呼び出し音を聞く。

 心臓がどきどきする。もしかして、もう一緒にいたりする?二人で雪を眺めていたりする?だとしたら僕は本当に馬鹿みたいだけど、でも、今切ってしまったら余計わけがわからなくなる。

「・・・」

 手が震えてくる。菅野じゃあるまいし。あの子と比べて、何倍付き合ってると思ってるんだ。・・・それでも、月日なんか関係なくて。

「・・・あ、もしもし?」

 あ、・・・出た。

 どうしよう、言葉が出てこない。

「もしもし?おーい」

「・・・あ、あの」

「ねこ?ねえ、雪だよ」

「・・・う、うん」

 掠れた声を喉から絞り出す。何だっけ、ええと、バレンタイン、チョコ、バレンタイン、チョコ・・・。

「すごい雪だよ、こんなになるって、知ってた?」

「・・・ううん、さっき、見た」

「俺ね、今屋上から戻ってきたとこ。酒、飲んできた」

「・・・雪見酒」

「寒くて、ろくに飲めなかった」

「・・・そう」

「・・・」

「・・・」

 沈黙。だ、だから、チョコだってば・・・。

「・・・ねえ」

「・・・うん」

「いま、どこ?」

「え・・・うち、だけど」

「あの、お前、何で電話してきたの?」

「・・・っ、ご、ごめん、何でもない、邪魔したね」

「・・・え?」

「本当に、何でもなくて。ごめん、切るよ」

「・・・待ってよ、なに?」

「・・・」

 何も言えないし、でも、切れなかった。ほとんど泣きそうになる。宙を見つめても、菅野は助けてくれない。誰も、助けてくれない。

「・・・あのこと?」

「・・・え」

「雪が、降ったから・・・」

「・・・」

「読んだの?」

「・・・え、えと、ほとんど。あと、一章」

 反射的に手元の本を見る。表紙を開けて、<黒井彰彦>を見て、慌てて閉じる。本人と、喋ってる・・・。どうしよう。

「そっか」

「・・・うん」

「じゃあ、話そうか」

「・・・」

「えっと、ね・・・」

 黒井は多分雪を見ながら、話し始めた。<部分と全体>のことを。ここに書かれた<黒井彰彦>という人のことを。

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