第94話:黒井彰彦という人間
途中で充電器を繋いで、僕も窓から雪を見て、長い話を聞いた。
僕は途中で思い出した。雪が降ったら、本について教えてくれるって・・・ああ、僕は忘れてたんだ、薄情なやつ。
<部分と全体>はやはり、大学時代に入手したものだということだ。
<黒井彰彦>は当時演劇部に所属し、ほとんど主役を張っていた。その秋の文化祭の演目は、演劇<コペンハーゲン>を土台にした現代劇。副部長が脚本を手がけ、オリジナルのアレンジを加えていった。
<コペンハーゲン>というのはデンマークの首都であり、あのボーアの研究拠点であった。その名前を冠して、ボーア一派のことはコペンハーゲン学派と呼び習わされていた。初期の量子力学を構築していった中心地であり、もちろんそこにはハイゼンベルクやヴォルフガングもいた、というより、彼らこそが中心であった。
しかし先ほど読んだように、やがて戦争が彼らを引き裂いていく。
ヴォルフガングは家系がユダヤ系であったためアメリカに逃れ、ハイゼンベルクはドイツに居残り、ボーアはデンマークから、様々な物理学者に対し亡命などの手助けをした。一番の愛弟子であったのにも関わらず、ボーアとハイゼンベルクは、政治的に、顔を合わせることもままならなかった。当時ハイゼンベルクはドイツの原爆製造の要でもあり、その完成度合いが世界の大戦の行方でもあった。物理学者という人種が、特に原子物理学に関わる一握りの人間が、ヨーロッパとアメリカとで、途方もなく大きな意味を持っていた。
そんな中、ハイゼンベルクは一度、ボーアを訪ねている。
その時に、どんな会話が交わされたのか。
ドイツの原爆について、どの程度のことが明かされたのか。また、ドイツ側もアメリカの内情を知りたいわけで、ドイツ国内で知りえない情報を持っていると思われるボーアから、アメリカ側の何が語られたのか。
このことは<部分と全体>でも触れられていたが、ハイゼンベルクとボーアの記憶は食い違ったまま、とされていた。どの場所で、どこまでのことが話されたのか、戦後になって交わされた会話からは、同じ<描像>が描かれなかったという。
そしてこの会話の内容は、その後彼らが墓まで持ち込んで、ついに明るみに出ることはなかった。果たしてこの会話が歴史を変える何がしかの一端になったのか、そうでなかったのか、永遠に判明することはない。
この会話の状況を量子力学になぞらえて、まるで芥川の<藪の中>のような物語に仕立てたのが、演劇<コペンハーゲン>である。登場人物はハイゼンベルクとボーアとその妻で、三者三様の物語が語られる。一度日本でも上演されたらしい。
それをアレンジする、という話になり、ハイゼンベルク役になった黒井が、勉強熱心にも<部分と全体>を買い求め、名前を書いて部室で熟読した・・・そういう、話だった。
「・・・結局、やらなかったんだ」
「・・・どうして」
「降ろされて」
「・・・なんで」
「たぶん、俺がね、・・・のめり込み過ぎたんだ」
黒井は勉強を重ね、副部長の脚本に異を唱え始めた。それまでも自由奔放にやっていたが、それはただ、黒井が上手いから・・・というよりたぶん、華があって目立つから、主役として他にいないから、という理由で何もかも大目に見られていたのだった。しかし今回は違った。今まで我慢していた全員を敵に回し、黒井は孤立した。同棲していた彼女じゃない部員も、かばいきれず出て行った。一人で部屋にいられなくなり、しばらく野宿をして過ごしたそうだ。模倣犯の<ピース>のような順風満帆の人生は幕を閉じ、<黒井彰彦>は自分を殺した。タバコの<ピース>もここでやめた。残りの大学時代と、そしてこの会社に入ってから、彼は<黒井さん>になった。空気を読んで、自分を抑え、圧力で亀裂が入ればたまにキレて、それでも辞めずにやってきた。
「お前があの時ね、タバコ、買ってきて」
「うん」
「・・・開かなかった幕の、本番。開けて、くれて」
「・・・うん」
「ちゃんと、出来そうなんだよ」
「・・・うん?」
「やっとだよ、長かった。やっとなんだ」
「・・・うん?」
「その、本。封印してたんだ。怖くて、出せなかった」
「うん」
「続きが、出来るよ」
「つづき?」
「俺ね、物理を勉強するんだ」
「・・・物理」
「いや、本当は、してるんだ。でも、こんなのはただの見せかけだ。惰性だよ。ちゃんと、けじめつけてやりたかった。何となく読んでるだけじゃなくて、ちゃんと」
「もしかして、お前・・・、テレビも、パソコンもなくて、何してんのかって・・・勉強、してたの?」
「そんな、大したものじゃないよ。しがみつくみたいに、他に何もなくて・・・」
「・・・ねえ」
「うん?」
今すぐ、吹雪の中飛び出していって、お前に会って、抱きしめてもいい?
俺はお前に会えて嬉しいって、伝えてもいい?
どうかな、どうだろう。
しばらく沈黙してたら、受話器の向こうからすすり泣く声がした。僕はコンポの音量を少し上げて、一緒に泣いた。俺も、一緒に、いちゃだめかな。その砂浜で、一緒に見たい。目の前に広がる、大海原を。真理の、大海を。
・・・・・・・・・・・・・・・
二時間くらい、話していた。
しばらくは何も出来なくて、ただぼうっと、寒いから布団で丸まっていた。何かを考えようとするけどすぐ拡散していって、でもそれでよかった。形にせず、広がっていけ。どこまでも、遠くまで。
いつの間にか、眠っていた。
日曜の、朝。
ああ、チョコのこと、何も訊けなかったな。菅野さん、ごめん、忘れてたよ。
今なら、嫉妬なんて何もなかった。何ていうか、そういうことじゃないんだ。
カーテンを開けると、雪は止んでいて、全てが真っ白。僕も昼間っから、お酒でも飲もうかな・・・。
米を炊いたり、ゴミをまとめたりするけど、頭は空っぽだった。たまに、黒井の声がぽつりと再生される気がした。今までお前のこと何にも知らないってずっと思ってたけど、思い返してみれば、少しずつ、何度もそれは僕に伝えられてたんだ。
感情を、抑えられないとか。
お前が思ってるような<黒井さん>じゃない、とか。
俺のふつうが、周りに迷惑だとか。
俺は奔放な主人公じゃなかった、とか。
ようやく<黒井さん>じゃない、<黒井彰彦>を知ることが出来て、そしてこれからは、誰も見たことのないお前だ。
僕は洗い物をして、排水口のぬめりを取って、綺麗になったキッチンでコーヒーを淹れ、最後の一章を読んだ。
ハイゼンベルクは様々な機構や団体の代表や顧問みたいな立場になっていて、もうすっかり重鎮だ。年下の友人らと交わす最後の対話では、しかしやはり、ヴォルフガングの遺した物理テーマが検討されていた。二分割と対称性の減少。
若き日に、一度だけヴォルグガングはハイゼンベルクの趣味につきあい、山を自転車で散策した。そのときの対話は、最後まで著者に、一里塚のように記憶されていた。夜遊びが日課だった彼がハイゼンベルクの<世界>に入ってきたのは後にも先にもそれきりであったらしい。ちなみにハイゼンベルクもヴォルフガングの夜遊びにつきあってみたいと申し出ていたが、あっさり断られていた。うん、僕たちも大学の同じゼミにいたら、こんな関係になれただろうか?
あとは訳者の後書きをざっと読んで、歴史や人物の概略をおさらいした。それから僕はさらのノートを一冊用意して、気の向くままに考えを書き付けた。冷めたコーヒーを温めなおして、おやつが何もなかったから<北海道ミルク飴>を舐めた。アイディアはいろいろわいてきて、ページがどんどんめくれていく。くだらないものも多かったけど、勢いそのまま、書き続けた。
・・・何だ、こんなところにあったのかも。今度はお前が見せてくれた。犯罪ごっこ以上の、僕の<本番>。世界の、いや、宇宙の極上ミステリ。最高峰の、そして最深部の謎解きが、そこには横たわっているようだった。
・・・・・・・・・・・・・
土日の間はうちにこもっていたので、月曜の朝、初めて雪を踏む。道路はほとんど普通に歩けるようになっていた。歩きにくいかと思ってかなり早めに出たのだが、大丈夫そうだった。
何だか清々しかった。情熱と、幻滅。また情熱に傾いた。<本番>の舞台の幕が閉じても、まだ、終わっていなかった。やることは、人生かけて、いくらでもあるように思えた。
会社に早めに着いて、さっさと仕事を始める。あとでコクーンタワーに行かなきゃいけないし、新しいノートも欲しい。備品の棚からふせんを大量にもらい、今週の予定を立てる。面倒だけど夕飯のことまで考えて逆算し、水曜にまとめ買いするまではあり合わせで何とかしなきゃ。
そうこうしてるうちに人が増え始め、隣に菅野がやってきた。
「あ、おはよう」
「おはようございまーす」
その視線がちらっと三課の席に行く。まだ来ていない、とほっとしたようだ。
「すごい雪でしたね」
「うん。全然、外出なかったけどね」
「そうなんですか?東京にしてはめずらしくべちゃべちゃしてなくて、歩きやすかったですよ」
「ふうん、そっか。え、どっか行ったの?」
「ふふ、お友達と、お買い物とランチと、あとカラオケ」
「へえ、あんな吹雪で」
「昨日ですよ、晴れたから」
お買い物と、ランチと、カラオケ。
へえ、そういう出来事ってまだこの世の中にあったんだ。
「あのね、お友達の本命チョコ買うの付き合ったんですよ。それで、すっごく美味しそうで、あたしも買って食べちゃったの」
「・・・そ、そう。あ、それで、自分のは?」
「・・・あたし、手作り派なので」
「ああ、ごめん。そういえば、まだ訊けてないんだ」
「いや、あの」
急に菅野が姿勢を正す。あれ、もしかして。
振り返ると、黒井が席に着いたところだった。今日もすぐに目を逸らすけれども、何だか恥ずかしそうにはにかんで、口元には笑みがこぼれていた。・・・何だよ、こっちまで恥ずかしくなる。
ふいに、衝動的に。
僕は席を立って、そちらへ歩いていった。黒井が気づいて、少し構える。僕だって一歩進むごとに全身が緊張する。でも、今、言いたかった。
「あの」
「・・・」
まだ来ていない、黒井の向かいの空席から声を掛ける。そして、まっすぐその目を見て、言った。
「どうもありがとう」、と。
言うだけ言ってきびすを返し、席に戻った。心臓が飛び出しそうだ。まるで愛の告白をしに行ったみたい。席につくと菅野が小声で、「え、何ですか、どうしたんですか?」と、前を見たまま訊いてくる。
「べ、別に。ちょっと、礼を」
「え、それって・・・?」
「ううん。極めて、個人的な・・・」
その時チャイムが鳴って、月曜朝礼が始まった。その間も、ずっと緊張はやまなかった。フロアの中央を向いて、その後ろ姿が見えるから、立っているだけでちょっと貧血気味になるくらいに。
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