11章:恋のキューピッドは、敵に塩と夕飯セットを送る

(四課には、黒井を好きな二人がコソコソしている)

第95話:チョコという大義名分

 理学書のコーナーへ行っても、さていったい、どこから何に手をつけたものか、さっぱり分からなかった。今まで読書は散々してきたがそのほとんどは小説であって、ノンフィクションはあまり手をつけたことがない。

 最新の鑑識やら法医学の手法に多少慣れ親しんでいるから、自分にはある程度の科学リテラシーがある・・・というのは全くの過信だったようで、物理学など、いや、化け学や理科の段階からのやり直しになりそうだった。

 ・・・そんなの、全く興味がないんだけどな。

 黒井と一緒に自分も物理を勉強しようなどと、大それたこと、というか、全くの門外漢なのだ。何冊か手にとってぱらぱら見てみるが、分かるはずもない。<部分と全体>だって<黒井彰彦>と書いてあったから読み通せたのであって、そうでなければ手に取ろうなどとも思わない。僕は今、全く場違いな棚の前にいるのだ。

 黒井への愛を持ってしても物理学の壁は高く、僕は早々に諦めた。もう少し、もう少し何とかならないか?もっと薄くて、もっと挿絵があって、理系学生の参考書みたいじゃない、数式のない読み物・・・。平積みされている新刊はどれも興味深いタイトルや帯がついているのだが、目次を見ては元に戻し、の繰り返しだった。

 棚をずらずらと見ていくと、たぶん唯一知っているであろう現代の物理学者の名前、スティーブン・ホーキングの著書があった。<ホーキング、宇宙を語る>は何となく聞いたことがある気がする。中をちらりと見るが、ううん、これ本当に一般読者向けのベストセラーなのか?どこも易しそうではなかった。そして隣に、<ホーキング、未来を語る>という、少し大きめの本。こちらは、あ、ものすごい図、というか全編に渡ってCGを駆使したカラー図解ばかり。もういい、これにしよう。

 記念すべき一冊目を買い求め、僕は一件目の得意先へ向かった。


 始まりはアインシュタインの、1920年の白黒写真からだったので、僕にはとっつきやすかった。彼の略歴と相対性理論がざっと語られたが、途中で<コペンハーゲンのヴェルナー・ハイゼンベルグ>という記述に当たり、思わず釘付けになった。ディラックの名前もある。シュレディンガーという名前も記憶にあった。ああ、本当に彼らは生きていて、そのとおりの業績を残した人々なんだ。しかし、ドイツの、ではなくコペンハーゲンの、ということは、つまりデンマークのボーアの研究所の一派の代表、というニュアンスで取り上げられているんだな、・・・などと、まあ理解できる自分に自己満足。

 電車の中で読めたのはそこまでで、あとは仕事だった。

 

 いくつか小さなトラブルがあり、クレームめいた注文をつけられ、早々に帰社。おたくの担当者同士の意思疎通が出来てないんだろ、と愚痴ってもしょうがないから、見積もり出し直し、契約取り直し。今までの経緯の時系列を整理して、課長に相談。はいはい、悪うございました。無茶なことばっか言わないでよ。

 席に戻ると、菅野が僕に声をかけた。

「・・・大丈夫ですか?」

「はあ・・・疲れた」

 答えになってないけど、でも内容を説明したって仕方がないし。

 いや、何かしら気にかけてもらって嬉しくもあるんだけど、かっこ悪いところ見られたくもないから、宙ぶらりんで微妙になる。だから隣に人がいるのって嫌なんだ。ただでさえ面倒が増えたのに、余計な気を遣わなきゃいけない。人に気を遣うというのは、僕にとっては見積もりを出し直すのと同じか、それ以上の労力なのだ。

「まあ、明日はお休みですから」

「・・・え?」

「祝日ですよ、明日」

「・・・あ、そう。忘れてた」

 二月、十・・・一日?建国記念日、か。ああ、月曜祝日じゃないのは、建国の日がずらせないからか、そりゃそうだ。

「山根さんは、お休みの日、何してるんですか?」

「え?」

 どうしてそんなこと知りたいんだろう。本当に知りたいのは僕じゃなくて、あいつのことだろ?・・・あ、だめだな、ちょっとイライラしてる。

「・・・最近は、読書だよ」

「へえ、すごーい。インテリですね」

「べ、別に」

「あたし、本って読めないんです。映画とかドラマは大好きなんですけど」

「へえ・・・」

 ああ、また会話が広げられなくて終わっていく。無意味にキーボードをマウスを動かして、今ちょっと忙しいから、ってふり。しょうがないじゃん、元々、こんな女の子と二人で会話するような人間じゃないんだから。今までだって、横田と一緒か、あるいは黒井のことで話が出来ただけで・・・。

「・・・するの、告白」

「・・・」

 唐突な僕の一言に、それでもその意味を十分理解して、固まってしまった。うん、こうしてれば何となく僕が優位に立てて、会話も出来る。まあ、崖につきだした板切れに乗って、自分でノコギリひいてるみたいな感じもするけど。

「・・・わ、わかんないです。ただ渡す、だけかも」

「そっか」

「ど、どうなんですか。本当に彼女とか、いないですか」

「・・・いない、はずだよ。まあ、クリスマスを俺と過ごすくらいだし」

 自分で言って、恥ずかしくなった。その記憶についても、そして、それを自慢めかして言ってしまったことについても。

「え、クリスマス?一緒だったんですか?」

 菅野が思わず少し吹き出した。<何それ、それなら安心!>って笑顔。はは、まあそうだろうね。

「すごい仲良しですね。何かかわいい。ケーキ食べたり?プレゼント交換とか・・・ふふ」

「い、いや、プレゼントまでは・・・」

 ああ、クリスマスといえばプレゼントか。甥っ子に絵本を贈っといて、僕はもらってない・・・いや、あのキスがプレゼント?・・・ひい、自分で考えて呆れた。何を言ってるんだ俺は。

「あの、もうちょっと、何か用事・・・ないんですかね」

「・・・へ?」

「黒井さんが、山根さんに・・・。もっと頻繁にこっちの席に来てくれたら、話せるのに」

「あ、ああ、そういうこと」

「そんなに、ないか。課が違うし・・・。はあ、ため息出ちゃう」

「そんなこと言われたってねえ。用事、なんか」

 ・・・ない、か。まあ、そうなんだ。<本番>も終わり、もらった本も読み終わって、雪が降ったら、の約束も終わって、今は何もない。僕にはバレンタインもないんだし。

 何だか急に疲れて、やる気も萎えた。もういい。明日が休みなら、一日寝て過ごそう。はあ、またなの?早くないか?情熱から、幻滅へ。

 ・・・ああ、でも接点が一つだけあったか。黒井にチョコの趣味を訊くという僕の大義名分が。

 ふむ。しかしいつ、どうやって訊くか。

 そう考えると、今の僕は菅野と大差ないみたいだった。向こうの席に行く口実もないし、帰りだってバラバラだろうし、もちろん明日の祝日だって、どうするってわけでもないんだし。メール・・・で訊くには直接的すぎるし、それとなく、とはならないし。

 じゃあ、電話?明日、用事はないけど何となく話したくなって、って電話するの?

 出来ないよ!

 ・・・でも、頼まれたことは、遂行しないと。どうにか話す時間を作らなきゃ。ああ、どうして恋のライバルのためにこんなことになってるんだ。いいのか悪いのかさっぱり分からない。

「・・・分かったよ。今日、もし帰りが一緒になったら、チョコのこと、訊いてみる」

「え、ほんとですか・・・」

 菅野は何だか泣きそうな顔で僕を見て、潤んだ瞳で何度か瞬きした。何だか芝居がかってるけど、まあたぶんこれが菅野なりの恋のペースなんだろう。一瞬その両手が動いて、キーボードの上の僕の手に重なりそうになるけど、「あっ」と言って引っ込んでいった。

「ど、どうしよ。あ、そうだ」

 ふせんにちまちまと何か書きつけ、僕に渡す。

「これ、メアド・・・。実は明日、材料とか買いに行こうと思ってて。分かったらそれ、買えるから・・・連絡、ください」

「え、ああ」

 うわ、また、女の子からメールアドレスをもらってしまった。今年で二度目。なんて年だ。

「ああ、どうしよう。明日が火曜で、お休みで、そしたら水、木、ああ、金曜・・・あっという間だ・・・」

「ほんとだね」

 何だか他人事みたいにつぶやく。僕には告白する予定なんて、そんな日、来ないわけだし。



・・・・・・・・・・・・・



 菅野が「お願いします!」と手を合わせて帰り、僕は「今日ちょっと、一緒に帰らない?」の一言が言えないまま、ただひたすら偶然を装うために残業を続けていた。いや、実際やることはたくさんあるけれど、一度手をつけたら長くなりそうなものは出来ないから、今やらなくてもいいようなこまごまとしたことを適当にやった。黒井が帰る気配を察したらすぐやめて、席を立たなきゃいけないんだから。

 横田とだべってしまいたくなる気持ちを抑え、後ろの声に耳を傾ける。島に人はいるし、帰るとき必ず「お先に」と言うだろう。もう振り向きたいけど振り向けない。はあ、親友なんじゃないの?一緒に帰ろうの一言くらい、こんなにうじうじせずに言えたっていいんじゃないの?・・・でも言えないよ、自分からそんなこと!・・・怖いのか?何が?

 断られるのが?

 会話が途切れるのが?

 感極まって、おかしな風に、踏み込んでしまうのが?

 結局踏み込めなくて、ごく普通の会話で濁して、それで満足するべきだって、思い知らされるのが・・・?

 そうだよ、昨日なら言えたかもしれないいろんなことも、こうして会社に来てしまえば、何だか遠い夢だったみたい。雪景色の中で幻想に浸っただけの、隔絶された時間。ああ、隣の席なら、「帰るの」「うん」「じゃあ俺もそろそろ」で済む話なのに、たった五メートル離れただけで、どうしてこんなに面倒なんだ。物理的に遮断されてるわけでもなく、会話を禁止されてるわけでもないのに、現実問題、用事がなければ他の島まで歩いていってどうのってことはほとんどあり得ない。いや、もちろん本当に隣の席だったらもっといろいろ、他に困ることもあるだろうけど・・・。

 その時。

 三課の誰かが、ぼそっと「お先に失礼しまーす」と声をかけ、黒井の「お疲れさまー」が聞こえてきた。そして中山課長の声。

「まだ雪残ってるとこもあるしね、気をつけて帰ってくださーい。みんなも、今日はそんな遅くなんないように」

 ぱらぱらと、「はーい」的なつぶやき。埼玉とか、千葉から出てきてる人もいるしね。まあ僕だって、東京といっても二十三区内じゃないから人のこと言えないけど。・・・黒井は、世田谷区民なんだよな、おっしゃれー。

「山根くん、これなんすけど」

「へっ?」

 横田から何か質問され、答えているうちに集中は途切れて、背中に貼りつけていた耳はいつの間にか元に戻ってしまっていた。山猫みたいに、顔の上でぴこぴことは動かせない。質問が終わって自分の仕事に戻り、終わらせてふせんを剥がした。意外とさくさく進むので、あと二、三個片付けちゃおう、とやってるうちに、三課がやけに静かになっていた。

 思わず振り向く。

 ・・・い、いないじゃないか!

 思いっきり中途半端な提案書を、上書き保存でさっさと終了するか、あとほんの一ページ仕上げるかで五秒逡巡した。走れば、間に合うかな。地下通路で追いついて、その方が逆に自然かも。腹の奥から焦りがこみ上げてきて、何度も打ち間違える。ああ、もう、行っちゃうよ、追いつけなくて会えなかったら、ここまでした意味何もないじゃん。菅野だってガッカリだよ。まったく何してるんだ、でも、こんなとこで終わらせるの気持ち悪いんだもん!

 結局、焦りながら適当に仕上げても全然雑になって、ページ丸ごと消して終了した。うん、急がば回れっていうか、回っても転ぶなっていうか。

「そろそろ、帰るわ」

「ほーい、おつかれー」

 横田に声をかけ、席を立つ。「お先しまーす」と島に軽く会釈し、さて、明日休みだからなあ、って感じでゆるゆると廊下に出る。カードキーを鞄にしまって、マフラーを巻いたら・・・ダッシュだ!!

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