第96話:山猫はブラックホールの夢を見るか?
エレベーターのボタンを連打し、念のため携帯を見る。もちろん何もなし。急げ、急げって!その場で足踏みなんかしちゃって、ああ、もう、何分経った?あいつがここに立ったのは何分前?
身代金をまんまと取られた刑事の気持ちで後を追う。行く先は分かってるんだ、せめて駅のホームまでに捕まえれば何とかなる。しかし電車に乗られたら終わりだ。いつもどっちの階段から降りてる?ホームを端から端まで歩くっきゃない?っていうかどっか寄り道でもしてたら終わりだし!
もどかしくロビーを横切って、未だ工事中の地下通路へ。動く歩道は動いてないから、こっち側だけ見ればいい。しかし、スーツ姿の男一人、こんな中で見つかるか?マックを過ぎたら、一本道じゃなくなるし。
早足で目を動かしながら、通行人をごぼう抜き。っていうか無理じゃない?いなくない?心拍数を上げて、もう小走り。っていうか、走る。菅野・セリヌンティウスのために、夜更けの新宿を突っ走る。
一直線の通路は終わって、あとはせめて改札までの最短距離を適当に見渡すしかない。背格好が似た男をたまに二度見して、ああ、やっぱり後ろ姿じゃわかんない?でも結局違うって分かるのは、どこで見分けてるんだろう。コートじゃなくて、やっぱり頭?それとも姿勢や歩き方?違う・・・違う・・・こんなもったりしてない。こんな貧相じゃない。・・・うん、ちょうど、あんな感じかな。背の高さ、歩く早さ、肩幅とか、いや、颯爽としたオーラみたいな?
・・・ああ。あいつだ。
見つけたよ、菅野さん。
たぶん姿勢と、それから、頭と体のバランス?コートにマフラーだから分かりにくいけど、それでも何となくそう思った。まだ一割くらい自信がないけど、きっとそう。うん、頭が小さいから、余計に背が高く見えるんだ、そういうことか。膝の位置が高いってことは、腰の位置だって、きっと高い。つまり脚が長いってこと。あはは、素敵だね。
後ろからじっくり見物して、息を切らせて追いついた。いいんだ、大義名分だ。走ってでも追いつく理由がある。だから、肩を叩いて、「よう」って言ったって、大丈夫なんだ・・・。
・・・。
手を、伸ばすけど、やっぱりひゅうってなって、触れないから、・・・肩でどついた。
「あ、すいません・・・」
つい顔を背けて、そのまま、ちょっと前を歩く。どうだろう、お前は、気づくかな。あれ、もしかして気づかれないで、このまま?どうしよう、振り向いて「何だよ、俺だよ」って言わなきゃなの?それとも「あ、やっぱりお前だった?」って偶然のふり?もう、馬鹿みたい。
でもそしたら、後ろから、「あれ、やまねこだ?」といつもの声。
・・・もし違ったらどうすんだよ!
ちょっと、泣きそうだよ、嬉しいじゃんか。
ようやく振り向いて、「あたり」とつぶやいた。
・・・・・・・・・・
「・・・寒いね」
どうしてこの期に及んで、寒いねなんてせりふしか出てこないんだろう。
「うん、・・・寒いね」
ああ、黒井彰彦だ、って思う。あの人が、今ここにいるんだ。
でも、一昨日のあの電話のことは、こんな場所で話したくなかった。あれはあの雪の中の、電話回線の中だけの話だ。こんな雑踏で口に出すのは嫌だった。
さっきまでの歩幅からだいぶペースを落として、黒井に合わせた。こうして隣を歩くのも、ちょっと久しぶりだ。
「あ、あの」
・・・だめだ。のっけから「どんなチョコが好き?」なんて、唐突過ぎる。しかし任務は遂行しなくては。
「・・・なに?」
「あ、ええと、そういえばさ」
「うん?」
歩きながら、顔を見なくて済むのは助かるけど・・・、周りが騒がしい中で、少し声の音量を上げるのが恥ずかしい話題だな。
「あの、もうすぐ、・・・バレンタインって、知ってた?」
「・・・ああ、そうだね」
そりゃ、知ってるよね。街中、コンビニだってどこだって、チョコだらけだもんね。あはは、どうしよ・・・。
「そ、その、何ていうか・・・たくさん、もらうんだろうね」
何を言ってるんだ?ひがみ?おい、菅野さん、ここからどうもっていけばいいんだよ。
「・・・ああ、いろいろ、配られるから?」
「え?」
「何か、営業部一同とか、業務部より、とか、お歳暮みたいに」
「あ、ああ、そうね。いつも机に置いてあるよね」
「頼んでないのにさ、お返しの分、お金徴収されるの馬鹿らしい」
「う、うん。別に、儀礼的にもらってもね」
いや、それでもないよりはマシだと思う。僕はそう思う。
「で、でもさ、お前は、そうじゃないのだって・・・」
ああ、何てタイミングの悪い。こんなとこで改札口。縦に並んで通ったら、階段で。途切れて再開するほどの話題じゃないのに、妙に引っ張るなんて、うう、しかし菅野のためだ。
ホームについて、列に並んで、一息ついて・・・先に違う話題に移られないうちに、話し出さなきゃ。
「あー、だから、あのさ」
「ん?」
考えるんだ。菅野は、どんな情報があれば嬉しいんだ?手作りチョコを作ろうとしてる人間が、買い出しをするにあたって欲しい情報。何でもいいとか、美味しいやつ、とかじゃなくて・・・もっと具体的な。ナッツ入りが好物とか、トリュフがいいとか、お酒入りのがいい、とか。
・・・っていうか。
「お前さ、甘いものとか、好きなの?」
「・・・好き、だよ?」
うっ。違う、そのせりふを引き出したくて言ったんじゃない。いや、もっとさらっと言ってくれる?「あー、そうね、それ好きだわ」って感じでさ。そんなにゆっくり、しっとり言わないでくれるかな・・・。
「いや、あのね、その・・・お前たくさんチョコもらうだろうから、もし甘いの苦手だったら、大変なんじゃないかなとか・・・ま、余計なお世話だね、うん」
「・・・え?」
「ち、違う、分けてほしいとかそんなんじゃないよ」
ああ、ごめん、菅野さん。とりあえず嫌いじゃないってことしか分かってない。こんなの意味ないよね。僕、情報収集能力ないや、スパイ失格。ああ、そういやこないだパフェ食ってたじゃん、クリスマスだって、ケーキ食べてたし。そのくらい、訊かなくたって分かることだった。
「・・・あ、もしかして」
「え?」
「チョコ・・・くれんの?俺に?」
あ、バレたか。もう、しょうがないよね。いや、でも、あげる前からばらしちゃったらかわいそうすぎるか。せめて名前だけは出さないようにしなきゃ。・・・いや、僕の交友範囲からいって、あげようとしてるのが菅野だってことは、バレバレだろうけど。
「・・・え、いや、何ていうか、まあ」
「やっぱりそうなの?・・・何か、嬉しいな」
・・・何だよ、はにかんだ声出して!もうチョコはうんざりだよ、いらないよくらい言ってよ!
「そ、そういうわけだから。・・・何か、好きなチョコとか、あるわけ?」
もう、やけっぱち!
「好きなの?ううん、そうだなあ。・・・ええ、なに、作ってくれんの?」
「・・・らしいよ」
「らしいって・・・くくっ」
黒井はぷっと吹き出した。何がおかしいの?恋する乙女の手作り、良かったね!
「・・・で?何がいいわけ?」
「何だよお前、照れてんの?」
「何で照れるんだよ」
「だって・・・うん、いいよ。欲しいよ俺」
「え?」
「お前の手作り」
「・・・は?」
電車が来て、寒い風がひゅううと吹いた。はあ?な、なにそれ。意味わかんない。どういうこと?ただ、心拍数だけが上がっていった。どういう話になっちゃったの?
電車に乗って、奥のドアの前に並ぶ。こんな話、ど真ん中で出来ないよ。
「・・・な、何で俺が作るわけ」
外を見ながら、もう、声が震えそう。「欲しいよ」とか、な、何なの?
「だって、くれるって言うから」
「そ、そんなわけないだろ。そんな・・・」
あ、もしかしてこれ、笑い飛ばすところ?真剣に否定するとか、むしろおかしい?でも今更遅いし、笑いなんてわいてこないし、でもさっさと違う話題を振ろうにも、任務は遂行できてないし・・・。
「なーんだ、違うの」
「ち、ち、ちが・・・」
いや、お前が、欲しいなら・・・。
・・・な、ない。ないよそれは!
「あのね、俺、オレンジピールの入ったやつが好き。ちょっと苦いやつ。それから、すっごい柔らかい生チョコとかも」
「・・・あっそう」
あ、任務完了。
え、っていうか、それ僕に言ってる?まさかね。
「お、お前さ、いつもどれくらいもらってたわけ?」
ついそんなこと訊いてしまう。聞きたくなんかないけど!
「ええ?別に、そんな」
「紙袋いっぱいとか?」
「んなわけないじゃん。せいぜい、十個くらいだよ」
・・・。
「・・・じゅっこって、一個二個・・・の十個?」
「十ダース、じゃないよ」
「あっそう」
「別に、最近ないよ。中学とか高校の話だよ」
「・・・あっそう」
そうですか。・・・左様でございますか。僕が人生でもらった数より多いかもね。それ全部本命なわけ?はん、住む世界が違うってこと?
「それ、全部食べるわけ?」
「いや、・・・姉貴がさ、選別して、高そうなのから持ってった」
「・・・お姉さんが?」
「あの人、チョコ中毒」
「お前は、残り物?」
「そう。・・・ま、別に、何でもいいんだけど」
「・・・お前なんかきらいだ」
「・・・、え、やだよ俺、そんなんで嫌われんの」
「やだよ、じゃないよ!そんなん、じゃないよ!・・・ったく。あーあ、もう」
「だって、くれるんだからしょうがないじゃん」
「ああそうだね。そうですね」
「俺、お前に嫌われてんの?」
「・・・い、いいよもう。はあ、そういうのがお前だよ」
「・・・」
「・・・わ、悪かったよ。訂正します。嫌いじゃないです」
「ならいいけど」
な、何なのもう。その子犬みたいの、やめてよ、それ弱いんだから。やばい、嫌いどころか、好きすぎるって。
桜上水で、じゃあねと手を振って黒井が降りる。あ、もうお別れだ。あんなにどきどきして、散々躊躇しながら声かけたのに、別れるときはあっという間。それに、最初は緊張してたくせに、話し始めたら、もっともっと話していたくなる。こんなことなら、もっと早く仕事切り上げるんだった。
・・・。
一日のうちの、たったの二十分。
どうでもいい話でいい。お互いの、踏み込んだ話じゃなくても、もう、天気の話でも、菅野の話だっていい。
一緒にいたいよ!
景色を眺めて、思わず拳を握る。一緒にいたい、ただそれだけだ。どうして同じ会社の隣の課なのに、たったの二十分なの?
ふと思い出して、携帯を取り出す。そうだ、メールで知らせるまでは任務完了してない。鞄の中に落ちたふせんを探しまくって、ぐちゃぐちゃになったそれをようやく打ち込む。
<菅野さん。遅くに失礼します、山根です。
例の件、きけたので。
オレンジの苦いのか、すごく柔らかい生チョコ、とのことでした。
ご健闘をお祈りします>
はあ。あまのじゃく。
帰宅前、歩いているときに返信。
<山根さん、ありがとうございます!!
助かります、っていうか本当、恩人です(>▽<)!
あたし、生チョコ前にも作ってうまくいったことあるので、ちょっと自信あるかも♪
いろいろ、山根さんのおかげですm(_ _)m
ではでは、また明後日! ももこ>
・・・。
何か、カラフルだな・・・。
何だか、この女の子に黒井が取られてしまう、という感慨はあまりなかった。
帰宅して、しんとした部屋で明日が休みとなれば何となくみんな他人事で、着替えてカレーをチンして食べた。
その後は、またCDを聴きながら、布団の中で本を読んだ。さっぱり分からないけど、また<ハイゼンベルグの不確定性原理>が出てくる。あの人、もしかしてアインシュタインの次くらいに偉い人?まあ、不確定何とかの意味は分からないんだけど。
だんだん眠くなりながら、<ブラックホールの地平線で時間が静止する>というところで本を置いた。
ブラックホールの、地平線で、時間が、静止する?
何だか暗くて、世界の究極の終末みたい。寒いから布団にもぐって、暗闇で目を開けてみる。地獄の拷問を受けたあとは、そんなところに送られたらいい。何だか素敵だ。そんなところに行けるんなら、この世界も捨てたもんじゃない。・・・それ、この世にあるんだよね?え、すごくない?あの世じゃなくて、この世にある・・・<場所>なの?
今度から、あの世とか地獄とかのイメージじゃなくて、こっちにしようか。
その方が余程素晴らしい。
ファンタジーでもSFでもなくて、本当にそんな場所がどこかにあるなんて。
暗闇で目を閉じて、そのことを思った。宇宙の彼方の、ずっとずっと先の、更に先。そこに今もそれはあって・・・あ、違うのか。<今>ってのが、ないのか。今がない?じゃあ、いつ?・・・それが、静止してるってこと?よくわかんない・・・。
時間の謎は明日解くことにして、もぐったまま寝ることにした。
孤独な山猫はブラックホールの夢を見るか・・・?
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