第285話:・・・トにたどり着いた夜
そうして宣言通りに飲み物を、飲んで。
いったい何の試練なんだろう。
「だから、今日の、その・・・」
とりあえず言い始めるけど、永遠に言える気がしない。どうしよう。
黒井は僕を少し遠くから眺めるようにやっぱり向こうへ離れていって・・・ああ、うん、本当にどっちか選ぶなら、羞恥心よりも、お前を取られたくない気持ちの方がが勝るはず、だ。
僕はテーブルに所在なさげに置かれたその左手の上に自分の右手を重ね、顔を寄せた。それで、次の瞬間ちゃんと寄ってきてくれて、少し酔いも回って、言った。
「お前とのデート、俺も、楽しかった」
でも言った次の瞬間もうだめで、その手を強く握って、もう顔が上げられない。きっと周りから変な目で見られている。今すぐ避難できる場所もない。クロ、もう、味方はお前しかいない。
そしてふいに握っていた手が逃げていき、もう目の前が真っ暗になった瞬間、左肩に手が置かれて心臓が飛び出すほど驚いた。てっきり退店させられるのかと思ったがそれはクロの手で、抱き寄せられてくっつくほど顔が近づき、「俺もだよ」と聞こえた。あとはちょっと何だか分からなくなって、そのまま寄りかかって、「本当に、大変だったんだ・・・」と心の声が漏れたら、あとはみんな漏れてしまった。
「ほんとうに、おれ、大変だったんだ」
「・・・うん」
「ぜんぜん、わかんなくて、どうしたらいいか」
「・・・うん」
「どこ行けばいいかなんて知らないし、お前がどうしたいかとか、本当は、もっと訊けばよかったけど、なんか、できなくて・・・」
「・・・うん」
黒井の「うん」はだんだんと泣き笑いみたいになってきて、肩に置かれた手は頭に上がって、僕の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「だってしょうがないだろ、そんなこと、言われたって、俺に何を期待してるんだよ。できるわけ、ないだろ」
「・・・だってさそれ、その言葉。メールして、一時間後くらいにそうやって、電話来るって思ったんだもん。まさか何時間も経って、<日曜日に>なんて、俺だってしょうがないじゃん、思わなかったんだから」
「・・・もっと、俺を、知っとけよ。言われたら、指定されたら、やる男だ」
「くくっ、何だよそれ。出来るんだか、出来ないんだか」
「うるさい。でもそうだ」
「わかったよ」
もう一度髪を撫でられて、甘い時間が数秒。そして手は肩に戻り、背中を少しさすり、やがて離れていった。触れられていたところがすうっと冷えていくようで、いやだ、もっと触れていたい、甘いことがしたいと思った。それならこの男を連れて、きっと上野にはホテルだってあるはずで、これから行ってしまいたくもなるけど・・・そこまでは無理だった。
「ねこ、ちょっと、俺トイレ」
黒井が離れていくのが嫌で「じゃあ俺も」と立とうとしたけど、「は、恥ずかしいから来ないで」と言われてしまった。一人カウンターに残されて、まったく恥ずかしくて、ファジーネーブルを飲み干し再びハイボールを注文した。
・・・・・・・・・・・・・・・
「お前とのデート」などと発音してしまった恥ずかしさをまぎらわすため酒を飲み、しかし残っている理性はずる賢くも、そうして酔っていた方が黒井を独り占めしやすく、再び甘い時間が訪れるんじゃないかとささやいて、その提案を退けられなかった。
「ねこ、そろそろ出よう。お前飲みすぎ」
「そんなことない。もっと酔える」
「おい、これ言うと萎えるけど、お前は起きるだろ?・・・『明日会社だよ』」
「・・・ぐっ」
うう、さっきは「俺のこと知っとけ」なんて言ったけど、よく知ってるな。
確かに明日の会社のことを考えると、もう会社なんて滅べばいいと思いつつ頭が覚醒してくるけど・・・今日はまだデート中だ。・・・で、デート中!
「分かった。もう飲まない。もう出る。・・・でも、ちょっと一人でちゃんと歩けるか、分からない」
いや、本当に歩けないやつはきっとこんなこと言わない。むしろ「歩ける、大丈夫」って言う。
「うん、倒れたら起こすから、頑張ってよ」
「・・・た、倒れるまでは一人か?」
結局会計も頼んでしまって、店を出て、夜の上野の街。メイド服姿の女の子が二人連れ立って歩いていて、黒井が目で追い、「ああいうのいいな」と言った。
「ちょ、ちょっとクロ、俺酔ってるんだからさ、変なこと言うなよ。お前、メ、メイドが好きなの?」
「えっ、好きっていうか・・・何かさ、別の世界の住人みたいでいいよね。コスプレっていうの?あんなミニスカート、中が見えそうでいい」
「はあっ?ミニスカートの、中!?」
ジャガーとワニと、ミニスカメイドにも負けるのか?いや、そりゃ負けるか・・・?
「いや、ミニスカートはたとえっていうか、その、感じだよ。微妙に見えない、その中身を、見せびらかしながら、風切って歩くのがいいってこと。・・・ま、実際やると見えるんだけどね」
「・・・実際?」
「・・・ああ、俺文化祭で着たことあるからさ。あれなかなか丸見えだよ、恥ずかしいくらい」
「く、クロ、文化祭で・・・何を着たって?」
「だから、制服?女装?」
「じょ・・・」
もうだめだ。ついに僕はしゃがんで、頭を抱えた。黒井のじょ・・・女子生徒の制服姿なんか負けるしかない、っていうか勝ち負けじゃなくて、そもそもそんなものは許容範囲を超えている。いろいろな意味で。
「あの、それ、いつの話・・・」
「えっと、確か中三」
中三といえば十五歳、それなら今のクロの半分の年、・・・わ、若気の至りだ。許そうじゃないか。
「わかった、結局のところお前はスカートが好きなんだな。それはいいよ、構わないから、起こしてくれ」
「えっ、なに、見たい?」
「ひあっ、みみ、見たくてたまるか!」
ほら起きてよ、と控えめに腕を取られ、でも全然力は入ってなくて、身を任せたいのによろけてしまう。何だよ、もうくだを巻いてべたべたとしがみつきたいのに、支えてくれる気はないのか。そんなチャンスじゃなかったのか。
「ちゃんと、歩いて、駅あっち」
「う、うう・・・地下鉄?」
「あ、あのさ俺・・・お、・・・お前のなら、見たい、かも」
「はあ?・・・却下」
「こ、今度、・・・履いて」
「却下」
「ゆ、浴衣と似たようなもんだよ」
「却下。その前に、階段下りれないから支えて」
「いや俺も無理だよ。・・・だって、なんかくっつくと、俺、力抜けちゃって、さわれない」
「な、なんで。・・・さっき、めまいの時は、支えてくれただろ」
「そうなんだけど・・・でも今のお前は何か、こう、どうにでも出来ちゃいそうで」
「・・・」
僕は仕方なく、普段は触りたくない銀の手すりにつかまって色々とへなへなしながら階段を下り、何とか大江戸線のホームまでたどり着いた。数駅で乗り換えて、空いている都営新宿線へ。直通で京王線に通じているから、ああ、JRで新宿経由より遠回りだが、長く座れて楽だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
車両の端っこの座席に陣取り、黒井が奥に座る。「ねこ、気分、平気?」「うん」のあとはただ無言。お互い、歩き回って疲れたのもあるし、酒を飲んだのもある・・・けど。
さっきの焼き鳥屋のカウンターの椅子とは違って、電車の座席では、肩と、腕と、太ももが、触れ合っていて。あの帰りの飛行機と同じく、右側に黒井がいて、でも二人の間に肘掛けはなくて。
こっそりと数えたら、各駅だから桜上水まで十数駅もある。
しばらくはただ暗闇の車窓を黙って見ていたけど、だんだんと、まぶたが閉じて。
またもやずる賢い理性が、このまま、肩にもたれて寝てしまえば、なんて言った。
いや、もちろん、本当に眠りこけてそうだったなら、仕方がないけど。
でも、寝た振りでこっそり、なんて、卑怯だ。
そうだろ?
・・・でも、それなら、ちゃんと許可を取ればいいだろうか。
・・・うん、許可を取るなら、問題はあるまい。
「・・・クロ」
「うん?」
ちょうど駅に着いて、ドアが開いた。人が僕の左隣に座ってきそうになり、そうしたら、何も言えなくなりそうだった。
でも結局座らなくて、ドアが閉じる。しばらく静かになり、電車が動いて、また走行音が響く。
「・・・ねえ、クロ、肩貸して。少しだけ」
なるべく小声で言おうとして、思ったより耳元で囁いてしまったのか、黒井は一瞬身を縮めて、「・・・ん」とかろうじて肯定の声を出した。
許可は、取った。だから、寝ていい。
僕は少し浅めに座り直し、その流れのまま、黒井の骨ばった肩へともたれかかった。すると黒井もほんの少し位置をずらして、僕が寝やすい場所へと導いた。
そうしてしばらくして、ああ、僕はデートスポットを回ったあとの、双方合意の上で行われるイチャイチャ的行為までたどり着いている、と思ってぞっとした。
次の、土曜日。
一週間、いや五日間、待てるだろうか。
デートの虜になんかなった僕は、それまでちゃんと生きていけるんだろうか。
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