35章:交際の秋、銭湯の秋
(自分の身体に興味がない僕と、中学以前の話)
第286話:デートの後遺症
デート翌日、月曜日。
朝から西沢とも横田ともごく普通に挨拶を交わして、ジュラルミンを受け取ったりキャビネ前の四人で話したり、全ては通常どおりだった。
黒井も、工程表にハンコを押したり島津さんと契約の話をしたり、特に変わったところはない。ごく普通に午前中が過ぎ、外回りに出た。
なるべく早く見積もりの話を片付けて、手近なカフェで軽食とコーヒー。食欲はなくて、昨日の酒のせいか頭痛が少し。
・・・そして、めまい。
黒井のことを考えるたびに、なぜだか、頭がぐらりと揺れるようなそれに襲われた。
しばらく、ただ昨日のデートでいろいろ、心も身体も緊張や興奮が冷めやらないんだろうと思った。何度もいろいろなものがこみ上げ、腹が疼いたり、胸が熱くなったり、もうやりたくて仕方なかったり、ただあたたかくて愛しい気持ちになったりした。
しかしめまいは夕方も、帰社してからも続き、これは本当に風邪でも引いたかなと、残業を早めに切り上げて帰ることにした。黒井は離席していて、何となく逃げるように帰った。
帰宅して圧力鍋で圧力を用いることなくおかゆを作り、黒井のお母さんがそうしていたように、梅干しと卵で食べた。今日も気温は低く、風呂はやめて寝た方がいいだろう。
・・・。
・・・動物園で、黒井に抱きついた時の感触だとか、西新宿で舌を入れる手前までキスしたことだとか、そういうものが次々訪れて、そして、それらは<その次>を求めて体の中で暴れていた。二度も、三度も出してやってもまだ欲求不満はおさまらず、やや、途方に暮れた。
そりゃもちろん、告白があってデートがあって、やっぱり<次のステップ>を、求めてしまうのは当然だと思う。いや、っていうか本当はそのずっとずっとずっと前から僕は告白もデートもなしにそれを求めてきたわけだけど、うん、それを今改めて求めてしまうことに何ら問題はない気もするけど、・・・どうにも、この状態の行く当てがなかった。
それは、ただ実際、どこでどうやって、いつするのか、ということじゃなくて。
たぶん、棚上げにしてきた、<命題>の話なんだと思う。
僕は今何のために何をしたくて、どんなマップの上の、どの位置に立っているのか。
結局僕は黒井の告白について、やはり持て余しすぎて未だに向き合えていないし、黒井に<デートしたい>と言われて何とかこなしたけど、何だか、興奮冷めやらぬという状態から、燃え尽きたという感覚に移行しつつある気もする。
きっと色々なことが起こりすぎて、その上僕がそれを理屈できっちり分類・整理していないから、消化不良を起こして身体にも不調を来しているんだろう。たとえばノートを開いてふせんを貼ればめまいだっておさまるかもしれないのに、しかし、それを今する気は起きなかった。
火曜と水曜もそれは続き、デートの後遺症とでもいうのか、気分の乱高下が激しく、世界は何度も揺れた。
それでも頑なにそのまま見て見ぬ振りをしたのは、きっと、理屈で割り切って、その正しさだけに納得して盲目的にその道を進む僕に戻ってしまうのが、嫌だったからだ。
自分も一緒に滝に飛び込むかのように、あの車の中で、本気で向き合ってくれた黒井に、悪い気がして。
しかし、何となく、浮いてきた懸念もあった。
このままではまたあの三月のように、何かを失ってしまうんじゃないか。
黒犬を取り戻して、おまけに告白なんかされて、本来なら今頃は万々歳でバージンロードを歩いているはずなのに・・・でも、不安が拭えない。
ノートと、ふせんが、必要だ。
でも、自分では、出来ない。
そうして浮かんだのは、藤井だった。デートスポットの相談なんかできないけど、本気の悩みなら聞いてくれると思った。僕は、それを送ってもいいのかの検証作業もやっぱりろくにしないまま、今の勢いでなければ無理だろうと、携帯を打った。
<お久しぶりです、元気にしていますか。突然すみません。できれば時間を取って聞いてほしいことがありメールしました。楽しい世間話というわけでもないので、断ってもらって構いません>
一度しか読み返さず送信ボタンを押した。水曜の夜、ノー残で忙しい時期でもないから、彼女が今も僕のイメージする藤井なのであれば、返事が来ると思った。そうでないのなら、来ないと思った。
そして、十分後。
<ご無沙汰しています。ちょっと突然で驚きました。そして、こういうことは早い方がいいと思われますが、きっと電話ではない方がいいのでしょうね。私はもう家に着いてしまいました。本当は今から落ちあいたいところですが、きっと山根さんは一人暮らしでしょうから、都内ですよね。私は横浜に居りますので、ここは心を鬼にして、土曜日に話しませんか?会社帰りに小一時間というものでもないはずです。もしそれまで待って頂けるならですが。>
どうもありがとうと、それだけ返した。
藤井の気遣いが嬉しかったし、たぶんこういう返信を期待していたはずなのだが、いざもらってしまえば、自分にそんな価値があるんだろうかと首をすくめたくなる気持ちだった。
それでもここは彼女に甘えることにして、今更<やっぱりいいです!>なんて送る方が迷惑だと言い聞かせ、土曜まで心を鬼にすることにした。それまでにすべてが奇跡的にどうにかなっていれば、その時はキャンセルするか、ただご飯でもご馳走して終わればいいのだし、とにかく土曜までだ。
時間的な期限という武器だかお守りだかを一つ手に入れ、それで何とか頑張ろうと思えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
木曜日。
朝からめまいはおさまらず、黒井のことを考えて動悸とともに冷や汗が出ても、金曜まで乗り切るんだという臨戦態勢で早めに出社した。スケジュール調整をしていると少し硬めの「おはようさん」。それで僕は「西沢さん」と声をかけ、改めて先日の礼を言った。
西沢は何だかしおらしく「ああ、いや、ええのよ、色々」と大げさに手を振った。別に、よそよそしいとか棘のある感じではなかったが、やはり少し腫れ物に触るような雰囲気。
僕はとりあえず礼は言ったとばかりにPCに向かったが、何となく視線を感じ「何かあります?」と訊いた。
「あ、いや・・・ついな。そういう目で見てしもて」
「・・・え?」
「・・・山根君、そういう、何ちゅうか、恋愛だの何だの、完全に興味ない人なんやと思てたから。・・・ちゃんと、あったんやね」
僕は言われた意味を噛み砕くべく少し宙を見て眉根を寄せて、しばし首をひねって、PCに目を戻すけど文字が全然読めなかった。それで画面に近づいたら「眼鏡、机の上」と指摘され、大人しくそれをかけて今度はのけぞった。
だいぶ後になって、いやいや、僕はあなたが支社に来たその日だって千葉に行った黒井が恋しくて、それからだってずっと片想いの日々を過ごしてきたじゃないですかと思った。恋愛オーラだとか言っていたが、むしろそれを半径二メートルで常に浴びてきたのは西沢なのに、本当に僕はそんなものを隠し通せてきていたのだろうか。
それとも、片想いじゃ、なくなったから?
・・・え、今は片想いじゃない?
しかしその先を考えようとするとやっぱり平衡感覚がずれて、うん、一体何が三半規管と直結してるんだろう。
僕は<告白>のほか<片想い>にも立ち入り禁止の看板を立てて、仕事に戻った。
・・・・・・・・・・・・・・
金曜日の夕方、<まだお気持ちが変わっていなければ>と、翌朝10時の待ち合わせメールが来た。黒井からまた何かの連絡があったらどうしようと思ったが、携帯は無音のまま土曜になり、僕は指定の駅に向かった。
一度、黒井と一緒に乗って、朝から<ATOM>を読んだ田園都市線。あの時は地下鉄の三軒茶屋から多摩川を越えたが、今回は逆に神奈川方面からで、僕のうちからだとやけに行きにくかった。たぶんここは横浜市であり、彼女の実家ということだろう。きっとここから渋谷まで出て新宿に通っているということか。
・・・まさか実家に呼ばれているんじゃないよな。
やたらとでかくて近代的な駅で、ヨコハマなんかに足を踏み入れたことのない僕はうろうろと迷ったが、「ヤマネさん!」とどこかで声がし、藤井が改札の向こうからぶんぶんと手を振っていた。
「何だか久しぶりですね。同じ社内に通っているはずなのに」
藤井は細身の長袖Tシャツにジーパンで、少し伸びた髪を横で結んでいた。広い駅構内はショッピングモールというかもはやレジャー施設のようになっていて、朝から親子連れやカップルで賑わっていた。
「あの、ここ、ご実家ってこと?」
「ええそうです。こっちに呼びつけてしまってすみません。本当は私が伺いたかったですが、山根さんのご自宅に二人きりも、ためらわれるかも、しれませんし」
そう言って、新しくて流行りの店というやつだらけの中を進み、駅を出て通りを越えると再び大きな建物。TOKYUとあり、ああ、東急田園都市線だからか。
きょろきょろしていると藤井が少し笑って、「なじみがないですか?」と。
「ああ、うん。横浜って来たことなくて」
「横浜・・・といってもここはハマではありませんけどね」
「ハマではない?」
「中華街とか、みなとみらいとかそういう本場のハマっぽさはないです。ここはどちらかといえば、渋谷の、田園都市支部みたいな開拓のされっぷりです」
いつもながらよく分からないたとえをして、建物の横道をするりと入り、藤井は「この世の果てにお連れします」と言った。そこは地下のフードコートのような空間の端っこで、奥まった仕切りの向こうにぽつんとテーブルがあり、後ろの窓からは緑が見えた。
「ここは静かで誰も来なくて、店員からも忘れられたような場所です。私は<この世の果て>と呼んでまして、たまに来ます。『ああ、<この世の果て>行くか』って」
座っていてくださいと言われ、向かい合いのテーブルセットの椅子に座った。
もはやここは藤井の世界で、僕は自分が何のために何をしに来たのか、ちょっとよく分からなくなった。いや、そもそも明確な目的があったわけでもないし、別にもう、これでいいのだろう。ここには僕と藤井がいて、せめて藤井が気分を害さなければ、マイナスな事態にはならず世界は平穏な連休のままのはずだ。
そして藤井がトレーに飲み物を二つ載せて戻り、僕はお金を払おうとしたけど「お腹が空いたら食べ物を奢ってください」と。とりあえず渡されたアイスカフェオレを飲み、僕は向かいの藤井を見た。見覚えはある、化粧っ気のない地味な黒髪少女。ニコニコとはにかむでもなく、緊張するでもなく、ほんの少し微笑んで、僕の喉元あたりを見ている。
そして僕が黙っていると、藤井はすっと僕の目を見て、「黒井さんのことでしょうか」と、言った。
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