第287話:この世の果ての失恋話
ふいに飛び出した「黒井さん」という単語は、何だかふわふわとしていた。
しばらくして僕の口から出てきた言葉は、「やっぱり、ごめん、帰る」だった。
勢いで立ち上がったけれど、藤井は「えっ」とも「どうしたんですか」とも言わず、自分の飲み物に口をつけている。
「あの、わざわざ来てもらって本当に、申し訳ないんだけど」
「・・・」
「やっぱり何も、話せる気がしなくて」
「・・・」
うんともすんとも言われず、このまま立ち去るわけにもいかなくて突っ立っていると、ようやく藤井は顔を上げて「一回だけ座ってもらえます?」と言った。「今、一回座っても、何も起こりませんので」と。
仕方なく黙って座ると、「まあいいじゃないですか、ここは<この世の果て>ですし、別に、みんな戯言ですよ」と藤井は笑った。
「いや、・・・でも」
「じゃあ私の話をします。山根さんはそれを聞いて、私にお昼を奢って帰る。もし話したくなったら、何かを話す。それでいいでしょう?」
そして結局僕は椅子に座り直し、曖昧にうなずいて、カフェオレを飲んだ。藤井はもう一度「戯言ですから」と自嘲気味につぶやいた。
・・・・・・・・・・・・・・・
「学生時代の話です。私、クラスメイトに恋をしたんです。女子校の話です」と、その話は始まった。先日、黒井との飲み会でも学生時代の話をしたので、まるでその続きみたいだった。
「ある日突然その子が好きだってことに気がついて、私は毎日毎日その子のことを考えてました。一緒に帰ったり、寄り道をしてアイスを食べたり、土手で川に石を投げてバカヤローって叫んだり、その時にちょっと抱き合ったりして、それはもう、本当に時が止まればいいのにと思って泣きそうになりました」
「・・・」
「土手から手を繋いで駅まで戻って、もちろんそれは戯れだって、分かってはいたんですけど」
「・・・」
「・・・それ以上、何もできないし、何もないのも、分かっていたんですけど」
「・・・」
「その後、他のクラスメイトが、別のクラスの子と、付き合ってるっていう噂がありました。そして私、その子に、見事に気づかれてしまったんですよね。『ねえ、誰々のこと好きでしょう、見れば分かるよ』って。それで私は全部打ち明けてしまって、彼女と仲良くなりました。誰にも言えない恋の話を、夜中の電話で、こっそりと。その子はもう身体の関係まで進んでいて、でも私の方は、告白しようとは思わなかったし、一緒に帰って寄り道できたら幸せだった」
そして藤井は窓の方を見遣って少し遠い目をし、僕は静かに「・・・それで」と促した。
「いろいろと、土手じゃない思い出も出来ましたが・・・結局彼女はだんだんと学校に来なくなってしまって、そしてどうやら、同じく休み気味の子と一緒に、サボってどこかへ行っていたみたいなんですよね。二人とも何だか家庭に問題があって、そういう繋がりだったみたいです。でも、その私の好きな子は、私には、何も話してくれなかった。家族の話題が出た時も、訊くと、絶対逸らされる。まるでバリアがあるみたいに。だから、何も知らなかったんです。彼女がピアノを辞めた理由も、弟を溺愛してた理由も、自分で夕飯を作ってた理由も」
それは今も知りません、と藤井は目を伏せた。なんにも知らないんです、と。
「私は、話す相手じゃ、なかったんですよね。本当に楽しく冗談を言い合って、ガリガリ君なんか半分こして、腕を組んだり膝の上に座ったり、身体は多少触れ合ったけど・・・心は全く許されてなかった」
「・・・」
「それで私は、その、相談に乗ってくれてた子と、・・・キスをしました。彼女は私を慰めてくれて、自分のことを、好きな子だと思ってくれていいからって、それで私は、好きな子の名前を呼びながら、目をつぶって、泣きながら、キスしたんです」
「・・・」
「・・・それで、私の初恋と私のファーストキスは終わりました。そういう、苦い想い出があります」
「・・・」
「山根さん」
「・・・はい」
「今の話を聞いて、どうですか?気色が悪くて、引きますか?」
「・・・え、いや、そんな」
「先日、会社の人に話したら、すごく、引かれてしまったようです。やっぱり飲み会になんか出るものじゃないですね。あれから何だか変な目で見られます」
「・・・それは」
「誰かが失恋の話をして、それで私も話してみたんです。私の中で失恋はあれだけ。だって今は、最初から、もう、分かっている人とだけお付き合いします。お別れはあるけど失恋はしない。・・・あ、その」
「・・・え?」
「山根さんに好きですって言ったのも、あの、ご本人を前にしてあれなんですが、・・・どうしてほしいとか、どうなりたいとか、期待はないんです。だから、振られようのない告白」
「・・・ああ」
「でもそう言われてみれば、私、本気の告白なんてしたことないんですね。・・・あれ、これじゃみんなのこと馬鹿にできないか。女同士ってとこじゃなく、私のは失恋話ですらないっていう、そういうドン引きだったのかな」
なら仕方ない、と藤井は笑った。
「それでも、あの時・・・あの土手で告白していればなんて、思わないです。でも、・・・あの、一緒に帰ろうって言って、楽しくて、明日も一緒に帰りたいと思って・・・でも仲良しの他の子もよく一緒だったので、二人だけで帰りたい、どうやったら二人で帰れるかなって一生懸命考えてる自分がいて、・・・でも何でだろうって、それで、あ・・・これって好きなんだって、びっくりしたあの瞬間の感情は・・・あれほどの驚きは、人生で他にないです」
藤井はそれで、しばらく、ゆっくり呼吸をして、息を整えた。
何分くらいそうしていたんだろうか。
それからぽつりと言った。
「山根さんには、関係ない話、すみません。・・・何か、食べましょうか」
僕は、「ああ、うん」と言って立ち上がって、一緒にフードコートに向かい、震える手で財布を出して、千円札を彼女に渡し、「ごめん、やっぱり俺、・・・行くところがあって」と頭を下げた。それは本当に、これでもかというくらい下げた。心臓が痛くて、藤井の顔を見られないまま、どこだか分からないデパートを通って駅に戻って、急行に飛び乗った。
・・・・・・・・・・・・・・・
動悸はおさまらないまま、相変わらず、理屈は仕事をしてくれなかった。
藤井には申し訳なくて、<その子はきっと、藤井さんとの時間が大切で、自分の家庭の話は持ち込みたくなかったんだと思います>とメールを打った。書いている内容も、自分でよく分かっていない。単なる綺麗事のような気もするし、・・・<その子>がぴったり僕に重なって、それで出てきた懺悔みたいな気もした。
すぐに<そんな風に考えたことはありませんでした。ありがとうございます>と返事が来て、ほっとする気持ちの後、さらに居心地の悪い震えが来て、身の置き場がなかった。藤井は「山根さんに関係ない話」と言ったけれど、何だかすべてが自分のことのような気がして、居ても立ってもいられなかった。
・・・黒井に、会わないと。
それしか思えなかった。
結局新宿回りでのんびりと桜上水に着いて、しかしその時間で頭が整理されたわけでもなく、身体はキリキリしたまま。めまいや動悸という域を越えて、もう身体中が痛かった。どうしてこんなことになっているんだろう。・・・うん、たぶんそれが分からないから、こうなってるんだな。分からないものを抱えているから痛くて、痛い理由が分からない。
そう思いながらも足は勝手にいつもの道を歩いて、マンションに着いた。いるかどうかなんて分からないけど、ここまで来たら行くしかない。何しに来たのかって?お前に会いに来たんだよ。
五階に上がって、部屋の前。
さっきからずっと動悸がしてるから、インターホンを押すので緊張しているのかどうかの区別がつかない。指の震えも、止まりはしない。
部屋の中に呼び鈴が響く音。
しばらくしーんとして、それからおもむろに、ドアが開いた。
一瞬、ここから誰が出てくるんだろうと思って、そうして視界に入ったのは、Tシャツに短パンで、呆けた顔をした黒井だった。
・・・・・・・・・・・・・・・
「え、やまねこ・・・あ、えっと、何で」
「ごめん、クロ」
僕は半分開けられたドアを自分で開けて強引に中に入り、そのまま黒井に抱きついた。
「本当にごめん、ごめん、今までごめん」
何を謝っているのか、自分でも分からない。とにかく黒井の身体はあたたかくて、肉体の厚みがあって、懐かしい部屋のにおいがした。
「ねこ、どしたんだよ・・・俺、そんな」
「うん、だからごめん・・・」
「・・・何だよ、俺、・・・寂しかった」
「・・・」
ごめん、と、もう声にはならなかった。
心臓がきりきりと痛い。
藤井の話が何だったのか、その一面が見えた気がした。
好きだという気持ちが尊いってことと、それは脆くて、ただそこにあってはくれないということ。
「・・・あの、ねこ」
「・・・うん」
「俺、そろそろ、まずいよ」
「・・・ごめん。何か、用事だった?」
抱きしめる力は緩めないまま訊いた。自分が誰かの用事を邪魔しているなんてあってはならないことだけど、身体が言うことを聞かない。何とか聞かせなきゃいけないのに、それでもなお一秒、一秒放置している自分が、すごくわがままで、欲望に素直で、<しょうがないやつ>だと思った。
「・・・すぐ、帰るから。本当に」
「いや、用事とかじゃ、ない」
「・・・え」
「用事とかじゃないって・・・」
黒井は肩で大きく息をして、僕の背中に置かれた手が、肩甲骨のあたりをぐいと強く掴んで、しかし腕に力が入ったまま、ゆっくり離れた。
「・・・まずいんだってば、こんな、とこで」
低く、震えた声。喉元も、腕も。
「・・・」
「俺、我慢できないって。こんなの無理。もう勃ってる」
「・・・」
「お前とやりたいって言ってるじゃん。最後までしちゃうじゃん。抑えようとしても、身体が、もう」
「・・・い、いいよ。してよ。抑えなくて、いい」
「したいけど、無理なんだよ!違うんだ、しちゃったら違う・・・」
黒井は僕をそのまま玄関のドアに押しつけて、というか叩きつけて、荒い息遣いの乱暴なキスは一瞬で終わり、その後はドアが開いて、僕は後ろに倒れて廊下に尻もちをついた。見上げた黒井は苦悶の表情で「お前、そこにいて!」と、ドアの開閉部に投げ出された僕の足を裸足で数度蹴り飛ばし、これでもかというほどバタンと音を立てて扉を閉じた。
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