第288話:秋の狼はプラトニック

 まるで、卑猥な目的で部屋を訪れた男が追い出されたような図になっており、僕はマンションの廊下でそそくさと立ち上がった。ズボンの埃を払い、別にそういうつもりじゃ・・・と思いつつ、いや、僕も「してよ」って言ったから同罪か、いやむしろ僕が悪いのかと赤面した。ドアの向こうでは「ううーーー」と唸り声がしている。

 そこにいて、と言われたから、ひとまず廊下で待つ。

 しかし、尻もちをついた衝撃で飛んでいたが、つい今、キスを、された・・・。

 っていうかそれより、したいと言われ、いいよと答えた・・・。

 これまでずっと、下ネタ混じりのおふざけと、感情がぶっ飛んだ性衝動と、友愛か性愛か分からない身体の触れ合いをしてきたけど、・・・好きだと言われ、お前としたいと言われている今は、もう、違うんだろうか。

 別に何でもいい、俺だってお前としたい。

 でもやっぱり、自分の身体が自分じゃないみたいで、この身体で何かしても、それは単なる性欲なだけになってしまうような気もした。

 ・・・そういえば。

 動悸が止まって、めまいもしない。手も震えず、落ち着いていた。

 黒井に会ったからか、抱きついて、キスをされたからか、あるいは追い出されたからか。

 少しするとドアが開いて、黒井は拗ねたような声で「外、行こう」と言った。



・・・・・・・・・・・・・・



 昼下がり、日差しが強くなり、暑かったが風はからっと乾いていた。

 ぶらぶらと歩いてやってきたのは、マンションの近所の東屋のある公園。以前僕が一度来てゲリラ豪雨にやられ、黒井が千葉から戻った時鍵がなくて野宿したと言っていたところ。

 並んで、しかし少し間隔をあけて、東屋のベンチに腰かける。目の前は塀で、公園の注意書きが貼ってあったが、眼鏡がなくて読めなかった。

 そしてしばらく無言で座り、僕は、さっきの藤井の話を思い出していた。

 二人だけで一緒に帰りたくて、寄り道をして、冗談を言い合って、アイスを食べて土手に座って。バカヤローと叫んで感情が高ぶったら、その勢いで、抱き合ってみたりして。

 友達同士に見える二人が、実は、一人だけ、片想い。

 藤井さん、それ、僕に関係ない話って、本当にそう思ってたのか?きっと、分かってて話したんじゃないか?

 だって最初に、「黒井さんの話でしょうか?」って訊いたわけで。

 黒井さんの、話・・・。

 僕が話したかったのはきっと、もう僕だけの片想いじゃない、そんなのどうすればいいか分からない、っていう「黒井さんの話」・・・。

「・・・何かさ、ちょっと、涼しいよね」

 黒井がぽつりと言った。見たことのある、ファスナーだらけのワークパンツから素足がスニーカーに突っ込まれている。僕はその足だけ見ながら、「うん、もう秋だね」と返した。

「俺さ、秋が、好きだよ。涼しいにおいがして、すっごいなんか、うわーってなる」

「・・・ふうん」

「ねえ、さっき・・・ごめんごめんってさ、何のことだった?」

「あ、いや、・・・特別な何か、謝る、具体的事案はない」

「・・・」

「ごめん。説明できないだけ」

 黒井は脱ぎかけでぶらぶらさせたスニーカーをそのまま前に放り、その足首をもう片方の膝に乗せた。

「別にいいけどさ。俺、秋のせいでさらに色々ひどいんだから・・・のこのこ来たりして、お前、狼の檻に入った羊」

「・・・な、何だよそれ」

「だってそうだもん」

「あ、秋のせいって?」

「・・・ああ、それは秋のせい」

 黒井がそう言うと、まるでタイミングを計ったように涼しい風が吹き抜けて、僕たちはそれとなく、風が吹いてきた方へ顔を上げた。


「秋ってすごく、こう・・・ならない?この風とか、においとか、すっと冷える感じとか。どうせもうすぐキンモクセイとかにおうじゃん?もっと夜の方が思うんだけどさ、昼でも、風が涼しいとううってなってだめ」

「うん、涼しいのは分かるけど、だめって何だよ」

 塀を見ながらの、秋の日陰の会話。背後で子どものはしゃぐ声はするけど、一度犬の散歩のミニチュアダックスが通ったほかは誰も来ず、ここはここで<この世の果て>みたいだった。

「だめってさ、なんかこう、胸がいっぱいになるようなだめ、だよ。まあ表現するなら、・・・小さい頃に生き別れになった娘がいて、自分が戦場から戻ったらもうレディになってて、そのドレス姿を見た、みたいな、そういう胸の詰まり方」

 僕は言われたせりふをそのままきちんとたどり、そのシチュエーションを思い浮かべた。そして「言ってる感じは、分かったと思う」ときちんと胸を詰まらせた。

「んでさ、そうするともう、誰かれ構わず抱きつきたくなるわけ。それで帰り道とか、歩いてて、だめで、・・・でもお前はいないし」

「・・・、いやちょっと、誰かれ構わずっていうのは、それは犯罪で」

 黒井はそれには答えず、「雨とか曇りは違うけど、晴れた日と夜空と、月がだめ」と言った。いや、だからだめって何なんだ、まったく、狼男の話なのか?

「だから昨日だってそんなんでさ、もう・・・お前んち行っちゃおうかなって俺、Uターンしかけたんだけど・・・でもそんなことしたらまあ、途中で止まれるわけはないし。・・・でも」

「・・・でも?」

「俺、お前としたいけど、でも、・・・最後までしちゃったら、何か、違うって、それは分かるんだ。それは違うし、・・・それはだめだって」

「・・・」

 風が、また吹いた。

 あの告白の後、そしてついさっきも「お前としたい」と言われ、それは頭の中でずっと保留箱に入れてきたけど、でも結局、・・・保留箱はそのまま丸ごと「僕とはやらない」の箱行きなんだろうか。

 ・・・「だめ」の意味がいろいろあるみたいだが、最後の「だめ」は、「お前とやりたくて胸が詰まってもうだめ」じゃなく「お前とはやっぱりできない」の「だめ」、みたい、だった。



・・・・・・・・・・・・・・・



「・・・えっとその、違うって思うなら、それは、そういうことなんじゃないか。もしかして、俺がこんな、急に勝手に来て、うん、悪かった、すまない・・・」

 よく分からない弁解と言い訳をして、拳は膝の上で握ったまま、どこかにあるはずの気持ちは上へ下へとボールみたいに跳ねていた。好きだという告白が取り消されたわけじゃないけど、やっぱり僕は性の対象ではない?うん、でもそこは別に、やらなくたって構わないじゃないか、俺だって土手で叫んで手を繋いだらそれで満足だ・・・。

「え、急に来たのは、いいよそんなの。でも、抱きついてくるから・・・」

「悪かった。悪かったよそれは、本当に」

「・・・ねこ?」

「申し訳なかった。お前がどういう風に思ってるか、考えも、しないで」

「・・・何、それ」

「抱きついて悪かった。俺がやりすぎた」

 また、心臓が速くなって、自分が全力で逃げようとしているのが分かった。勝手に踏み込みすぎたんだ、「お前とやりたい」なんて言葉ですっかり浮かれて、俺だけ勘違いしてたんだ・・・。

「ごめん、帰るよ」

 無意識に、立ち上がっていた。

 何だ、朝と、おんなじだ。

 <この世の果て>からの全力逃走。朝の「帰るよ」から、いったん座って藤井の話を聞いて「行くところがある」になったのに、ここへ来たらまた「帰るよ」。僕はどこにもお呼びでない?いや、僕が逃げているだけだけど。

「何だよ、話が噛み合ってないだろ?待てよねこ」

「うん、そうかもしれない。きっとそうなんだろう」

「じゃあ聞けって」

「・・・」

「聞いてよ」

「・・・」

 ・・・そうして、また、腰を下ろした。

 一体何なんだ?分からないけどきっと、また話を聞いたら、どうにかなるんだろうか。

 そうなったらいいなと思いつつ、空を見上げた。確かにそれは高くて、秋の空だった。



・・・・・・・・・・・・・・



「あのね、俺、お前のこと好きってなってから、ずっと、ずっと、したいんだよ。俺こんなにしたいのって本当にあの高校の時以来だけど・・・でも、あれとはやっぱり違うんだ。あれは身体だけの話だったけど、今は、そうじゃなくて、・・・何か、俺丸ごと全部の話」

「・・・」

「だけど、何かだんだん、・・・だんだんはっきり、見えて、きたんだよ。・・・最後までしちゃうと<違う>って、それが予知するみたいに分かる。・・・何か、小さい焚き火を、消しちゃうみたいな」

「・・・」

「何かひどいよね。・・・あの朝から、ここに何かあるって、今まで空っぽだった俺に何かあるって、それってどれだけ望んだことか知れないのに、・・・その<何か>の中には、お前とするのも含まれてるのに、・・・でも、しちゃったら、消える気がしてしょうがないんだ。それは一瞬の不安とかじゃなくて、毎回、俺、もう直前までいって・・・でもやっぱり違うとしか思えない。そんなこと言ったって、してみれば?って・・・思えない」

 浅いため息で、黒井は横を向いて背中を後ろにもたれた。

 なぜか、「告白していればなんて、思わないです」と言った藤井のせりふが重なった。楽しい日々が戻ることもなく終わってしまった、初恋の苦い思い出。話の内容は違うかもしれないが、しかし、まとっている空気は、似ている気がした。

 それでふいに、何かの衝動が、訪れて。

 僕は、理屈で分析はしないまま、できていないまま、言った。

「・・・その、俺にはわからないけど、お前が、せっかく何かがあるのに、消えちゃうって気がするんなら、それは・・・しない方がいい、と、俺も、思う」

「・・・うん」

「だから、お前のこと、その事情を汲まないで、抱きついたのは、やっぱり悪かった、んだけど・・・」

「・・・うん」

「その、だから、・・・でもそれで、そのために会わない、とか、あえ、ない、のは」

「・・・うん?」

「・・・それは、おれは、いやだ」

「・・・」


 思考を文章にして言うんじゃなく、<気持ち>を<言葉にする>のは、ほとんど未知の変換行為だった。

 どれくらいだろう、沈黙が、流れた。

 僕は自分がどんなことを言ったのか、評価も分析も出来ず、ただまぶしい青空と涼しい風と灰色の塀があった。

 そして黒井がふいに、裸足で、僕の目の前に立った。

 僕が見上げると、また、あの時みたいな顔をしていた。僕がブランコから見上げた顔。あの時はセミの声がして、今は、秋の風が吹く。

「やまねこ」

「・・・」

「俺と・・・」

「・・・」

「俺と、付き合ってください」

「・・・」

「その、身体の、関係は、なしで・・・プラトニックで、・・・でも、キス、まで。お前が、それで、よければ」

 ・・・。

 僕は、もう顔を背けて、立ち上がって、そうして立ちくらみとめまいを起こしながら、それでも何とか、黒井の方を向いて、「おねがいします」と言った。そういう発音ができた、と思う。

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