第289話:交際活動を開始
めまいがして、何も食べていないと言ったら、いつものファミマで黒井がおにぎりと烏龍茶を買ってくれた。別にいいのにと言うと、「あげたいから」と渡された。ビニール袋を提げて駅まで歩き、「それじゃまた」と僕は改札を通った。
どうして帰ることになったのか、よく分からない。
・・・というより、覚えていない。
付き合ってくださいと、言われたことだけ、覚えていた。
僕は告白をされて、交際を申し込まれて、黒井彰彦と付き合うことになったようだ。
電車で座って、ビニールの中を見ると、三角の梅干しおにぎりと、丸いわかめごはんのおにぎり。サントリーの烏龍茶は、その場で開けて飲んだ。冷たくて、苦くて、美味かった。
帰宅して、いろいろと家事をしてしまいたかったけど、何もできなかった。
おにぎりを食べていたら涙が出そうになり、寝た。
連休だからいいやと思って、何もせずに寝た。
・・・・・・・・・・・・・・
日曜日。
朝から電話が来て、もう連休が明けたのか、寝坊か遅刻かと焦ったが、黒井が僕の体調を心配して連絡してきたようだった。「一応さ、うちついたとか、メールとか、ほしいっていうか」と言われ、僕は自分が何かの義務を怠ったらしいことをとにかく謝った。
「すまない、もっときちんと言っといてくれれば、ちゃんとやったと思うんだけど」
「別に、謝んなくていいけどさ。なんつーか・・・ほんと、お前モテないよね」
「へっ?」
「あー・・・え、俺、こまめにメール欲しいとか言ってんの?・・・だめだ、俺もモテないや」
「・・・は?」
それから黒井は、自分がこれまで(つまり僕に・・・恋をするまで)どれだけクールに振る舞えていたかを語り、一方で、僕がどれだけ理屈っぽく杓子定規で、なおかつ肝心のところでは抜けているのかを語った。
その後は秋の夜の散歩と昨夜の夕飯の話で、気がつくと携帯の電池が切れる寸前だった。
充電しながらもう少し話は続き、あの文化祭の女装の話でようやく「それは、また今度ね」とひと息ついて、どちらからともなく「それじゃね」「またね」と電話を切った。
・・・ずっと我慢していたトイレに行って、もう昼過ぎ。
二時間半も、電話をしていたらしい。
・・・話し始めが寝ぼけていたのでそのまま喋っていたが、切ってから猛烈に恥ずかしくなってきて、急いで着替えて買い物に出かけ、スーパーで長ネギとゴボウとお徳用の三個パックの豆腐と、他にもなるべく地味で庶民的でキラキラしていない食材を買い漁った。
いやいや、<付き合っている人>と日曜の朝から電話で長話とか、何かの法律に反しているんじゃないだろうか。
帰り道、ビニールから飛び出して足をつつく長ネギとゴボウをいなしながら、巡回中の二人組の警官とすれ違い、もはや逮捕されるかと思った。単なる買い物なんです、一週間分の作り置きなんですと心で必死に訴え、それから作り置きの献立を考え始め、圧力鍋から黒井のお母さんが浮かび、「たまには食べさせてあげてね」の手紙が思い出され、うちに呼びたいけど呼んだら狼に襲われてジ・エンドなのでと妄想が続いた。車が一台も通らない赤信号を律儀に待ちながら、それならやはり弁当を作るしかないかとスーパーの二階の雑貨売り場が浮かび、いやいや、そんなことしたら本当に逮捕勾留じゃ済まないと首を振る。
・・・僕が、誰かと、付き合うなんて。
しかもその相手が、あの、殺してしまうほど片想いしていた黒井彰彦なんて。
たぶん昨日までいろいろなことにキリキリして、藤井を呼び出すところまで追いつめられていたというのに、今は弁当箱はヒラか二段かと考えている僕は、やっぱり罪深い気がした。
・・・僕は、黒井と、付き合っている。
つ、・・・付き合っている!
状況としては今までと何の変わりもないのだが、結局、概念上で<交際関係にある>と確定したことによって僕の中の理屈がどこかに着地したらしく、汗ばむ日差しの中を空腹でスーパーまで走ってもめまいも貧血も起こさなかった。現金なことだなあと思いつつ、帰宅して、さっきまで繋がって話していた携帯をしばし眺め、作り置きのきんぴらに着手した。
・・・・・・・・・・・・・・
月曜日、祝日。
もはや自分が頭上に、交通事故の時の三角の赤色灯のような<交際中>という標識をくっつけて歩いているような気になって、ごみを出しに行きたいのに部屋から出られなかった。
どうしよう、こんなことでは明日会社に行ける気がしない。
一人なら行けるが、あいつも同じ会社なのだ。・・・そんなのってやっぱり犯罪じゃないだろうか。
ため息しか出ず、せっかく食材を買い込んだのに食欲もなく、めまいはしないが胃がしくしくと痛んだ。
交際のことが気になって、何も手に着かない。
そう言いつつも今日、何かの交際活動をしているわけでもないけど・・・。
きっとこうなるから、恋愛なんか無理だと思ったのに違いない。部屋の中でもずっと挙動不審で、交際の神様を祀っている神棚でもあるかのように、天井近くをじっと見つめては目が据わった。よく猫が何もないところを見つめているというが、もしかしてこういう感じなのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・
九月十六日、火曜日。
神棚を見つめる目はもはや無心の域に達し、ごみを出してからゆっくり歩いて出勤して、連休明けで忘れていた仕事の内容を確認した。
そして、行程表の同じ枠にシヤチハタを押しながら、僕も黒井も、一言も発しなかった。もし黒井の頭にも<交際中>の標識があったのならば、きっと標識同士で互いを認識したことだろう。黒井が何を考えているのかは分からなかったが、何一つ気にならなかった。気にする必要がなかった。なぜなら、今やあいつは僕の交際相手だからだ。
「・・・っ」
思わず乾いた笑いが漏れそうになり、咳でごまかして何とか耐えた。
午後。
四課のミーティングで、来る下期から本格的に配属される新人たちの、営業同行先の検討が始まった。新人一人につき最低でも一回は入れなくてはならないし、いけそうなら、お使い程度の案件は振っていきたいとのこと。僕は何とか頭を切り替えて新人を連れて外回りに出ることを想像し、うん、やっぱり商談を横で見られるのは嫌だがそれ以上に、電車の中や駅から歩くときに何か話さなきゃいけないのが苦痛だ。
そして僕だけはそれに加え、例の、営業が営業事務もやっていこうという、あのひと悶着あったマニュアルの説明もするという話だった。正直言って、あれはあくまで体裁のためだけに作ったものであり、本当に新人に教えるとは思っていなかった。
しかし、別にそれをするのは構わないけど、実際に説明をするとなると日程や場所を決めたり、最初のうちはどこまでやらせるか考えたり、検討することはいろいろありそうだ。全部僕の仕切りならそれはそれで、すべて合理的に決めるだけだから何とかなりそうだけど、途中でまたあのビジネスオペ某だのが絡んできたり、誰かに見られながらやるんなら嫌だなあと思った。
え、もし三課と合同で・・・黒井と一緒にやるなら?
僕と黒井がセンセイよろしく、十数人の新人たちに、営業兼営業事務マニュアルの説明会を行う?
・・・いや、二人で先生はやらないだろう。っていうか黒井はそもそも新人の教育係のようなことをしているのだから、あいつが先生をやって、僕はただの助手というか、雑用係・・・。
・・・うん、もしかして。
隠さなきゃいけないというやつ?
黒井さんと、あの雑用のパシリみたいな人が、何だかアヤシイって?
今までも僕の片想いの挙動不審を隠さなきゃとは思っていたが、これからは、二人して本格的にこの関係を隠していかなきゃいけないのだろうか?
・・・いや待てよ。でも確か、この関係はプラトニックだったはず。
あれ、もしかして、プラトニックな交際をしている男同士って、つまりは単に仲の良い親友同士ってことじゃないのか?いや、まあそれだって十分特別な間柄だし、そんなのって嬉しいけど・・・身体の関係もないのに<交際中>と呼べるのか?むしろ隠すほどのやましいことは何もないのじゃないか?
・・・頭上の標識の赤色灯の光が、うっすらと、消えていく。
ふむ、確かに、隠さなきゃいけないと思うと焦ったけれど、隠すべきやましいことがないなら、何も問題はないわけで。
堂々としていればいいってことか。
ミーティングルームを出てオフィスに戻り、三課を見たが誰もいなかった。残念だったが、また明日も会える。会社で交際相手に会うなんて犯罪じゃないかと思ったが、どうやら何の問題もなかったらしい。・・・たぶん、僕は今までに隠すべきやましいことがなかった経験がなさすぎて、ちょっと戸惑っているようだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
水曜日。
朝は冷えて、黒井の言う秋を感じ、そろそろホットコーヒーを淹れたくなった。
午前中のルーチンを一通り済ませて出かける時、廊下で後ろから肩をつかまれ、耳元で「今日、早く終わらせて」と囁かれた。振り返ったら黒井はもう後ろ姿で、声は出ない。やましいことはなくて、堂々としていればいいはずなのに、心臓は高鳴ったまま何もできなかった。
おかげで仕事はさっぱり手につかず、よほどこのまま直帰してしまおうかと思ったが、黒井と一緒に帰るのだから会社に戻らなくてはいけない。手帳の、やることリストにどんどん<省略>の×印が増えていく。こういうときは妙に口数が増えて、意味のない世間話にやたら力が入った。昨日の地震?歩いてて気づかなかったんですけど、すごかったらしいですね。え、それ知らなかったです、そうなんですか?
「実際そうらしいで。いや、ホンマよ」
「へえ」
「本社の人がちらっと言うてたわ。あそこの部長、趣味はテニスのイケメンやけど、いい人やって人と、冷たいとかキツいって人と、意見が真っ二つに分かれてるんやて」
「意外ですね」
「ま、男女の意見の違いもあるやろうけどね」
「それは、まあ、あるでしょうね」
「せやろ?」
「まったくです」
うん、いつの間にか隣の関西人相手に相槌のバリエーション披露会を開いているが、意外と通用するものだ。
しかし、何度やっても見積もりに間違いを見つけてしまい、プリンターを数往復した。課長が「ノー残ですよー」と声をかけ、ああ、窓の外が暗くなるのも早くなってきた。
・・・・・・・・・・・・・
待ちわびた夕方がやって来て、「お先でーす」と席を立つと、しかしもう三課に黒井はいなかった。
何となくふわふわとぼうっとしたまま廊下を歩き、エレベーターを呼ぶ。何人かが後ろからやって来て、軽く会釈。箱が来るのを待ちながら、僕と黒井は交際を始めているのに、エレベーターはいつまでもエレベーターのままなんだな・・・とわけのわからないことを思った。
降りて、さてどうするかと携帯を出すけど、その前に眼鏡の視力がそれを捉えた。少し青っぽい長袖のシャツで、腕をまくってロビーの壁に寄りかかり、こちらを見ている。
・・・な、何だよ。
え、やっぱり、かっこいい・・・。
こうしてシルエット全体を見るのが久しぶりで、首や肩のラインとか、長い足とか、どうしてそこら中にいるスーツたちと同じような格好なのに、バランスがいいのか姿勢がいいのか・・・。
近寄っていくのが恥ずかしくてだんだんと足が止まりそうになり、すると向こうからこちらに歩いてくるのが見えて、どっちにしたって目を伏せた。
「・・・やまねこ」
「・・・うん」
ロビーで立ち止まって、向かい合って、照れる。
「あのさ、俺、行きたいところがあって・・・」
「・・・うん」
ああ、交際だ。交際活動が始まるんだ。
「・・・い、一緒に、来てくれる?」
「・・・うん」
はい、行きます。どこでしょうか。ディナー?居酒屋?それとも・・・夜のロマンティックな公園とか・・・。
そうしてとりあえず歩き出して、地下通路へ。並んで歩いて、右側にいる黒井との距離は近く、僕は鞄を左手に持ち替えた。歩くリズムで時々腕が当たって、ほんの一瞬あたたかい。今までは偶然当たるそれを僕がありがたく享受していたけど、・・・どうやら、黒井もそれを意識しているようで、徐々に距離はさらに近づいて、ついにはくっついたまんま歩くくらいになった。
・・・こんな関係を、このまま受け取って、いいのだろうか。
「ねえ、それでね」
話しかけられてふっと横を向くと、やっぱり、近い。前を歩く仲のよさそうな女の子二人だって、こんなに近くない。
・・・いや、だって。
俺たち、付き合ってるから・・・。
「ぐふっ・・・ごほっ」
「え、ねこ大丈夫?」
「ちょ、むせただけ・・・ごめん。何だった?」
肘のあたりを口元に当てて数度咳き込み、にやけた顔を何とか戻した。
「あ、だからね。・・・その、俺」
「うん?」
「思いついちゃったんだよ。俺たちが、・・・プラトニックなまま、楽しめるとこを」
「・・・え?」
「我ながら、いい思いつきなんだよね。だからこれから・・・」
黒井はこちらを向いて、楽しそうににやりと笑い、・・・「銭湯に行こう」と言った。
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