第290話:銭湯に行こう!

 風呂に入れば体も綺麗になるし健康にいいし自宅の風呂を使わないから掃除もしなくて済むし、その上お互いの裸も見れるからこんなにいいことはないじゃん・・・と、黒井は言った。

 僕はしばらくフリーズして銭湯のメリットをチェックし、うん、確かに大きい湯船は気持ちがよくて自宅の水道代もガス代も節約できて、風呂掃除がないのは楽で助かるし・・・いやいや待てよ、光熱費の節約は銭湯代の数百円でチャラだし、っていうか風呂に入るならタオルやらシャンプーやら必要で、それを買うならやっぱりリーズナブルでも何でもない・・・。

「く、クロ、それもしかして今から行くの?」

「そうだよ」

「だ、だってその、タオルとかいろいろ持ってない・・・」

「大丈夫、手ぶらでいいようなセットがあって、なんもいらないんだって」

「・・・でもそんなの、高くない?」

「えー、確か千円いかないくらいだったと思うよ」

 風呂代に千円・・・そんなの、毎日入ったら一ヶ月で三万円じゃないか。

 うん?いや、別に毎日入るわけじゃないし、風呂代を節約したいという趣旨の話じゃなかった気がする。何だったかな。

「えーっと、その、どこの銭湯に行くの?クロの家の近く?」

 そうか、僕が湯冷めするって話?いや、そんなことはどうでもいい・・・。

「ううん、俺とお前の家の、あいだくらい」

「ふ、ふうん・・・?」

「何か久しぶりだな、銭湯なんて・・・」

 ・・・銭湯。

 銭湯ってつまり、公衆浴場のことだよな。

 ほとんど行ったことはないが、たぶん、昔、家の風呂が壊れた時に行って、でもあまりいい思い出がない気がする。小ぢんまりしていて爺さんばっかりいて、床のタイルが欠けてたりぬるっとしてたり、髪の毛が引っかかってたりするのが気になって、あのシャワー台の前の木の椅子に座るのも嫌だし、湯は熱いし、脱衣所も運動部のロッカーみたいで・・・。

「あ、あの、クロさあ」

「うん?」

「その銭湯、お前は行ったことあるところ?」

「ううん、ない」

「そ、そう・・・。えっと俺、実はその」

 改札を通って、早い時間だけど全然混んでいるホームで、なるべく短めの列に並ぶ。えっ、これから電車に乗って降りたら、銭湯に行っちゃうの?

「それで何?」

「あ、あのね、俺・・・せ、銭湯ってちょっと、苦手っていうか、キレイめのとこでないと、入れない、入りたくないかもしれなくて・・・」

 あ、いやいや、こんなこと交際中の相手に失礼か。そのくらい我慢すべきか。・・・ええ、くそっ、俺はともかくお前の素足や裸がそんな空間に入ってしまうのも、こらえなきゃいけないのか。

「だーかーら、さっ!」

「えっ?」

 電車が来て、ドアが開いて、黒井がそそくさと席を取って鞄を隣に置き、後から来る僕をそこに座らせた。あ、いや、なるべく多くの乗客の方が座れますよう・・・っていうアナウンスどおり、詰めて座っているだけです。本当は密着したいだけですが。

「ほら、これ。俺調べたんだから」

「うん?」

 黒井がスマホを取り出して、その銭湯のサイトを僕に見せた。そこには浴場や脱衣所の写真が出ていて、指でゆっくりスクロールさせながら、「ねえこれなら、いいでしょ?」と。

 確かにその写真を見る限り、清潔そうな銭湯だった。サイトも今風な雰囲気で、もしかしたら新しくできたところなのかもしれない。

「どう?」

「う、うん」

 黒井が指二本でシャワー台の写真を拡大し、すっとそれを戻して、また次を拡大する。その指に見とれつつ、しかし風呂場の写真ではにかみながらうなずくなんて、まるでラブホの部屋を選ぶ女の子みたいになってないか・・・?

「お前、風呂洗ってばっかの潔癖だからさ、気にすると思って」

「・・・あ、ありがとう。うん、これなら平気と思う」

「よかった」

 黒井はそう言ってスマホを鞄にしまい、前に向き直った。それで僕はふと、銭湯の誘いで気になったのはガス代でもタオルでも清潔さでもなく、「お互いの裸が見れる」というせりふだったじゃないかと思い至った。



・・・・・・・・・・・・・・・



 毎日路線上で通ってはいるけど降りたことのない駅で、行ったことのない商店街を二人で歩く。シャッター通りということはなくて、若者が多く、新しい店もたくさん出ていた。二人の家の間といっても桜上水寄りで、まあたぶんここだって世田谷区なんだろう。

 どこからか夜の虫の音がして、空を見上げたけど十五夜なんかではなく曇っていた。それを見た黒井が「曇ってるから狼じゃないよ・・・今は」と笑った。

「・・・あ、あっそう」

「先週はさ、すげー月出てたんだよね。中秋の名月ってやつ」

「へえ」

「見てない?」

「・・・いや、何も」

「高いとこにくっきり丸く光ってさ、俺なんかずっと見上げて立ち止まっちゃうのに、道行く人、だーれも見てねえの。今だってさ、この秋の何かわかんない虫とか、探し出して捕まえたいね」

「いや、捕まえたくはない」

「俺、昔スズムシ飼っててさあ・・・」

 僕のそこはかとない嫌悪感をよそに、黒井は楽しそうに話した。

 小学生の夏休みにデパートで四匹入りのスズムシを買ったが、翌年、その容器から大勢の次世代たちが産まれたとのこと。それらを大きめの別の水槽に移し、元の虫かごには黒井のお気に入り(・・・お気に入り?)だけを残して愛でていたが、ある時上蓋の締まりが甘くて、リビングで小さなスズムシ十数匹を土とともにぶちまけ、電話中だったお母さんは目を白黒させて慌てたらしい(僕だって卒倒する)。しかしちょうど滞在していた祖母が(あの、「ねこ」という名の猫を飼っていたという、黒井が流れ星を見た家の祖母だろう)何事もなかったかのように虫たちを捕まえ、元に戻してくれたという。何匹かは開いていた窓から庭に逃げ、秋は家の中も外もスズムシの大合唱だったとか。

「スズムシかわいかったよ。羽がハート型で、震えて綺麗な音が出てさ。あいつらナスが好きで食べてるとこよく見てたけど、それで俺なんかナスって食えないんだよね・・・」

 僕はかろうじて「そ、そうなんだ」とコメントし、黒井の嫌いな食べ物の欄にナスを追加した。いや、それ以外まだ知らないけど。


 しばらく歩いて、商店街を抜けきらないところにその銭湯はあり、入り口付近ではシャンプーや石鹸のにおいがした。靴箱のところでカップルだか若夫婦だかとすれ違い、やはり年齢層はやや低め。カジュアルで綺麗そうな雰囲気に少し安心するけど、えーっと心配するところはそこじゃなかった・・・。

 靴を脱いだら券売機でレンタルタオルやシャンプーがセットになった券を買い、二人で受付へ。ああ、番台ってやつの左右に男湯、女湯ってこともなく、ごく普通のカウンターに受付のお姉さんがいた。

「あの、中で、小銭とかっている?ロッカーとか・・・」

 黒井が券を渡しながらお姉さんに訊く。いや、確かに若いお姉さんだけど、高校生でもあるまいに、どうして最初っからタメ口がきけるのかな。しかし小銭だなんて、ああ、中で何が起こるかもっと想定しておかないといけないが、どうにも理屈が働かないので頭が空っぽだ。

「えっとロッカーはお渡しする鍵で開けてもらって、ドライヤーだけ、20円かかります。3分間で」

「ふうん・・・あ、30円しかないけど、3分って足りるのかな俺」

「あー・・・男性の方は、足りるかと」


 そして、柔らかい半透明のビニールバッグ入りの風呂セットを受け取り、「何かあればインターホンでお知らせくださいね」と言われ、男湯の脱衣所へ。施設内は、僕の外出先のトイレ基準に当てはめていえばSまではいかないAというところで、清潔度にはまったく問題がなかった。脱衣所には爺さんとおやじとおっさんと若い人がいて、洗面台とドライヤーと業務用の扇風機があり、ジャズっぽいBGMがかかっていた。

 渡された鍵に番号がついていて、隣同士のロッカーを開ける。鞄を入れて、僕はカフェみたいな丸椅子に腰かけ、セットの中身を確認した。パウチタイプのシャンプーリンスとボディソープ、あとは体を洗う小さめのタオルと、大きめのバスタオルのほかに、ほんの小さな、試供品と書かれた男性用化粧水。壁に張り紙があり、受付で本体ボトルを販売しているとのこと。なるほどね。

「何か楽しいもんあった?」

 顔を上げると、Yシャツの裾から素足が伸びた黒井がいた。あれ、何でこの人脱ぎだしてるんだろう。・・・風呂だからか。しかもこれから二人とも全裸になるのか。いや、それはだめじゃないかな?

「な、何か、化粧水とか入ってたよ」

「へえ。じゃあ後でつけてみよ」

「う、うん」

「・・・ねえ行かないの?早くしないと混んじゃうかもよ」

「あ、そうだね、うん」

 いったんセットを置いて立ち上がり、ひとまずYシャツの裾をズボンから出してボタンを外した。それからやりやすいところといえば靴下で、もう一度椅子に座って裸足になる。うん、僕が裸足でも大丈夫なくらいの清潔さで非常に嬉しい。さて、それじゃあ風呂に入ってこれから身体を洗うだけ・・・と言い聞かせるが、アンダーシャツにパンツ姿の黒井が隣の椅子に膝を乗せ、かがんで僕の耳に両手を添えると小声で「・・・ねこ、はずかしい?」と訊いてきた。

「・・・っ」

 囁かれた右耳と、右半身が、ぞわっと痺れる。

 べ、別に?と言いたいところだが、強がれなかった。

 ・・・は、恥ずかしい、よ。

 いや、裸になるのも恥ずかしいが、こんなところでそんな耳打ちをされる方が恥ずかしいんだよ。

 僕はついと立ち上がって靴下をロッカーに投げ入れ、つとめて冷静に「・・・お前は?」と訊いてやった。答えは「そりゃ、決まってんじゃん」で、二人ともまっすぐロッカーの中を見つめて服を脱ぐ。おいおい丸めて投げ込むなよと思いつつ、僕だってきちんと畳めてはいない。とうとうパンツ一丁になったらバッグから小さいタオルを出して、肩にひっかけた。その後は、もう脱ぐものは一つしかなくて、隣を見たら黒井は腰にタオルを巻いていたから助かったけど、上半身の、その胸を間近に見てしまって、ちょっと目の裏にこびりついてしまった。「お互いの裸が見れる」という声と、すぐ近くのその体温とにおいが混ざって媚薬のようになり、ふらふらと吸い込まれるように僕は最後の布を脱いだ。それからまた腕をくっつけあって浴場に入り、僕は馬鹿みたいに念入りに身体を洗った。

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