第291話:身体への興味

「ねえ、まだ?」

 隣のシャワー台の黒井が暇そうに訊いてくるので、僕は何とか早回しで体を流した。きちんと仕切られていてほぼ見えないので、恥ずかしさも薄れている。そして「あと顔洗うだけだから」と言うと「ええっ?」の声が天井まで響いた。う、うるさいな。

「俺さあー、風呂浸かる前にのぼせるとか嫌なんだけど」

「水でもかぶっとけよ」

「えー、水?うーん。ああそうだ、お前、背中でも洗ってや・・・」

「・・・え、なに?」

「・・・なんでもない」

 洗顔料というものはなくて、ボディソープで顔も洗えということらしい。まあ何でもいいんだけど。

 ようやく顔を洗ってもう一度体を流し、後は洗面器だの椅子だのもざっと洗い、備え付けのゴミ箱に使い切ったパウチを捨てる。それでゴミを触った手を流してシャワー台全体と床も綺麗にし、本当は最後に頭と体を全部また流して終わりたいんだけど、黒井がそれを許してくれなかった。

「もう終わりってば、何回やんの?」

「え、いや、まだ髪の毛とかついてるし・・・」

「前はもうちょっとさっさと行ったじゃん」

「前って?」

「あの、大江戸温泉のとき」

「・・・今回が綺麗だからつい、綺麗モードのオペレーションを保ちたいっていうか」

「次で終わりにして?そうじゃなきゃもうくすぐる・・・あ、だめか」

 うん、まあくすぐられても、「ちょ、やめろってば、ひいっ!」っていう打てば響くような反応は出来なくて申し訳ないけど、くすぐったくならない体質なんだから仕方がない。


 浴場の中央に透明のアクリル棚があり、そこにペットボトルの飲み物やマイシャンプーやタオルなどを置いておけるようだった。ああ、途中で水分補給というのもありなのか。

 風呂はジャグジー付きの普通のものと季節のにごり湯、軟水のぬるめの湯があったが、とりあえず一番広くて空いている普通の湯に入ることにし、僕はそのジャグジーが湧き出している部分へ向かった。ジャグジーを楽しみたいのはあるけど、もうタオルも置いてしまっているし、でも泡が出ていれば湯の中で身体が見えなくて済む・・・。

「あ、ちょっと待ってよ」

「え?」

 入ろうとしたら止められ、隣に裸の黒井がいる。いや、あり得ないってば。

「・・・これで、湯を、かけてから」

 湯船のへりに手桶があって、それを渡された。うん、掛け湯ってマナーなのか?それとも心臓発作予防?分からんが、もしマナーならやらなければ。

 しかし湯をかけながらふと顔を上げると黒井が僕を見守っていて、というか何だか凝視していて、僕は「お互いの裸が見れる」を思い出した。

 ・・・いや、僕の裸って、見たいのか??

 改めて考えて、僕の裸なんか女の子じゃないし大した身体でもないし見て楽しいことなんか何もないのに、一体何が見たいんだ?

「つ、次、どうぞ!」

 手桶を渡すと、黒井は「あ、ああ・・・」と受け取り、今度は僕が見ることにした。いいんだよ、だって「お互いの」裸なんだし、僕のと違って黒井のは見るに値するいい身体・・・。

 ・・・おう。

 思わずごくりと唾を飲み込んで、自分の品のなさに呆れた。

 肌色だ。上から下まで、髪とあの部分が黒いけど、あとは濡れて水をまとった肌色が末端まで続いている。パンツやタオルで途切れることなく、前も後ろもみんな肌。あの時のトカゲやヤマアラシみたいにごわごわトゲトゲもしてなくて、うう、でもどうしてへその周りがきゅっとしてうっすら腹筋が割れてるの?僕そういう部分ないんですけど。

「・・・もう、いい?」

「え?」

「見終わった・・・?」

「なにがっ?」

 今度は僕の声が響いて、僕は「あっつ!」と今の声を紛らわしながら湯船に入った。



・・・・・・・・・・・・・・・



 床から湧き出す泡で、水面がきらきらと絶え間なく揺れている。

 僕は膝を曲げて足の裏にそれを受け、黒井は足を遠くまで伸ばして泡に包まれた。

 浴場は少し混んできたが、まだみんなシャワーの段階で、湯船はほとんど貸し切り。女湯からも母娘らしいはしゃぎ声が響いて、適度に騒がしい割に、僕たちはぽつんと二人だった。

「ねえ」

「うん?」

「お前、やっぱいいおでこ」

「・・・は?」

「だって、風呂の時しか拝めないしさ」

 見れば黒井もほとんどオールバックで、しかし幾すじか額に垂れて雫を落としている。後ろの髪は少し長めで、いつもうなじはほとんど見えない。

「・・・いいよ俺の顔なんかどうだって」

「じゃあ俺の身体は?」

「・・・っ」

「うーん、大学の時はさ、もっと鍛えてたんだよね。もう全然、なんもないけど」

「・・・ないことないだろ。腹筋割れてる」

「割れてないよ。その、毎日腹筋してた時だってろくに見えなかった。・・・かっこいい身体目指してたんだけどな。もっと、理想みたいにはなんなかった」

「・・・へえ」

「日焼けしたり、髪伸ばして結んだり、今思えばいろいろしてた。シルバーアクセとかも凝ってたし、古着も好きだったし。・・・はは、タトゥーだけは入れなくてよかったな、そしたらここに来れなかった」

「そ、そんなの入れる気だったの?」

「いや、かっこよかったしさあ。別に、ほんとに入れるわけじゃないけど、憧れっていうか。何だろうね、こうやって話すと、馬鹿みたいだけど・・・でも俺のかっこよさって、先に身体があって、それを何かの芯が動かしてて・・・」

「・・・」

「お前は、自分の身体に興味ないよね。キレイにしとくだけ」

「えっ、いや・・・う、ん」

 急に振られて、答えられない。僕が、自分の身体に、興味?

「それ、俺がさ・・・、いや」

 言葉は途切れ、黒井は下を向いた。水面をじっと見つめ「光が、チラチラして、酔う」と。それで僕も、わき上がる泡の水流に映る光の反射を見つめた。だんだんと視界の周りが暗くなり、中心のそれは素粒子の軌道のように飛んだり跳ねたりしながらカオスな世界が広がって、しかし集中が途切れると拡散していなくなった。

「確かに、酔う」

「分かった?」

「うん、たぶん」

「吸い込まれそうだね」

「うん・・・」

 じゃぶんと音がして、隣の頭が水中へ沈み、髪がゆらりと揺れた。足は前に伸びたまま二つ折りになって、前屈で地面に手が届いたことのない僕は、クロは身体が柔らかかったんだなとびっくりした。



・・・・・・・・・・・・・・



 貧乏性ゆえどう考えても僕には多いシャンプーリンスを使い切り、おまけにナノ何とかのドライヤーで乾かしたら髪が無駄にサラサラした。試供品の化粧水で顔までつやつやし、もはや自分じゃないみたいだ。黒井は慣れた手つきでパタパタとヒアルロン酸をはたきながら「俺これぬるぬるで嫌いなんだよね」とパンツ一丁でうろつき、体重計などに乗っていた。

 今日のパンツは普通のトランクスでなく、ちょっとぴったりして股上の浅いボクサーパンツというやつ?それからロッカーに戻ると鞄から何かの小さい容器を出し、中身を手に取って腕や首にすっと塗りつけた。まさか香水かと思ったが匂いはしないし、塗り薬でもなさそうだし、マイ化粧水的な何かなのだろうか。続いて折り畳みの小さいブラシが出てきて鏡も見ずに二秒で髪を梳かすと、黒井の身づくろい的行為は終了したようだった。

 ・・・今までも、何度も部屋に泊まったりしてきたのに、このトータル十秒の身づくろいを僕は知らなかった。まさか、シャツのアイロンがけだってあやしくて、ポケットからはいつもお菓子のゴミが出てくるようなやつなのに、鞄には携帯用の化粧水やブラシが入っていたなんて。たぶん今日の銭湯のためにわざわざ買ったものじゃなく、手探りで迷わず取れるくらいずっとそこに常備されてたんだろう。パンツにしたって、僕なんか五枚いくらのお徳用トランクス一択で、他のタイプの下着なんか検討したことすらない。

 自分の身体に、興味がない。

 そういうことか。

 触り慣れないサラサラ髪に手をやり、僕はシャンプーだってドラッグストアの一番安いやつしか選んだことがない。全てにおいて、基準は値段の数字が大きいか小さいか。ケチというのもあるけど、選ぶ基準が自分の中にないから、分かりやすい数字でしか選びようがないのだ。そういえば黒井のうちのシャンプーは何だか見たこともない外国風のボトルで、最初に見たときは「やっぱり『黒井さん』だなあ、オシャレなやつめ」くらいにしか思わなかったけど、こうして、並んで、横に立つと、急激に居心地が悪くなってきた。

 並んで制服に着替えるなら、恥ずかしくはないけど。

 Yシャツだってズボンだって、制服みたいなものだけど、一つ一つ、自分で選んでどこかのお店で買うものだ。仕事で着るものは一応、値段第一じゃなく見た目の清潔さ重視にしてはいるけど、それにしたってセンスというような項目は一切ない。

 古着、とか、シルバーアクセ・・・とか?

 髪を結ぶ、とか。

 ・・・リア充に恐れをなした、のとは、少し違う。

 今まで「へえ・・・、まあ俺には関係ないけど」と思いつつ、ただ黒井という<好きな人>のキャラクター表に特徴を列挙して満足していたが、今はもうちょっと、黒井が生身の人間で、憧れのどこかのヒーローではなくて、そして「関係ない」人でもなくなってきていて。

 ・・・付き合ってる人。

「は、腹減らない?何か食って帰ろうか」

 思わず口走って、思考を遮った。

 就活の時に測ったきりのサイズのYシャツを着て、緩くてもベルトで締めているだけのズボンを履いて、もうマックのハンバーガーでいいんじゃないかな、コンビニのおにぎりを立ち食いだって十分だけどな。



・・・・・・・・・・・・・・・



 商店街をうろうろして、黒井がラーメン屋かそば屋か迷い、結局そば屋にした。しかしそれは普通のチェーン店ではなくモダンな内装で夜は日本酒と一品料理も出す店で、メニューを見たら盛りそば以外、月見そばですら千円越えだった。

「ねこ、決めた?」

「あ、えっと・・・」

 メニューの値段と取っ組みあって、今回は数字が一番小さいものではないのを選ぼうと思い、かといって天ぷらそばの二千円は無理で、千三百円のかきあげそばに落ち着いた。そう言うと、「かきあげか・・・なら俺は山かけ、いや鴨にしよう」と、黒井は見栄でも値段でもなく味の組み合わせで選んでいるみたいだ。・・・ああ、僕のかきあげは半分食われるということね。

「ね、銭湯、どうだった?」

「あ、ああ、よかったよ。綺麗で広くて」

「じゃあさ、お前気に入ったなら、・・・そ、その、来週も」

 目の前の黒井は僕から顔を背け、「は、早く終わったら」と付け加えると、テーブルを指でとんとん叩いた。その空気で僕はふいに<交際中>を思い出し、ああ、そば代だって<交際費>なんだから、そういう枠組みなら値段なんていくらでも構わないんだと思った。別に、経費でもないし確定申告もしないけど、専用の項目が用意されてるなら、概念上落ち着くのだ。

 それで僕は銭湯代も交際費だし、自宅の風呂を洗うタイミングも決めやすいし、「いいよ、毎週来よう」と言った。すると黒井は「えっ、あ、うん」ともはや横向きに座って、むやみに湯飲みを持ったり置いたりし、僕は初めてその様子を落ち着いて眺めた。

 ・・・僕のことを意識して、こんなになってるのか。

 その心臓は、今、びっくりするほど速いのかな。

 さっきまで感じていた何がしかの劣等感を、今は横に置くことが出来ているのか、あるいはこの反応がそれを相殺しているのか。

 それで、僕はもうしばらく前からそうしたくて仕方がなかった欲求を、行動に移した。

 黒井は一瞬身をすくめたが、僕の指が、その髪に触れる。あの告白の後、一度触れたきりで、あとは焦がれるばかりだった。

 指の背で、ひと撫でする。

 同じシャンプーで洗ったその髪の上を、指が、するりとすべった。

 本当はもっと、もっともっと触れたかったが、店員が来る気配がして、僕は手を引っ込めた。

「その、・・・ど、どこまで、長かったの?」

 照れ隠しと、もし誰かに見られていたらという言い訳で、つとめて明るく髪のことを訊く。

「えっと・・・な、なにが?」

「結んでたんだろ?結ぶほど、長かったんだろ」

「あ、ああ、別に、上の方でちょっとくくるだけだよ。長いってほどじゃなくて、女の子の、ショートヘアか、ボブくらい」

「そ、そっか。へえ」

 ボブが何のことだかは分からないけど、返事をして、そばが来た。ああ、そういえば黒井のお母さんは美容師だし、亡くなったお父さんは服のデザイナーで、僕とは生まれのスペックが違うんだ。

 それでも、「旨そうだね」と箸を取って、顔を見合わせ、いただきますを言った。僕はかきあげを頬張る前にもう一度その髪を見て、・・・毎日同じシャンプーを使いたいなと思った。それはあまりに純粋にわきあがってきた、はちみつとか絹みたいなそういう純度の気持ちだったため、僕の身体の中のいったいどこにそんなものが存在していたんだろうと、ちょっと不思議になった。

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