第292話:前髪とおでこと、シャンプー
かきあげをただ強奪されるんじゃなく、僕もかきあげと鴨のハーモニーを味わえた。
というか、温かいそばと冷たいそばだったので、半分ずつ食べた。しかし、ちょっと鴨を一切れもらうならありだろうが、こういうお店で男二人で半分ずつはどうなんだろうと思ってしまい、「いやあこっちも美味しいんだね」なんて大げさに二八そばとやらを持ち上げながら食べた。おかげで味はあんまり分からなかった。
会計では黒井が「一緒でいいです」とまとめて払った。これまでだってこんな感じで適当に払ってきたのに、やはり今は妙に<交際中>の標識が光る。そして店を出て、交際中なら腕を組んで歩くのが規定通りの行為に思えて、っていうか交際中でない二人だとすると逆に色々な行動に無理がある気がして、僕は<交際中>の枠の中と外とをバグみたいに行き来した。
結局ジャグジー風呂にしか浸からなかったので、次は季節の湯に入ろうなどと話しつつ、駅に着く。改札を通ると上りと下りでホームが分かれていて、もうここで、別々の階段へ行かなきゃならない。
二人とも、何となく、一番線と二番線の看板を眺めながらその場で立ち止まった。
黒井がスマホで時計を見て、「風呂入って飯も食って、まだ九時半」と小さく笑い、僕も「そりゃ早い」と笑った。しかし、実際のところこれから帰宅すると考えればそれほど早くもなく、二軒目に繰り出すわけでもないなら、ただここでサヨナラをして別々の電車に乗るだけだ。
なぜだか急に、半径二メートルだって離れたくなかった。
別々の電車に乗る?まさか、そんな。
・・・これからお前のうちに泊まって、明日一緒に出勤することだって物理的には可能なのに、それでも別々に帰って寝ようとしている。どうして?
なるべく早く心を引き離してしまわないと泣くか叫ぶかしてしまいそうで、僕は自分の携帯を見るとパチリと音を立てて折り畳み、帰るきっかけを作った。
「さて、あと二日、頑張るか」
携帯を鞄にしまって、顔を上げる。帰るのが決まっているのなら、さっさとしてしまいたい。「そっちは空いてていいな」と上り電車を示し、僕はまだまだ混んでいる下り電車だ。いや、むしろ今は激混みくらいでちょうどいい。人に揉まれて何も考えず、明日も会社か、ダルいなーなんて思いながら最寄り駅まで運ばれたらいい。
そう思ったらもう今しかチャンスはなくて、「それじゃ、楽しかったよ。また」と足を踏み出した。黒井もああとかうんとか言って歩き出し、それぞれの階段に向かう。それは全然違う方向で、ホームに下りたら向かい側にいて手を振るなんてことも出来なさそうだった。いや、そんなことをする方が苦しそうだけど。
これでいいんだ、別に、今生の別れじゃあるまいし、明日会社で会えるんだと思って早足で階段を下りた。訪れた急行に今すぐ乗りたかったが、急行はこの駅には停まらなくて風とともに過ぎ去っていった。それなら次は何分後なのか、電光掲示板か時刻表を見ようと振り返ると、突然見たことがある顔があり、それは黒井彰彦であって、僕は「えっ、どうしたの、忘れ物?」と訊いた。黒井は「う、うん」とはにかんで笑い、その視線がつと上にいくので何かと思っていると、その顔が近づいて、離れていった。風で散った前髪の隙間に、その唇が当たった、みたいだった。
・・・・・・・・・・・・・・・
額の、その部分だけが、熱を帯びたようにすら感じる。
黒井は僕の前髪を手でとかしておでこを隠すと、「俺のだから」と言って、あとは振り向きもせず階段を上っていった。
・・・。
電車。
電車は、まだなのか?
今起きたことが何なのか分からないが、立ち止まっていられない衝動が体にわき起こりそうで、とにかく早く電車に乗りたかった。
電車、電車、電車。
ようやく各駅が来て飛び乗って、携帯を出し、何でもいいから何かのゲームをインストールして、およそ面白くないシステムに大人しく従ってただただボタンを連打した。何でもない、何でもない、明日は会社、明日は会社・・・。
ふっと、自分の頭のシャンプーのにおいがして、一瞬真っ白になる。
・・・週末に、シャンプーを、買いに行こう。
値段以外の要素でそれを決めて、うちの風呂に、そのボトルを置くんだ。黒井のうちのそれがどれなのか聞き出すことは今の僕には出来ないだろうが、何でもいい、今と違う高くてオシャレなやつを買うんだ・・・。
・・・今日使った、これでいいか。
これは何だったんだろう、パウチに書いてあったはずだが、まったく思い出せない。
名前も、色も、模様やマークすら記憶になかった。覚えようとしていなかったのはもちろんだが、そもそも何の興味もなかったからだ。
・・・空調で、前髪がなびくたび、いちいち隠した。
何がいいのかさっぱり分からない、自分のおでこを。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
木曜日。
ふつうの仕事も、上期のまとめや下期の新人のどうのこうのという仕事も、それなりに溜まっていた。いい加減何とかしなくてはと思い、久しぶりに工学院の隣のカフェへ。
カフェラテを飲みながら、手帳にふせんを重要度順に貼り付けていく。
そうしながらも、ふと頭を掻くと柔らかいその手触りが、昨日触れた黒井の髪や、あるいは駅のホームでされたあれこれと繋がって、気づくとぼうっと黒井の裸を思い出していたりして、もうため息。
その度ふせんに向き直るけど全然これが意味のある仕事に思えず、自分はどこかの宇宙から送り込まれた偵察員で、一般的な地球人の仕事を体験して本部に送る係なんだと言い聞かせて何とかそれを進めた。この作業をこなさなければ、来週、不思議な力で銭湯に行くのを阻止されてしまうのだ。ああ、それなら早くやらないと。
金曜日。
こんな自分がどうして見積もりを出して金額の交渉をしたり、導入時期の日程を組んだり、オプションのセキュリティシステムまで売り込んだりしているのか、ちょっと首を傾げた。僕はそんなしっかりした社会人なんかではなくて、昨夜は自宅のシャンプーを使いたくないばかりに風呂にも入らず、ともすると男の裸を思い出して興奮しているようなやつで、まともに世間様と向き合えるような人間ではないと思う。それでも、ただひたすら慣性の法則で動き続けている毎日があり、だから決してそれを止めるわけにいかなくて、僕は勢いのまま最低限の仕事をこなし続けた。
土日を前に、久しぶりに遅くまで残業をした。ここまで終わらせれば後が楽だ、ここまで、ここまで・・・と言っているうちに22時になっていた。でも、来週はまた祝日があって、火曜が休みだから月曜の気が楽だ。もう、週休三日くらいがちょうどいい気がする。
・・・・・・・・・・・・・・・・
九月二十日、土曜日。
昼前くらいに起きて、圧力鍋でカレーを作った。あまりカレーという気分じゃなかったが、毎食きちんと作れる精神状態でもないし、これで土日を乗り切ろう。そして、月曜日を一日頑張ればまた休みで、そうしたら水曜の銭湯だ。
そして、具が少なめのカレーを食べて皿を一枚洗い、おもむろに、着替えた。
・・・ドラッグストアへ行くのだ。
シャンプーを買いに。
結局昨日も風呂に入ってなくて、もう背水の陣で、自宅のシャンプーの残りをボトルごと捨てて、心置きなくニューフェイスを迎えよう・・・と、思った。
しかし、ニューフェイスを置くなら、やはり、風呂を洗ってからか。
・・・ふむ。
突如として新しいシャンプーを買うという案件が持ち上がったわけだけど、何だかそうすると、この部屋にある他の全ての物体が、・・・<自分の身体に興味がない>僕が値段第一で取り揃えた生活用具一式が、色褪せて見えてきた。
いや、それらが色褪せて、今は別のものを揃えたいと思っているなら、ただ買い替えればいいだけだけど。
別に、黒井と同じシャンプーを使いたいという欲求が芽生えてしまったからと言って、値段第一以外の何の判断基準が新設されたわけでもない。オシャレなボトルを選ぶセンスもなければ、ヒアルロン酸だの何だの美容成分がどうしたという話も分からない。ドライヤーにはナノ何とかが入っていれば(出ていれば?)いいのだろうが、どちらにしても、僕の価値基準が変わったわけでもないので、見様見真似で何かを買い求めるしかない。
・・・ああもう、時々入っているチラシみたいに、何とかセットが今なら一ヶ月分無料とか二個ついてくるとかそういう通販で、ハガキに丸をつけたら一式全部送ってきてくれればいいのに。
途端に、何だかすべてが面倒くさくなってきて、今着ようと思っていた服も、着古した上に垢抜けてもいなくて(垢抜けたものがどんなものだかも分からないが)、しかしそんなことを言ったら今着ている寝間着だってもうひどくて、どうして今まで僕は黒井を家に呼んだり私服で一緒に出掛けたり出来たんだろう。
・・・自分の身体に興味がない。
うん、もしかして、とっくのとうに、見抜かれていたということか。
センスがないとか貧乏性とか潔癖とかの手前にある僕のそれを、黒井は分かっていたんだ。
しかし、知られていて、その上で付き合ってきたというなら、もういいか。
あ、いや、今の付き合ってというのは普通の意味であって、本当にお付き合いを始めたのは、えっと、ちょうど一週間前・・・。
・・・お付き合い。僕が?黒井と?
やっぱり咳き込んで、もうむせて、心臓が苦しくて、涙が出てきた。
黒井が、僕のこと、好きなんだそうだ。
それでもって、僕は彼と今、付き合っている・・・。
やっぱりむせて、僕は黒井のお母さんに電話をかけて「彰彦さんとお付き合いさせていただいています」と伝えたかったけど、番号を知らなかった。知らなくてよかった、本当にかけてしまうところだった。それに安堵してもう一度僕は心置きなくむせた。
・・・・・・・・・・・・・
日曜日。
カレーの残りを食べ、洗濯と風呂掃除をして、午後からようやく外出した。
日曜はポイントが付くから少し混んでいるドラッグストアで、シャンプーの棚の前でしゃがみ込むが、・・・何が何なのか、さっぱり、少しも分からなかった。
すべてが、女性用の化粧品に見える。
メリットなどの大衆向けの他は、男性用のリアップとかしか買える気がしない。
こんなのは大それたことだったんだろうか。僕がオシャレなシャンプーなどと、百万年早かったんだろうか。
世の一人暮らしの男性が一体どうやって何のシャンプーを買って生きているのか、今すぐ知りたかった。しかしドラッグストア内の男性はこの棚に全然やって来ず、ゴミ袋とか歯磨き粉とかを速やかにレジに運んで出て行った。
おい、みんな、なにで頭を洗っているんだ。
男性は来ないが主婦や女学生らしき女の子は棚にやってきて、僕は少し離れたところからそれを見守った。主婦は詰め替えのツバキを買い、女学生は女優だか歌手だかの写真のポップがついた、いち髪というのを選んだ。
僕は何を買えばいいんだろう。
どうにかして、この中から何かを選ばなければいけない。
背水の陣の僕はもう自宅のシャンプーを捨ててしまったのだ。しかももう三日も風呂に入っていない。今すぐ買わなければ、頭を洗わないままもう一度ドラッグストアに来ることはできず、会社にも行けず、もはや人生がゲームオーバーだ。
ピンクや花柄ばかりの棚の前で、もう恥ずかしいとは言っていられない。一番上の段からひとつずつ見ていって、ボトル的に許容範囲内のものを選ぶんだ。・・・ううん、これはボトルの形状と模様はいいが、ローズの香りでまさにローズ色というのはどうなんだ。こっちの金色のはシャンプーとリンスとコンディショナー?と、三つまとめて使わなければだめなのか?そんな工程は時間的にも光熱費的にも増やしたくはないが、セットの中身を無理やり一つ省くのも嫌だし、・・・ツバキは男性でも買えそうだけどやや抜本的改革と言い難い感もあり、かといって外国製はといえば横文字がズラズラならんだ電化製品みたいなパッケージで意外と全然オシャレじゃない。
・・・そして、小一時間迷った末、僕は男性アイドルらしきポップがついたオレンジのボトルを選んだ。理想には遠い気がするが、もはや理想をしっかりイメージすることさえできない。僕はシャンプーに一体何を求めているんだ。
もう、疲れた。
ボトルも香りもダメージケアもどうでもよくて、洗髪さえ出来れば何でもいいと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます