第293話:身長178センチの過程
九月二十二日、月曜日。
昨夜、洗髪だけは出来たが銭湯の時ほどサラサラにはならず、もしやドライヤーの方かと通販を探したが疲れていてろくに何もできなかった。
交際中であるというのに、土日のデートどころか電話やメールすらしていない。
しかし、電話するにしてもどうしてもシャンプー周りを何とかしてからがよくて、そしてシャンプーの結果が今ひとつであったため、どうにもならなかったのだ。・・・いや、意味不明な言い訳だけど。
だからキャビネ前で会うのがどんな顔をしていいか分からず、僕は久しぶりに、佐山さんと二人で少し話した。
「週末、どうでした?」
「いや、まあ、別に全然・・・佐山さんは?」
「私は土曜日に、病院に、健診に行って」
「あ、ああ。どうだった?」
「それで、初めて、見たんです」
「・・・うん?」
「・・・ちょっと、手か何かで隠れてて、見えなかったみたいなんですよね。だからまだ、分からなくて・・・」
「・・・え?」
「あ、あの、・・・性別の、ことです」
「ああ・・・」
赤ちゃんが、男の子か、女の子かって話か。そうか、そういうの、生まれる前から分かるわけだよな。
「そ、そうなんだ。それって、超音波、みたいな?」
「はい、そういう」
「え、でも、分からなかったの?えっと、もう・・・」
男か女かは、染色体がXかYかの話なんだから、受精の時からそれは決まってるはず、か。
「はい、五ヶ月に入って、安定期になれば分かるって言われてて、私もどきどきしたんですけど、・・・エコーの角度とかによっては、その、それが、必ず見えるわけでもないみたいで」
「・・・それ、って」
「あ、だから、それは」
佐山さんははにかんで笑い、視線をさまよわせた後、僕の足元、いや、股間をじっと見た。
「あ、そ、そういう」
そして、少しあっけらかんと、小声で「おちんちんですね」と言った。僕は、女性の口からそんな単語を聞いてしまって、返事も出来ずちょっと横を向いた。
「何か、原始的ですよねえ。DNAとかそういうので分かるとかじゃなくて、こう、ぼんやり映った影みたいなんですけど・・・その、そこに、それが見えるかどうかで、分かるっていう」
そんな、胎児の頃から、ついてるもんなのか。僕は思わず銭湯での黒井のそれを思い出して、恥ずかしくなった。
そこへ島津さんがこそっと「それで、名前、決めたの?」とやってきて、僕はそっとその場を離れた。子どもが欲しいという気持ちは特に一ミリもないけど、交際していない佐山さんがもうすぐ子どもを産んで、交際中の僕と黒井には絶対に子どもができないというのは何だか不思議な感じがした。・・・あ、いや、プラトニックな付き合いなのだから、どちらにしてもできることはないんだけど。
・・・・・・・・・・・・・・・・
火曜日、祝日。
トイレットペーパーを買いにまたドラッグストアへ行き、これは値段第一でいいだろうと思ったがよく見ればいろんな種類があって、そしてシャンプーよりは選ぶのが簡単だったので、生活用品グレードアップ作戦を決行した。いろんな種類といっても香りつきというのが大半であり、僕は香りつきのトイレットペーパーから手に匂いが移り、それを懸命に洗い流すという行為が不毛で許せないので、香りつきを除外すると選択が容易になったのだ。
しかし、今まで十円でも安くと思っていたのに、これもひいては交際費であると思えば(そう思える)百円アップくらい何とも思わないから不思議だ。
シャンプーに続いてトイレットペーパーを奮発し、まだまだ生活用品はいくらでもあるが、一気には無理なので、地道に一つずつ何とかしていくことにする。本当はすべてにおいて同じクオリティで、たとえばもう無印良品かなんかで丸ごと全部買ってきたいが、それが無理なら、せめて同じルールでのグレードアップを図る。つまり、今まで使っていた商品を買い替える際、これまでより高い物を選ぶ・・・いや、まあ実は「値段第一主義」から離れられていないし、感性じゃなく何かの理屈にひたすら従うというのは同じだけど。
しかしきっと、今まで視界にも入れなかった商品を見て知ることだけでも、世界が広がるだろう。
自分がどこに向かって進んでいるのかよく分からないが、しかし最近のデートにしても、身体の周りの消耗品にしても、<人との付き合い>を前提とした暮らし、みたいなものが浮かびあがってきたみたいだった。まあ、この家で社会人をやって五、六年、これまで何ひとつそういう要素なく生きてきたのだから、今それがボロボロと見えてくるのも当然か。
しかしそうして家事を終え、時間が空いたわけだが、・・・交際相手に会いに行こうとは、やはり、思えなかった。
・・・怖い。
会いたい、話したいとは思っても、まずは着る服がないというのは横に置くとしても、・・・あの銭湯の後のように、会っても別れるのが怖かった。
泊まらせてくれと、泣きついてしまいそうで。それを抑えて、電車に乗るのが、押し潰されそうな圧力で。
それで、ネットでマイナスイオンとナノイー技術について調べ、大気中の分子の負の電荷がどうとか、物理学の知識を思い出しながら読んだが全く分からなかった。ニセ科学だという批判もあったが、その辺りは気にせず、ピンクばかりのカラーラインナップの中から無難な暗めのゴールドを選び、通販でドライヤーを注文した。電気屋の美容グッズ売り場に行かずに買えるのは幸いだ。科学をおかしな風に流用したスピリチュアルグッズなんかは許せない僕だが、髪がサラサラになるだけで、謎の運気アップの波動とかも呼び寄せなくて、かつ二万円に満たない電化製品なら何イーが入っていたって構わない。
携帯をチラチラ見ながら夜になり、電話なら、出来るかもしれないと、思った。
話しながら、本当に眠くなって、切ったかどうかも分からず寝てしまえば、サヨナラの苦しみもないだろうし。
それでもしばらく逡巡し、しかし明日は会社だからあまり遅すぎるのも迷惑だろうし、いや、でも<付き合っている人>にそこまで遠慮することないのか、いやいやだから、<付き合っている>はまだ新参者であり、とりあえず慣れて乗り越えたということにしている<告白された><好かれている><恋されている><デート>などなどの概念や単語だって、本当はまだよく分かっては、いない・・・。
・・・いちいち、動悸がして、考えられないな。
疲れでいえばシャンプー選びと同じくらい疲れる。僕は布団に仰向けに寝転んで、そして、無意識に額に触れ、その熱を思い出した。
・・・電話、しても、いいか。
だって、僕のおでこにキスするような物好きなんだからさ、アイツは・・・。
・・・いや、今の思考はアウトか。
思考を遮るようにもう勢いで発信ボタンを押して、呼び出し音がして、二回、三回、ああ、お風呂中かもしれないし、寝てしまったかもしれないし、五回、六回、留守電になったら何でもないと言って切ろう、本当に別に用事もなくて、何でもないわけだし・・・。
「・・・もしもし?」
あ、ああ、出た。もういいです、すみません。
「あの、ごめん、お風呂とかだった?別に用はなくて、何でもないから、すぐ切る」
電話の向こうで黒井は笑い、僕は「何だよ」と言った。
「お前が俺に電話かけてるんだって、思いながら、鳴ってんの、見てた」
「・・・す、すぐ取れよ」
「くくっ、出たら、ぱーって逃げてくの。お前、ちっこい野生動物みたい」
あんまり楽しそうに笑うので、僕も笑った。うん、クロと電話するのは、楽しいんだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
電話するの久しぶりだねとか、何の話しようかとか、甘すぎて胃もたれする生クリームみたいでもはや塩を瓶ごとあおりたくなったが、「じゃあ俺の女装の話するよ」と言われ、それはちょっと聞かないわけにはいかなかった。いや、聞き捨てならないという意味で。
「文化祭の出し物でさ、そういうのあるじゃん。男が女の子の格好で、女の子が逆に、男の格好で」
「ああ、ふうん」
僕は文化祭など嫌悪の対象でしかないから、みんなの出し物なんか、ろくにまわったことないけど。
「喫茶店やってさ。その呼び込みとかして、スカートにエプロンで、可愛いって写真撮られて」
「・・・へ、へえ」
「・・・」
「・・・そ、それで?」
「あんま話したくないな」
「えっ、・・・そ、それなら、無理に話さなくても」
「いやそうじゃなくて、・・・ふう、何か、お前にこれ言うの、本当は、ちょっと嫌で」
「い、いいよ、嫌だったら、言わなくて」
「笑ったり、しない?」
「いや、笑わないけど」
「・・・うん、じゃ言うけどさ、俺その頃・・・」
・・・中三だったけど、実は、背が、・・・低くてさ、と、黒井は言いにくそうにつぶやいた。
背が、低い。
僕の目測と、本人が180はないと言っていたことから、今は約178センチと思われる黒井が、中学生では、背が低かった・・・。
金髪ピアスもうまく想像できないが、背が低い黒井も、想像できなかった。
「女子の方が、高かったりもして、・・・だからその女装も、それで可愛いってのもあったんだよね。他のやつは、デカくて、可愛くなんかなかった」
「そう、だったのか」
「高校の、ちょっと前から、急に伸びたんだよね。それまではずっと低い方」
「・・・ふうん」
「ああ、だから高校では何かようやく女子を見下ろせて、それで、あんな、・・・やりたくなったりしたんだ。それまで、出来なかったから」
「・・・そ、そう」
「ねえお前は?いつからそんななの?」
「へっ?・・・お、俺?」
「お前は女子に見下ろされた?」
「・・・女子に見下ろされたことは・・・な、い、けど」
急に話を振られて、脳は慌てて自分の身長についてのリサーチをまとめるけど、本当は、僕の過去なんてあまり楽しくもないし、話したいことでもない。
・・・けど。
藤井の、あの失恋話を思い出した。家庭の話を持ち込まずに、選り好んで楽しい話をしていても、やがては、バランスが崩れる・・・。
「・・・俺は、お前と逆かな」
「え、逆って?」
リサーチは終わっていて、この選択は正しいんだろうかと思いながらも、話し始めていた。
「小学校ではずっと、背の順、高い方で・・・でも別に、運動ができるとかでもないし、目立つのは嫌だったけど」
「・・・ふうん?」
「いや、だって、何か小さいやつの方が運動ができて、俺は何か、でくのぼうっぽい気分で・・・あ、ご、ごめん。言い方が、気に障ったら」
「いいよ、俺たぶんそれだもん。足も速かったしさ。そういや、高校の方が別に、遅かった」
「そっか」
「うん、それで?」
「ああ、あとは中学で追いつかれて、抜かれてったかな。みんなは背と一緒に体格も良くなって、でも俺はただひょろいだけで」
「うん、やっぱり中学では・・・俺、本当はケンカとかだって、してやりたいって思ったこともあるけど、そりゃ、デカいやつとは、できないしさ。はは、うちの中学、わりと不良でさ。病院送りも何人もいて、でも俺はそういうのに参加も出来ないし、あんましいい思い出なくて」
お前の高校ほどじゃないだろうけどさ、と黒井は言った。
一瞬何のことか分からず、うちの高校は病院送りなんていう恐ろしいケンカはなかったぞと思ったが、ああ、いい思い出はないけど、僕の高校時代みたいに、死にたくなるほどじゃないって意味か。
いやいや、中学で背が低かったくらいで死んでもらっちゃ困る、と思ったが、友達がいなくて死にたくなった僕よりも深刻なことではない、なんてことは、まったく言えないだろう。身体のかっこよさに何らかのこだわりがある黒井なら、それは許せないことだった・・・あるいは、そのコンプレックスのせいで、身体にこだわりを持った?
「ま、そういうわけで、俺は中学のことをあんまし話したくなかったってわけ。呼び出されて告白されて、その女子の方が背が高いとか嫌すぎるって・・・そんなことお前に知られたくなかったわけ」
「今言ってるじゃんか」
「いーんだよ。それに今はこうなってて、俺は今のこんくらいでちょうどいいし」
「・・・こんくらいって、身長のこと?」
「うん」
「それって・・・お前が俺のことをほんの少し見下ろすくらいがいいってこと?」
「んー、そう。お前より背が低いのはやだ」
「ああそう。まあ、俺は・・・」
やっぱり、背が高いお前がかっこよくて好き・・・と、言いたいけど。
「え、なに?」
「・・・いや、べ、別に俺は、お前になら・・・見下ろされてもいいよ」
「・・・えっ、そ、それって、えろい意味?」
「は?ど、どうしたらそうなるんだ、そんな変な意味なわけないだろ」
「ええ?わかんないよ」
「お前の方がわかんないよ!」
・・・それからどっちがえろいとかそういう馬鹿な言い合いをして、何とかそのまま勢いで「おやすみ」「じゃあね!」と切ることができ、通話時間は二時間弱。結局そのまま眠ることはできなくて、相手もそうだろうかと思いながら、いたしてしまって、物理的に軽くなったりして。
早く寝ないと明日も会社なのに、いろいろな興奮と充実で眠れない。
電話なら、大丈夫なのかもしれないと、それで落ち着いて、羊を数えた。
黒井の中三の文化祭に、もし何かの拍子で中一の僕が行って会っていたなら、同じくらいか、僕の方が背が高かった可能性もあるのかと思うと、変な感じだった。でも、想像だけでも、見下ろされた黒井は嫌がると思い、すぐやめた。
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