第284話:今日は何の日

 半時間くらいベンチで休んだらめまいもおさまり、また来園客もどんどん西園の出口へと過ぎ去るから、気持ちも落ち着いた。黒井がスポーツドリンクを買ってきてくれて、起き上がった僕の髪を撫でた。・・・あ、いや、埃を払った。

「少し良くなった?」

「うん。・・・もう、平気」

「めまいってさ、どんな感じなの?俺、熱はこないだ分かったけど」

「まあ、端的に言えば、目が回るってやつだよ。俺の場合は、もうちょっと・・・脳みそが斜め下に一瞬ずれる、って感じだけど」

「・・・ふ、ふーん」

「あ、あの、さ」

「うん?」

 黒井が告白した後、熱を出した時のこと。

 あの時、あの畳の部屋で隣に座って感じたことがふいに思い出されて、何だか、今なら言えるかなと、勝手に口が動いていた。

「その、今まで俺、何度も、めまいとか、熱とかで倒れたりして、・・・その度、お前に助けられたり、心配かけたりで」

「・・・」

「あ、いや、何ていうか、・・・改めてお礼ってわけじゃないけどさ、今までいろいろ、本当に、ありがとう」

「・・・今までって、今もじゃん。それに、何ていうか、そういうの込みのお前じゃん」

「・・・え、うん、えっと」

「おはようはよくなったけど、お礼はやっぱ、要らない、かな。お前が喜んでるのは構わないけど、別に、優しさ、とかじゃないし」

「・・・そ、そうか」

「俺がしたいから、してるだけのこと、お礼とか、感謝されるって、何か違うんだよね。だから・・・」

「うん?」

「しいて言えば、まあ、・・・俺の趣味?・・・趣味に口出ししないでくれる?」

 そう言って黒井は笑い、髪をかき上げながら「お前風に言えば、『ほっといてくれる?』」と僕の口真似をした。それが似ているんだか似ていないんだか、僕もつい笑った。


「さて、じゃ、どうしよっか」

 立ち上がった黒井が僕に手を差し出して、いろいろ考える前に、ただ触れたくて、その手を取った。ゆっくり起こされて、ただ嬉しい。さっき、自分の理屈を振り切って黒井に抱きついちゃったから、たぶん、それで、味をしめたんだろう。だって、意外と誰も気にしてないし(たぶん)、黒井は傍にいてくれるし、特にデメリットがなかったんだから。



・・・・・・・・・・・・・・・



 時間は16時過ぎで、動物園を出てゆっくりと公園内を歩き、「今度は博物館来てみたいね」なんて話した。緑が多くて通りの幅が広くて、老若男女いろいろな人がいっぱい歩いている。それでもどこか、新宿の雑踏とは違う上野らしい怪しさみたいなものもある気がした。

「ねえ、どっかで飯、食ってくでしょ?」

「あ、うん」

「どこがいいとかある?」

「え、・・・っと」

 ・・・。

 うん、実は、先日の飲み会の時同様、駅前に何でもあるだろうと思って特に決めてはいなかった。いや、上野駅周辺でこれぞという夕飯と言われても、ろくな指針がなければ何も決められないだろう・・・というのはまあ、言い訳だけど。

「ね、俺さ、急に焼き鳥が食べたい」

「焼き鳥」

「さっきフラミンゴ見たからかな」

「・・・おい」

「はは、まあいいじゃん。適当にあっちの方歩いて、焼き鳥屋を見つけたら入る」

「うん、じゃあ、それで」

 そうして、公園入口の目の前のJRには戻らずに、坂を下っていくと左手にはアメ横というやつ。しかしそちらに入ってみる前に、「あ、もうあった」と焼き鳥屋のチェーン店を発見した。早速入るとまだ17時過ぎなのに混んでいて、店員によると近くにあるもう一軒も満席で、入り口のタッチパネルに連絡先を入れて順番待ちをするらしい。「こんなのあるのか」と驚くと、黒井が入力しながら「え、よくあるよ最近」と言い、ああ、飲み会にいろいろ行っていればこんなことも知るものなのかと気まずくなった。

 それでいったん外に出て、非リア充の無知を晒して恥ずかしかったわけだけど、でも、それだけじゃないことに気がついた。

 ・・・黒井は、僕が知らない飲み会に、いっぱい出ているわけで。

 僕じゃない誰かと僕がいない場所で、酒を飲んで、食べ物を食べて、話をして、盛り上がったわけで。

 それが同期であれ、本社時代の上司であれ、大学の同窓会であれ、何だか無性に、許せないような、そんなのは嫌すぎるという思いにとらわれ、隣にいるクロを、絶対に誰にも渡したくないという気持ちが一瞬で増幅した。

 ・・・<二人の飲み会>や<デート>だって、自分からはしたいとかしようなんて思いもしなかったくせに、ふいに他人に取られた気がすると憤慨してしまう。あの、トカゲにだって嫉妬したくらいだ。

 昔から、自分のものだと言われた途端、他人が触ると怒りだすのは変わらない。でも怒って喧嘩するのも嫌だから、完全に自分で持っておくか、権利放棄して興味もない振りか、どちらか。親の知り合いの子どもが遊びに来て、自分のお気に入りのおもちゃを「貸してあげたらいいでしょ」と取り上げられ、案の定年下の子に壊されて、それなのに文句も言えず一人で泣きながら寝たことを思い出す。ここぞという時に権利が主張できないなら自分の物でもなんでもなくて、結局は誰にも取られない<頭の中>が僕の居場所。大学で民法の所有権と占有権の概念を学んだ時、子どものおもちゃのやり取りだって全部これに従ってくれていたらと本気で思った。結局、きちんとルールがあれば期待も失望もなく、誰かと感情のやり取りをしなくて済む。

 大人になって一人暮らしで、自分の物を誰が取ったの取られたのなんてことはほとんどなくなり、この癇癪みたいな感情も忘れていたけれど・・・告白をされて、所有権の概念がふいにわき出て、いつもの嫉妬がバージョンアップのだろうか?


 しばらく賑やかな通りを見るともなく歩いていると黒井のスマホに連絡が来て、先ほどの焼き鳥屋に戻った。僕はやっぱりあのトカゲの時みたいな気持ちになって、意味もなく周りの店員や客を牽制しつつ、黒井にぴったりくっついて席まで向かった。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 カウンターの横並びに、ハイボールとももタレとかわ塩が来て乾杯。注文もみなカラオケみたいにパネルでするので、店員と話す機会が少なくていい。入り口のパネルの「え、よくあるよ最近」がこのおかしな怒りの発端だけど、うん、パネルは悪くない。こういうのは大歓迎だ。

「あーうまい。食いたかったものがすぐ食えるのうまい」

「うん、上野って本当いろいろあるんだな。知らなかった」

「俺もあんまし来たことないよ。公園もさ、広くて良かった」

 公園や動物園のことを話しつつも警戒モードは解けなくて、後ろを通る男女にピリピリしながらレモンサワーを追加。最近何度も飲んでいるからか、やや酒に強くなってきた気がする。

「でもさ、やっぱ爬虫類だよね。あれは良かったよホント、あんなにいっぱいいて充実した」

「・・・あ、そう。うん、それなら良かったよ。誰かが満足するのはいいことだ」

「何だよ、なんか、お前はそれほどだった?あんなに良かったのに?」

「いや、そんなこと言ってないよ。きっと興味深い生物群なんだと思うよ」

「きっと?きっとじゃないよ、生で見たじゃん」

「見たけど・・・えっと、その、説明書きをしっかり読めなかったし、やっぱり人がいっぱいいて、俺はその、人が通ると遠慮したりマナーが気になったりして」

「ああ、確かに混んでたけど、俺、集中すると気になんないことあるよ」

「・・・まあ、そうだろうね」

「気になるときは気になるけどさ。映画館とか、みんなで観てるって思うとしらけちゃったり、いや、でもみんなで観てるからこそいいもんもあるけどさ」

「そう、だね、うん」

 ちょっと、半分聞いていないのは、黒井の隣に座った男がやや黒井に近くて、頼むからもっと向こうへ行ってくれないか。いや、そっちも男二人で飲みに来ていて、だから寄り添うこともなく適度な距離で喋ってるのは分かるけど、俺のクロには近づかないでくれ。

「・・・ああ、それでさ」

「え、うん?」

「あの・・・」

「うん?」

 そしてあっさりめのピーチウーロンというのが来て、つくねだのわさび焼きだのを追加し、心持ち、黒井がこちらに寄ってくれるよう願いながらまたグラスをあおった。

「あ、ごめん。それで何だった?」

「え、いやその、・・・今日、たのし、かっ、た」

 何だか歯切れが悪いので、あれ、もしかして僕はまた何か大切なことを忘れている?動物園デートのポイントは弁当だったけど今日は雨だし仕方がなくて、それじゃアフター動物園で忘れていること?あ、結局お土産的なものを買わなかった?ぬいぐるみか!・・・え、そうなのか?

「楽しかった、なら、良かったけど・・・?」

「うん、だからさ、たのしかった・・・その、今日」

「・・・うん」

「いやだから、今日、の・・・」

「・・・動物園?・・・ぬ、ぬいぐるみ?」

「うん、それはそうだけど、いや、今日はまだ終わってないけど・・・」

「・・・うん」

「だからその、俺がメールして、そしたらお前が・・・日曜日って、それで」

「・・・」

 黒井からのメールで、そしたら、日曜日。

 <デートしたい>。

 あ、もしかして、「今日のデートは楽しかった」って、そう言ってくれてる?

「あっ、ああ、そうだね、とにかく楽しかったなら良かったし、本当に、楽しかったならそれっていいことだし、それ以上望むべくもないし・・・」

「・・・」

 てっきり「そ、そうそう!」と照れながら返事が来ると思ったのに、妙な沈黙。あれ、全然違った?

 仕方なくまたグラスに手を伸ばし、顔色を窺うと、黒井は少し唇を尖らせて、拗ねていた。

「え、あの・・・?」

「・・・だから、楽しかった、今日の・・・」

「うん?」

「今日の・・・」

 ・・・デート。

 ちらりと、目配せが来る。

 ・・・もう一度。

 ・・・え、「今日のデート、楽しかったね」って、俺に言わせようとしてる?

 い、いや無理無理、こんな場所で無理、人がいて無理、いや、実際には人がいなくても無理。デートと頭の中で発音するだけで体力が消耗して、でもようやく麻痺して慣れてきたのに、口に出して発音とかはまだ無理だよ。デ・・・デまでしか無理。トにはたどり着けない。

「ちょっと待ってクロ」

「な、なんだよ」

「俺には無理だよ」

「何が無理なんだよ」

「い・・・言えないよ」

「・・・え、じゃあ今日は何したってわけ」

「・・・だ、から、・・・動物を、見た」

「・・・」

 黒井は目を閉じて自分のグラスをあおり、気持ち、僕から離れて向こうの男に近づいた。あ、おいおい、そっちに行くなよ。いや、でもデまでしか言えない・・・いや、デすらも言えてない俺じゃだめか。

「わ、わかったよ・・・た、ただその、口が、渇いてるから、飲み物だけ飲ませて」

 わけの分からない理屈で時間稼ぎをし、ピンク色の発音をするならと甘そうなファジーネーブルを注文する。うん、ファジーネーブル程度ですら甘ったるくて言えないから、パネルの注文は本当に便利だ。いや、むしろカシスミルクだのはちみつレモンだの、声に出して注文した方が練習になるのかもしれないが。

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