第321話:その夜

 背後から「いたいた、黒井さーん、山根さーん」の声が聞こえ、女性二人がやってきた。「どこ行ったかと思った。こっちよく見えましたー?」と島津さんが笑いかけるが、僕たちの泣き顔に気づき、表情がみるみる戸惑う。黒井がふとこちらを見て、そして目を伏せるので、何となく僕が説明する。な、何だ、告白してましたなんて言えないぞ!

「あ、すごくよかったよね」

「え、ああ、よかったです・・・けど」

「そ、その・・・ちょっと感動しちゃって・・・は、恥ずかしいな」

「・・・お、お二人とも、感動して泣いてたんですか!?」

 島津さんと佐山さん、そして僕と黒井がそれぞれ顔を見合わせ、照れ笑い。い、いや、嘘は言ってない。そうだろ?クロ。

「なんか、黒井さんはそんな感じですけど、山根さんは意外ですねー」

 佐山さんが目を細め、微笑ましいと言わんばかりににこにこうなずく。普段なら何か取り繕いたいところだけど、もう言葉があまり出てこないし、そして取り繕う必要もないかと思った。

 ・・・そしてふいに、もう全てを普通に言ってしまいたいような衝動が腹から胸にわいてきたけど、でも、せっかく花火の余韻に浸っているのに、わざわざ「えー!?」と彼女たちを混乱させる必要もないか。・・・っていうか、そもそも、隠してなくて、だからバラす必要もない、で、いいんだ、きっと。

「そうじゃないよ佐山さん、こいつは・・・クロは花火と音楽で勝手に涙腺が緩んだだけで、俺は本当に感動してた・・・こ、こんな、花火のショーとか、初めてで、すごくよかった」

「・・・そうなんですか?わあ、それじゃ、来てよかったです」

「・・・うん。こんなことでもなきゃ来ないから・・・ありがとう」

「っていうか涙腺が緩んだだけって、何ですか黒井さん?」

 島津さんが訊くと、黒井が「いや、っていうか・・・やまねこの説明が悪いよ」と反論し、僕が「いや、さっきそう言ってた」と返す。「感動してないって言ったわけじゃなくて」「感動とは違うところで涙だけ出るんだろ?」「お、お前なんか夢中で、俺のこと忘れてたくせに」「あ、いや、それは・・・」で、佐山さんが「ほらほら、けんかしませんよー!」。


 この後は、ワンス・アポン・ア・タイムというショーが始まるらしいが、シンデレラ城の前でないと見えないらしく、残念ながらもう人でいっぱいらしいとのこと。黒井が「じゃあそれをバックに帰ろうよ。贅沢じゃん」と言い、しかしその中でアリスもあるらしいと聞くと「え、じゃあ観たい」、しかし横からだとよく見えないと聞くと「じゃあ帰ろ」で、結局ゆるゆる歩きながら出口に向かった。


 こうして、僕たち四人は東京ディズニーランドを後にした。



・・・・・・・・・・・・・



 ディズニーの大きな袋を持った人だらけの京葉線、その名残のままちらほらお仲間がいる中央線、そしてあっという間に新宿に着いて、お別れになる前に、島津さんがお土産の中から袋を一つ佐山さんに渡した。

「あのね、これ、ミニーちゃんのベビー服。よかったら」

「え・・・ゆきちゃん、いつの間に」

「うん、まあ、ね」

「あ、あの、私、そうだチケットのお金も払ってない・・・」

「いいのいいの、ちょっと早いお餞別。ね?」

 少し泣きそうな雰囲気になってきている佐山さんに、「そうそう、みんなから、感謝の気持ち」と僕はちょっとくさいことを言い、「ま、クロが発端だけどね」なんて付け足した。

「ああ、そうですよね。まさかそれでほんとにみんなでディズニー行っちゃうなんて」

「ほんとだ、俺ら、朝待ち合わせたって、嘘みたい」

「すごい、素敵な思い出になりました。みなさんほんと、どうもありがとうございます」

「そんな、何か、うるっときちゃう。まだまだ、一ヶ月以上あるんだし、お別れには早いんだからね」

「うん、もうちょっと、・・・もっところころしてきちゃうけど、よろしくお願いします!」


 それから島津さんが「こっちからでも帰れるから」と佐山さんと同じ方面に向かい、僕と黒井がJR前に残された。

 女性二人は律儀に一度振り向いて手を振り、僕たちも振り返す。

 何となく、見えなくなるまで見送って。

 「・・・行こっか」「・・・うん」で、京王線に向かった。

 お土産袋もパンフレットもポップコーンの容器もない僕たちは、もうディズニー帰りにも見えない、土曜のスーツの二人。

 ・・・ディズニーの話は、さっきの電車でみんなしてしまったし。

 歩き始める僕たちは、無言のまま。

 いつものように、時々肩が触れ合うでもなく、ふつうの距離で。


 そのまま、ただ、来た電車に乗った。

 一言も発することなく、じっと立って揺られている。

 鞄の中に、あの時計があるんだって、そう思ったら嬉しくなった。

 

 そして、一駅、ひと駅、過ぎていって。

 桜上水に、着いた。

 ほんの一秒、目配せされて。

 一緒に・・・降りた。



・・・・・・・・・・・・・・・



 無言のまま、住宅街に二人の靴音だけが響く。

 コンビニに寄ることもなく、互いの顔を見ることもなく、やはり肩が触れ合うこともなく。

 ・・・心臓だけが、叫ぶように、訴えていた。

 ど、どう、なるんだろう。

 まさか、こんな日になるとは、夢にも思わなかったから。

 朝は、本当に、クロが来るかどうかも分からなかったし、まさかディズニーに行くとも思わなかった。そして、もちろん今日僕から告白をするなどとも思っていなかったし、お揃いの腕時計をプレゼントされるだなんて、想像すらしなかった。

 でも、それが全部、今日起こったことで。

 そしてこれから、クロのうちで・・・と、泊まろうとしている。

 ・・・。

 ・・・大丈夫、なんだろうか。

 もう、倒れるだけじゃ済まないことになったらどうしよう。

 寄り道もせず、無言でひたすら歩いてきたら、あっさりとマンションに着いてしまう。

 足を動かしていると当たり前みたいに入り口が近くなってきて、そこに、入る、ことになる。

 一階にいたエレベーターに、そのまま乗って。

 無言のまま、五階で降りる。

 ・・・否が応でも、最初にここへ来た日・・・つまり、忘年会の夜、僕が黒井のことを好きだと気づいたあの夜と重なる。僕だけの間違った片想いだった、はずなのに。

 廊下を歩いて、黒井が鍵を開けて、ドアを開ける。

「・・・おじゃまします」

 つぶやいて玄関に上がり、今日のクロは酔っぱらいじゃないから、後ろからすっと電気をつけ、二人でどたばたと倒れたりせず、静かに靴を脱ぐ。

 カチャリ、と、鍵をかける音が響いて。

 僕が先にキッチンまで行き、また散らかしてるなと横目で見つつ、でも今日は「掃除しようか」なんて言葉は出てこない。

 黒井が後ろから来て部屋のドアを開け、先に入って、テーブルの横に鞄を置いた。

 僕もそれに続き、横に鞄を置く。

 そして、黒井が部屋のドアを、閉じた。

 電気は、つけなかった。



・・・・・・・・・・・・・・



 着替えもせず、ベッドに座り、どちらからともなく、顔を近づけて、キスをした。

 最初は、ふっと、触れるだけ。

 次も。その次も。

 心臓の音が、聞こえるんじゃないかというくらい、ドクドクと鳴っている。

 乾いた唇を触れ合わせるだけのキスが、何度も、繰り返し、ただ続く。

 目は、閉じたり開けたり、もう、よく分からない。

 暗いけど、カーテンがほんの少し開いていて、慣れるとうっすら見えた。

 僕は、その髪に手をやると、指で梳いた。

 黒井も、僕の後頭部を撫で、また、唇を合わせる。

 だんだんと呼吸が速くなり、時折、痙攣するように、僕の腕をつかむ手がきゅっと握られる。それに反応するように、「・・・っ」と声にならない声が漏れ、ついに限界が来たのか、クロが僕を押し倒した。その体重を受け入れようとした瞬間、しかし変な音がして、僕は慌ててその肩を叩いて体を起こした。

「・・・め、眼鏡、忘れてた」

 胸ポケットの眼鏡が軋んだのだ。告白の時に外したっきり、忘れていた。

「・・・お、お前さ、そういうの」

「ご、ごめん」

 手探りで眼鏡をテーブルの上に置いて、・・・で、でも何だか、やり直しというか、仕切り直しというのも恥ずかしく、どうしていいか分からない。

 ・・・って、いうか。

 今していたことと、これからしようとしていることのすべてが、恥ずかしすぎる。

 ・・・この、まま。

 何もなかったかのように、電気をつけて、コンビニに買い物にでも行って、酒でも飲んで寝たら、それはそれで、済むんだろうけど。

 ・・・そうしたい、とは思わなかった。

 キスの続きがしたい。

 僕はクロと、もっと、キスしていたい。

 

 そう思ったら、まるでそれに応えるかのように、座ったままもう一度それは始まった。また最初から、何度でも。何だか、いつも「クロって誰だっけ」「この人は僕の何だっけ」とリセットされてしまう僕の頭のことを思い出す。でもこうしてクロは何度でも僕の前に現れてくれて、会うたびに関係は少しずつ進んでいって、そしてとうとう僕はここまでたどりついた。

 クロの唇は僕の唇とその周りを探るようになぞってまわる。僕もその肩に手を置いて、唇でやわく食むようにクロの唇や皮膚を感じとる。お互いの息がかかり、もう目は閉じたままで、世界にはクロしかいない。

 でも、一瞬あの黒い腕時計の、丸く艶やかな文字盤のガラスと、それに対して少し細めの革ベルトが脳裏に浮かんで、たぶんそこから、十時四十七分に砕けたものも思い起こされて、瞬間的に、僕の中の何かが弾けた。

 もう、今までと違う。

 別の時間軸が、始まっている。

 もう、・・・僕はもう、クロに、好きだと告げていい。本人にそれを打ち明けて、いいんだ。

「クロ」

「・・・ん」

「あの、俺、・・・好きだよ、クロ」

「・・・う、ん」

「ずっと、ずっと好きだった。抱えきれないほど、殺しそうなほど、本当にずっと好きだった」

「・・・」

「お前には迷惑だろうってずっと思ってた。お前は、自分を助けてくれる親友を求めてるのであって、・・・こんな、想いを、求めては、いないだろうって」

「・・・」

「もう、言っちゃったよ。・・・クロ、お前のことが好きだって、俺、言っちゃった・・・」

 思いきりうつむいて、また泣いてしまいそうな気配。でも、その前に上向かされて、再び後ろに、今度はゆっくりと倒された。



・・・・・・・・・・・・・・・



 横たわってしまったら、キスの、その先・・・を、勝手に身体が想像した。そりゃ仕方ない。・・・そりゃ仕方ないよ。

「・・・クロ、・・・その」

「・・・ん」

「あの」

「・・・」

 僕はちょっと顔を背け、何て言ったらいいか、言いあぐねる。

 僕の好き、は・・・受け止めてもらえたみたいだけど。

 キスの、その先。

 最後までしたら、焚き火が消えちゃう・・・プラトニックな狼は、どうなったのか。

 もう一度「・・・その」とつぶやくと、黒井は本格的に僕の上に乗ってきて、惜しげもなくその熱いものを僕に押しつけつつ、「・・・だから」と耳元に。

 身体中が痺れて、この体重、この質量のこの存在にもうすべて、蹂躙されたくなる・・・けど。

 言いたいことは、それとなく、伝わったみたいだった。

 クロの答えは、「・・・ごめん」。

「・・・」

「・・・やっぱりまだ、わかんない、から・・・」

「い、いいよ、その」

「だから、・・・キス、だけ」

「・・・う、ん」

「ずっと、一晩中、キス」

「・・・っ、ず、ずっと?」

「うん、ずっと。・・・俺とキス、したくない?」

「・・・したい」

 もう遠慮なく舌が入ってきて、その背中に手をまわして抱きしめたら、何も考えられなくなった。言葉をはさまない身体だけのやりとりは直接的で、定義や意図を再確認する必要もなく、そして息遣いや手の動き一つで伝わるスピードも速い。きっと僕には不慣れなやり取りだけど、そこには正解もなくて、ただ感覚があって、そしてその感覚を隠さなくていいことに戸惑い、しかしやがて、隠さないことが快感になっていった。

 僕がいて、クロがいて、愛し合っている。

 ・・・気持ちよすぎるだろ、こんなの。

 時折、快楽が滝のように降ってくる。それを浴びると喉が震える感覚があって、たぶん声を出してるってことだろうけど、自分で聞こえない。クロが「静かにしろ」と言わないから、もうみんな任せた。僕がどうなってるのか、自分で制御していない、しようともしていない。


 少しして、ベルトのバックルが痛いので手をかけたら「・・・っ、ねこ、あの」と焦った声で止められ、「違う、痛い」「ああ」でお互い自分のベルトだけ外して、またキスに戻った。今度はもう、一瞬でも口を離していたくないって勢いで、なりふり構っていない。・・・下半身の欲望まで全部こっちに振り向けてるんだから、もう恥ずかしがっている余裕もない。


 ・・・どれくらいそうしていたのか、時間は分からない。

 何度目なのか、黒井が流し込んでくるその液体を飲み込む。腰の動きと重なって、まるであれを飲んでいるようで・・・お前ってえろいやつ。

「・・・二度と、しないって、・・・言った」

「・・・え?」

 僕はあの時のキスを思い出していた。・・・ざ、座薬を挿れられて、寝る時に、されたキス。

「こんなキス二度としないって。健全すぎるって」

「・・・」

「・・・もう、・・・いい、の?」

「・・・うん。・・・たぶん、『おはよう』が言えた頃から、俺は変わってた気がする。もう健全でいい」

「・・・そ、っか」

「あの、階段で、あの時、本当に俺の気はもう済んだ。もういいって思えた。そしたら何かね、今は地に足がついてるっていうか、<ここ>でいい、<ここ>にいるって感じなんだよ。・・・何でそう思えるのかは分かんない。・・・こんなこと思ったら負けだって思ってたはずなのに、でも、こんなの、なんにも負けなんかじゃないよ」

「・・・そっか」

「ディズニー行ってお前に好きだって言われて、俺んちでキスしてて」

「・・・」

「・・・あと、は」

「・・・うん?」

 ・・・あとは、最後まで、すること・・・かと思って、ちょっと身を固くしたけど。

 そうじゃ、なかった。

「俺、実は・・・お前としたいことがある」

「・・・ん、なに」

「あのね・・・」


 俺、実は・・・お前と・・・。

 ・・・キャンプしたいんだ、と黒井ははにかみながら言った。


 「キャンプ?」と素っ頓狂な声で訊き返したら、「テントの中で、ランタンの明かりで・・・一緒に素粒子の本読んで、<アトミク>をやろう」と、誘われた。

 ・・・。

 <アトミク>の、やることは前と同じだとしても、・・・目指すものも、したいことも、違うのは、分かった。

 クロは、失ったものを、新しい形で、得たんだ。

 ここで、この生活の中で、ドイツでも深海でもなく、<ここではないどこか>へ行くことなく・・・夢物語でも絵空事でもない<やりたいこと>を、見つけたんだ・・・。


 僕の返事は、もちろん・・・「上等!」。


 あとは、抱き合って笑って、もう一回キスをして、また涙が出てきた僕の頭を黒井が撫でた。毛布をかぶり、山猫の耳が生えている辺りを指で毛繕いのようにされていたら、気持ちよくて眠くなって、一晩中キスは、出来なかった。

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