36章:海外ドラマと可視化された幻覚世界

(見たがる黒井とやっぱり見せたくない僕)

第297話:ドリアとジュラルミンと、お守り

 九月二十五日、木曜日。

 昨夜、レストランを出てキスをした後は、二人とも逃げるように帰った。今朝のキャビネ前でもその唇は見られなくて、顔を背ける。気まずくて頭を掻くけど今日は同じシャンプーの髪ではなくて、それを思ったら急に体が重くなり、まだ朝なのにどっと疲れた。

 金曜日も相変わらず、頭のてっぺんから足の先まで自分の身なりというかスタイル(スタイル・・・?)が野暮ったく思えて、外回りでビルの窓や何かに自分の姿が映るたび、ため息。それで帰社して、自席に座ってしまったら三課まで歩いていけなくなってしまい、結局コーヒーに誘えなかった。


 土曜日。

 ・・・ドリアのレシピを調べている。

 あの店で、黒井が好きだと言ったから。・・・僕が作るものの味を忘れてきたなんて、言うから。

 調べたところ、ホワイトソースというのはバターと小麦粉と牛乳で出来ているらしい。それらを、全部、・・・フライパンで焼く?ああ、溶かしバターに小麦粉を混ぜて、ダマにならないよう気をつけながら、牛乳を加えたらどろどろになり、それを更にオーブンで焼くという手順か。

 ・・・これから、作ってみるか?

 会社帰りならともかく、土日に私服で会える気がしなくて、もちろん何の約束もしていない。交際中の人間としては失格なのだが、ドリア作りに費やすなら許されるだろう。・・・たぶん。


 土曜の午前中はスーパーも空いているので早めに行き、バターと牛乳と、玉ねぎとむきえびを買って帰宅した。


 そして。

 ・・・いやいや、バター、使いすぎだろ。

 実際やってみると、尋常でないバターの量だった。こんなの、何回か練習していざ大盛りを作るとしたら、200グラムじゃ足りないかも。そんなに摂取して大丈夫なのか?

 そして小麦粉を入れたらレシピの忠告通り完全にダマになり、え、ならないようにって、無茶言ってるだろ。火が強かったのか?入れ方が雑だった?

 それらを牛乳でごまかすと、匂いは何となくそんなような、でもあのどろどろっぽさとは違うような、うん、練習して正解だ。

 そして、オーブン。

 ・・・だから、グラタン皿、っていうか耐熱皿というのが、ないんだって。それも買ってくるべきだった。オーブン機能なんてほとんど使わないから、どの皿でやると何が起こるのか(溶ける?割れる?)よく分からない。プラスチックは完全にNGだろうが、マグカップとかなら?

 

 そして、もう一度レシピを確認し、チーズを買い忘れたことを思い出した。

 ・・・でも、また行く気はしない。

 皿もないし、今日は諦めよう。

 戯れにネットサーフィンをして、そういえばギャルソンっていったいどういう意味なんだろうと検索してみた。ああ、フランス語なのか。元は少年という意味で、慣習としては男性ウエイターを示す・・・ふうん。

 ドリアになるはずだった半端なホワイトソースは、結局ただパンに乗せて食べた。一生懸命思い出しても、あのシーフードドリアには程遠すぎて完全に別物の味だった。


 九月二十八日、日曜日。

 もうすぐ九月も終わりだ。 

 そうしたら下期だし、その後は一気に過ぎて、今年もあっという間だろう。

 黒井と会って、僕の人生が変わって、もうすぐ一年。

 昨日と同じ時間、同じ道のりでスーパーへ歩きながら、空など見上げた。

 

 いつも買うプライベートブランドのものではない大手メーカーの烏龍茶が安売りをしていて、これって生活用品グレードアップ作戦的にはどうなんだろうと思いつつ、まあトイレットペーパーより短い単位の消耗品だからいいやと思って二本カゴに入れた。昨日買い忘れたチーズその他も買い、店を出る。

 四リットルのビニールはさすがに重くて、重心が右に傾いた。昼間はまだ結構暑く、Tシャツ一丁でもよかったなあなんてふらふらしながら、スーパーを訪れる子連れの主婦たちと、後ろの方でスマホをいじっている部屋着みたいなダンナを見る。うちのクロはこんなじゃなくて、スマホを持って立ってるだけでもかっこいいもんねと思ったが、自分のことは棚上げしていることを思い出し、やっぱりため息。子どもを抱えてベビーカーを畳むママ友たちはそれなりに着飾っているように見えて、僕も意味なく烏龍茶を胸元で抱いてみるけれど、たったの四キロがえらく重かった。四六時中これの世話をしながらオシャレなど、つい真っ先におつとめ品コーナーへ足が向くのを止められないのと同じくらい、オシャレがクセになってしまっているのだろうか?


 帰ったらちょうど配達の人が来ていて、頼んでおいたドライヤーを受け取った。

 パッケージや説明書には、潤いのある美しい髪を手に入れてうっとりと目を閉じている女性の画像が多用されており、ああ、「なりたい自分になる」というやつなんだろうと思い当たった。

 ・・・分かってる。

 僕にはセンスがないというより、この身体と見た目に関して、主体性がないんだ。

 自分のものだと、あまり、思っていない。

 どこかの星で動いている、遠隔操作ロボットみたいな?

 そのロボットの実用性や機能性は気にかけなきゃいけないが、見た目のかっこよさなんか、その星でのかっこよさ基準なんか知ったことじゃない。かっこよくないと撃ち落されるというならそれらしい装備を調べてくっつけるが、そうでなければ、やはり興味がない。どうしてそんなもののデザインを僕があれこれしなきゃいけないんだ?

 ・・・それが、自分の身体だとしても?

 ・・・。

 それでもなおやはり、興味が持てなかった。

 黒井は、ジャグジーに浸かりながら、「まず身体があって、それを何かが動かしている」と言ったけれども、僕はまず意識や思考があり、身体は・・・適当にくっついている。いや、本来は身体があって心臓が動いていて脳に酸素が供給されて思考も出来るわけだけど、この身体がイコール自分なんだという認識が希薄すぎて、それ以上の感想が持てないのだ。そしてたぶん、この事態を認識することすら避けていて、だから、鏡も見たくない。だって、自分がそこに映っているなら、僕がこの世に存在してるという意味になっちゃうじゃないか。

 ・・・いや、まあ、存在してるんだけど。幽霊では、ないはずだけど。

 

 夜。

 何だか自分の発言にうすら寒くなり、しかしそれで目を背けると余計に何かホラーな雰囲気になるから、風呂場の鏡も見たし、洗面台でも鏡を見ながらドライヤーを当てた。

 ナノ何とかが効いて驚くほどサラサラになり、ちょっと鏡の前で笑みさえ漏れた。

 でもやっぱり、これ誰だっけ、と思った。

 


・・・・・・・・・・・・・・・

 


 月曜日。

 月曜朝礼で長ったらしい支社長のお説教と激励。まあ、どんなに長くてもつまんなくても黒井の後ろ姿を眺め倒してよい時間が与えられたわけで、ありがたく頂戴する。クロも僕に見られていると意識してるだろうか、なんて考えながら。

 もちろん今日だって、かっこいい。

 しかし何だか、今はもう正式に僕のものなんだと思うと、ふいに誰にも見せたくなくなって、怒りと焦りすら込み上げた。いやいや落ち着け、交際中というのは所有権まで発生するわけじゃない・・・。

 ふと、周りのみんなは本当に会社の業績のことなんか考えているのかなと気になり、ただただ黒井のことしか考えていない僕はそのうちクビにでもなるんじゃないかと思った。そしてクビの理由の欄に<三課の黒井君のことばかり見つめていて仕事をしない>などと書かれたら、甘んじて退職するしかない。あはは。


 そしてジュラルミンの時間になり、裏口へ。

 顔見知りの配送の担当者が来て、受領のハンコを押す。さっきのお説教やクビの想像で何となく社内に居づらかったこともあり、初めて、天気や仕事の話などを振ってみた。ちょっと滑舌が悪くてテンポが遅いけど、気まぐれの僕の話に一生懸命付き合ってくれて、少し好感を持った。バインダーの担当欄によると、原西という人だ。

「・・・というのが、あってですね。それで・・・」

 ・・・いや、うん、何だかいろいろ説明してくれるけど、でもこれ、いつまで続くんだろう、原西さんよ。

 話を振った僕にしても、知らない人との会話を上手に盛り上げたり、あるいは上手に終わらせたりなんて出来ないわけで、仕事の相手先なら<買ってもらう>というゴールがあるけど、このちょっともっさりした朴訥な兄さんと、どういうゴールで話をすればいいんだ?

「・・・あ、どうもお世話になります」

 原西氏が急に僕の後ろへ会釈するので振り向くと、のんびり歩いてきたのは黒井だった。

 ・・・うわ、クロだ。かっこいい。惚れる。

 ああ、こうして、僕が別の人と話していて、客観的に営業三課の黒井さんを見ると、やはりこれはえらくかっこいい営業担当者に見えた。申し訳ないが原西氏のちょっと(だいぶ)むさ苦しい雰囲気と比べ、学芸会とハリウッドみたいな差が・・・。

「何かおっそいからさ、佐山さんが見て来いって」

「あ、ご、ごめん。ちょっと世間話を」

「も、申し訳ありません!」

 原西氏まで謝らせてしまってすまないが、僕だって急に交際相手が現れて焦る。・・・こ、これが交際相手!

「あれ、でも佐山さんが・・・お、お前のとこまで来たわけ?島津さんじゃなくて?」

 つい、黒井を原西氏の前で「お前」呼ばわりするのを・・・そしてそれを見せびらかすように言うのを少し躊躇し、どもった。

「ほら、島津さん今日休みだってば」

「あ、そうだっけ」

 ・・・そういえば、九月に休みをもらうとか、言ってたんだった。

「あの、申し訳なかったです。わたくし、それでは・・・」

「あ、すいません。こっちこそ」

 僕が裏口のドアを開けると、原西氏の去り際、黒井が後ろから「のぐっちゃん元気になった?」と声をかけた。

 ・・・え、いや、黒井だって原西氏を知ってるはずだけど、のぐっちゃんって誰だ。

「あ、実はちょっと、・・・あれでですね、その、違う部署になりまして・・・」

「ふうん、そうなんだ。ま、毎日車ってのも大変だしね。お大事にって言っといて」

「あ、はい、あの、機会があればそのように」

「うん、じゃまたよろしくー!」

「あ、はい、それではどうも、失礼します・・・」

 それを聞き終らないうちに、裏口の重いドアがガチャンと閉まる。

 ・・・。

 やっぱり、女性に限らず、誰とでも、いつの間にかタメ口で仲良くなってるんだな。

 そういえば、ずっと前に原西ではなく野口という担当印も見かけた気がする。顔も覚えてないけど、最近来てないだなんて、僕は気づくこともなかった。

 僕は会社のことなんてどうでもよくて、ただひたすら黒井のことばかり・・・というより、むしろ自分のことばかり。

 ・・・クロは、僕だけじゃ物足りないんだろうかなんて、馬鹿なことを思った。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 僕がジュラルミンを持ち、ゆっくりめでオフィスに戻りながら、黒井が「あのさ、・・・おはよう」と言った。あのキス以来あまり喋ってなくて、週明けということもあり、僕はまたゲシュタルト崩壊に陥ってこの人誰だっけと思いながら「お、おはよう」と返す。廊下には誰もいなくて、これは僕だけに向けた挨拶で、僕を好きになってから言うようになった<おはよう>。ああ、顔が赤くなる。

「ねえ、やまねこ」

「う、うん?」

「今度さ、俺たち・・・一緒に、行かない?」

「・・・え、どこへ?」

 あ、何だろう、次の交際活動のお誘い・・・?

「えっと・・・神社に」

「へっ?神社?」

 神社ってデートスポットだっけ?いや、まあそういうところもあるだろう。

「そんで、お守り買おうよ」

「え、お守り?何の?」

 どうも頭がお花畑で、てっきり僕たちが無事に心も身体も結ばれますようにという何かかと思ったら、「それはさ・・・」と顔を見られ、「安産だよ」と微笑まれて、とっさに<身ごもらないよ!男だよ!!>と心で叫んだ。

「あ、あ、安産って・・・さ、佐山さんの、か」

 よかった、ギリギリ理性が働いて、まともな会話を繋げた。

「さっき聞いたんだけど、十一月いっぱいなんだってさ。いなくなっちゃうなんて、さみしいね」

「ああ、産休。そっか、あと二ヶ月なんだ・・・」

 もうすぐ、あのキャビネ前の四人組も解散なのか。

 それは、とても、さみしかった。

 半ば、佐山さんが妊娠しているということを軸に、みんながそれを気遣ったり、社内では公にせず四人だけの秘密みたいにしたりで、そういう連帯感もあった。でもそれなら産休というのもセットであって、これも必然なのか。

 一瞬、社内をかっこいい交際相手と歩いて何だかおかしくなりそうだったが、工程表に山根と黒井のハンコを押す二人のうちの一人として、「じゃあ今度、お守りを買いに行こう」と約束し、お互いの仕事に戻った。

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