第296話:バレエとキンモクセイとキス

 料理を食べ終わって、途中から食後のコーヒーとデザートが来た。洋ナシのタルトとココナツミルクのゼリー。

 黒井の話というのは、中学校からさらに遡った、幼稚園と小学校の話。

 当時やっていて、男は黒井しかいなかったという、バレエの話・・・。

「・・・バレーボール、じゃない方の、バレエ」

「べ、別に、お前が思うようなやつじゃないよ。白鳥の湖とか、そういう」

「・・・ご、ごめん。よく知らなくて」

「なんか、・・・歌のないミュージカルで、ストーリーもあんまりない、みたいな」

「・・・へ、へえ?」

「姉貴がやってたからだよ」

 黒井のあのお姉さんは幼少期からその白鳥の湖じゃないモダンバレエというものをやっていて、実はかなりの体育会系だったらしい。二人が通った幼稚園の、体育館というかホールが稽古場所になっていて、園児から小学生までが通っていたとか。そういえば僕も「ちびっこ体操教室」に通わされた気がするが、体が硬いからいつも最初の柔軟運動で嫌になり、何とか理由をつけてすぐに辞めた記憶がある。

 ・・・ああ、それで黒井は体が柔らかいのか。

 しかし訊いてみると、「違うよ、最初から」とのこと。ああそう。

「それでまあ、幼稚園の子もわりとみんなやってたし、姉貴もその友達もいたし、俺もふつうにやってたんだよね。発表会とかもあって、まあ、幼稚園組のはお遊戯会みたいなもんだけど」

 しかし聞いていくと、近所のバレエ教室で親が見に来る発表会・・・よりも大きい話で、季節ごとの公演の舞台は国立劇場であり、バレエ教室でなく舞踊研究所の何とか流派みたいなものだったらしい。国立劇場といえば、確か外回りの途中で桜田門の警視庁を眺めた時、近くにあったあの馬鹿でかい劇場だろう。

「男の子って俺だけでさ、だから、男の子の役って全部俺がやってたんだよね。幼稚園組のだけじゃなく、その研究所の、大人がやる公演とかコンクールにもみんな俺が出るの。まあ半分は男の子じゃなくて、精霊みたいのとか動物とか、でもちっこくないと出来ない役みんな」

 幼稚園であの国立劇場の舞台に立っていたかと思うと「す、すごいね」の感想しか出ないが、「別に、上手いとかじゃなく、使い勝手が良かっただけだよ」と。

「使い勝手って」

「姉貴もそうだけど、他の子はみんな自分の公演のやつずーっと練習してて、結構厳しくて、俺はそういうのなくて子役オンリーだったからさ。しかも出番はほんのちょっとで、たとえば、桃から生まれた桃太郎の、その生まれた瞬間だけの役、みたいな」

「な、なるほど」

「でも毎回、衣装とか小道具とか、化粧とか楽屋とか、あの感じは好きだったな。手作りなんだよ、小物とかまで全部。ほら、うちのお母さんああいうの凝るし、親父までパターン引いたりして」

「・・・パターン?」

「え、・・・何だろう、あの紙のこと。型紙みたいな」

 僕は家庭科の授業をちょっとだけ思い出し、服を作るには型紙が必要で、そして黒井のお父さんはデザイナーだったことも思い出した。たぶん服の設計図を引くというような意味だろう。

「そんで、プログラムにも毎回、俺だけ特別枠みたいに・・・あのおかっぱ頭の写真が載るから顔も知れ渡ってて、先生たちも、誰だかわかんない大人たちからも、・・・俺は、・・・あっくん、あっくんって呼ばれて、可愛がられてたんだ」

「・・・」

 あっくん・・・と、口には出さずにつぶやいた。おかっぱ頭のあっくん。・・・へえ。

 確か、黒井はお姉さんからは「あーたん」と呼ばれていて、バレエでは「あっくん」。別におかしな呼び名でもないけど、黒井はやはり気恥ずかしいみたいだった。

 ・・・まあ、僕は、クロって呼ぶけど。

 しかし一度言ってしまうと大丈夫になったのか、はにかみながらも、あとは淀みなかった。

「俺がちょろちょろしてるとみんな『あっくん次は何の役?』って、差し入れのお菓子くれんだよね。よくわかんなくてもニコニコ喋ってれば可愛がられて、みんなは怖がってるような先生でも、大先生だって、俺は平気だった。見てないとこではみんな気を遣ってるのが、変なのって思ってた」

 たぶんそれは黒井が五歳くらいの話で、つまり四半世紀も前のことだけど、ああ、そのまんまなんだなと思った。店員にタメ口で親しげに話しかけるのも、気を遣いあう会社の人間関係にキレやすいのも、変わってない・・・というより、基礎がそこで作られた、ということか。・・・はは、僕の基礎と全然違うね。

 食べかけのココナツゼリーが無言でひょいと持っていかれ、代わりにタルトがやってきた。

 僕はありがたくそれを食べ、続きを聞いた。

「お母さんは姉貴の練習とか保護者の懇親とかにかかりきりでさ、俺は一人でわりと自由にしてた。研究所の支部と本部もあって、よく行ってたけど、裏庭みたいなとこで遊んでたり。稽古が嫌になって泣いたこともあるけど、あとはケロッとして、舞台で緊張したとかいう記憶もない。せりふ覚えるわけでもないし、役とか踊りっていってもまあアドリブもきくし、っていうか俺が『いる』ってのが大事なんであって、ライトが当たればそれで拍手だしね」

 ・・・なるほど。

 そうか、きちんとせりふを述べる係でも、踊りを踊る係でもなくて、お前はその存在自体に意味があるって、そういう幼少期だったんだ。テストが満点に近ければ誰からも否定されないだろうって、そういう動機で動いてないんだ。

「・・・って、いう」

「・・・うん?」

「っていう、話」

「・・・えっと、うん」

「だから、・・・バレエ、小学校の真ん中くらいまでやってたけど、俺、幼稚園のとこからは引っ越して、姉貴の通ってた小学校でもなくてさ。電車で通ってたけど、一緒にやってた子とか、研究所のこと知ってる人もいないし、・・・男子に、バレエやってるとか、まあ、言わない、し」

「・・・あ、ああ」

 僕だってバレエと言われたらあの白タイツの王子様みたいのしか浮かばなかったし、小学生なら、からかわれるだろう、きっと。

「・・・背が低かった、ってのに比べて、別に、バレエのことは恥ずかしいとも思ってないし、嫌な思い出でも何でもないけど・・・わざわざ、言ったこと、なくて」

「・・・うん」

「っていうより、・・・あんま、男子の友達が、いなかった」

「・・・そう、か。・・・まあ、そう、なる、だろうね」

 母と姉のせいで女性への抵抗感がないんだと思っていたが、バレエの生徒や先生や保護者まで、あらゆる女性に無条件に可愛がられたゆえのそれだったのか。

 黒井が喉の渇きを癒やすようにココナツゼリーを食べ、ちょうど閉店、というか腕時計を見るともう十時を越えていた。僕は会計をしなくちゃと思ったがそういえばレジというところはなくて、そうこうしているうちに黒井が革の伝票ホルダーにお札をぱたんとはさみ、また視線だけでギャルソンがやってくる。うん、これが噂に聞くテーブルチェックというやつ?

 今日は僕が払おうと思ったのに、しかも先週の蕎麦なんかよりずっと高いはずなのに・・・でも「ご馳走になります」なんてのも変だから、もうここは考えるのはやめた。僕はつい金額のことしか考えないけど、もしかしたら、僕や、そしてあのギャルソンに対して格好をつけたいという・・・そういう何かなのかもしれないし。


 そしてやっぱり恭しくドアが開いて階段まで見送られ、黒井は笑顔の「すごく美味しかった」。僕だってもっと緊張も嫉妬もせず味わえたらよかったと思いつつ、小声の「ご馳走様でした」に「ありがとうございます。またお待ちしております」と返され、うん、悪い気はしない。

 これから駅まで行って、まともに別れられるかはまだ分からないけど、とりあえず僕たちは夜空の下、歩き出した。



・・・・・・・・・・・・・・



「・・・もしかして、こうやって話すと、・・・姉貴は面白くなかったかもね、俺のこと。だってあの人だってソロやるくらいずっと頑張ってて、トロフィーなんか机に置き切れないほどで、でも実力なんか何にもない俺が『あっくん、あっくん』じゃ、本当のところ、『あっくんのお姉さんのさっちゃん』なんて、やってられなかったかも」

 今や黒井の母も、写真の父も、そして確かに黒井に対してちょっと辛らつな姉も知っている僕は「うん、そう、かなあ」などと普通の友達みたいに並んで歩く。頭の半分では、黒井の中学での身長、バレエという習い事、そして男友達が少なかったという「あまり言いたくなかった話」を整理し、いわばその<かっこ悪い>思い出たちがその人生にどう影響を及ぼしたか・・・なんてことを論文みたいに考えていた。

「でも、さ・・・」

「うん?」

 終電にはまだ余裕があるし、ゆっくり、気持ち遠回りで、駅へと向かう。別に、このまま永遠に歩いていたっていいのに。

「俺やっぱ、話して、今もなんか気持ちいいよ。バレエの話、こんなにしたの初めてだし。・・・だけど、・・・これって俺が、話せるかなって思って、自分から話したことで、でもあん時は・・・俺、お前に無理やり、言わせたと、思うから。それって、悪かったかもしれないって」

 あの時、あのサナトリウムの前、あの車の中。

 僕の過去。高校二年と小学二年のトラウマ。

「確かに、まあ理屈の上では、無理やり、・・・だったけど」

 話してしまったら気持ちよくなった・・・なんてことはなかったけど、でもあの出来事は僕に大きな変化をもたらし、そしてたぶん、お前にも影響を与えたんだろう。

「だからその、今更だけど・・・」

 そして、黒井は「ごめん」と小さくつぶやいた。僕は反射的に「謝るなよ」と言った。お前が後から謝るなんて、らしくないだろ。

「人に何かを強要したという点について、その謝罪は受け取る。でも、あの出来事自体を謝らなくていいよ。・・・あれは、何て言うか、きっと俺に、必要なことだった」

「・・・そっか」

「・・・たぶん、きっと、・・・お前にも」

 言ってしまってから、今のは走り幅跳びくらい、踏み込んだな・・・という浮遊感。

 まあ、僕の運動神経じゃ、もしかしたら大したことない距離なのかもしれないけど。

 空き地の横を通るとまたうるさいほど虫が鳴き、黒井が「あ、どっかにある。キンモクセイのにおい」と立ち止まった。

「え、におう?」

「微かに」

 キンモクセイって、何かオレンジ色の花だっけ?

「ふうん、どこだろうね」

「・・・ねえ、ねこ」

「うん?」

「・・・キス、しない?今、ここで」

「・・・」

 え、っと、それは・・・。

 心臓が、急に、速くなる。

 僕たちが立ち止まったら誰の足音もしなくて、今この周りには、虫くらいしかいない。

 迷っていたら、誰かが来てしまう。

 ・・・キス。そんなのしたいに決まってる。

 僕が黒井の方を向くと、その左手が肩に置かれ、身体が近づいた。

 ゆっくり顔が横に来て、耳元で、「お前やっぱり、妬いてた?」と囁き声。

「・・・な、なにが」

「だってあの人、いい人だったのに、お前ずっと不機嫌で」

「い、いい人だったよ」

「・・・そう?」

「・・・うん」

「俺の勘違い?」

「う、うるさいな。・・・妬いた」

 次の瞬間、唇が来て、舌も入ってきた。

 肩の手が頬に上がってきて、指が奥に伸び、僕の右耳を、なぞる。

「んっ・・・」

 舌が、絡まって、熱くて、痺れた。お前の舌の味を覚えてる。俺は忘れてない。

 黒井の手に少し力が入って、その長めの舌が僕の舌を舐めまわしていく。僕はそれに応えつつ、空いている右手を黒井の背中に添えたら、黒井の左手も僕の後頭部にまわって二人の口内はさらに近づいた。

 耳を塞いでいるかのように、そのくちゅくちゅという音が頭の内側に響く。

 まぶたの裏にはもう、この世じゃないような景色が、見えて、きそう・・・。

 もうだめだ。

 もう、・・・無理。

「・・・はあっ」

 目を開けて、宇宙が一巡したかのような、時間の断絶。

 徐々に音が戻り、視界を認識し、地面を感じた。

「い、行く?あの、おれはもう無理だよ」

 黒井がかっこよくキスしてくれたかもしれないのに、裏返ったへろへろ声の僕はもう、足取りすらおぼつかなかった。

「ねこ、お前・・・」

「なに?」

「置いてくなよ。俺だって、無理」

「・・・うん」

「ねえ、言ってもいい?」

「・・・へ?」

 僕はヘタレとか意気地なしとかダメ男とか、何かの罵り言葉を頂戴するのかと思ったが、「俺、やっぱお前が好き」と言われたら、もう、命がいくつあっても足りない気がした。

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