第295話:ギャルソンと、浮気
酒と、お通しっぽい、オリーブ入りのチーズと乾きものが来た。
僕たちは何となく無言で乾杯し、居酒屋や焼き鳥屋なんかと違う本格的な酒が舌の上をすべって、後から喉や胃に熱を感じた。
苦いし、美味いとは思わないのだが、手持ち無沙汰もあってか、僕はちびちびと何度かそれを飲んだ。広口の丸いグラスを口に運ぶたび、冷えた香りが鼻腔をくすぐる。
黒井はメニューを見ながら、「よく分かんないから、お任せにしちゃおうか」なんてつぶやいた。薄暗い照明で、うつむいた顔に影が落ち、表情はよく見えない。
酒の味はよく分からないけど、あのギャルソンが非常に雰囲気のある人物であり、黒井がそれを気に入っているというのは、分かった。僕が評価するのはその礼儀正しさだけど、黒井が評価してるのはきっと、・・・その身体。つまり、体と髪型、ピアス、姿勢、着こなしなど、身体を軸にしたトータルのセンスみたいなもの。
・・・笑っちゃうほど、僕には、ないもの。
ジャズが静かに流れ、ウイスキーの氷がCMみたいにカランと鳴った。
雰囲気に飲まれ、僕の悪趣味な頭が勝手に、黒井とギャルソンの行きずりの恋を妄想し始める。しかも、何回か通ってちょっと常連になって、みたいな恋の過程はさっさとすっ飛ばし、え、もう裸?あんなガリガリでもいいの?むしろあのくらいのが好みなの?
や、やめてよ、・・・ガラス張りの風呂場で、シャワーの湯気と、絡み合う二人の身体。
後ろから抱き付いてピアスを口に含み、その細い腰を押さえて・・・っていや、黒井のそんなの、あんたに入らないだろ?後ろから押し付けられたって、お湯より熱いそれを感じたって、だめだよ、その男と付き合ってるのは俺なんだよ・・・。
「お待たせいたしました」
「・・・っ、はい」
いつの間に、頼んでたんだっけ。
目の前には、鮮やかな生野菜のサラダと、まだじゅうじゅういっている小皿のドリアが並ぶ。僕はとにかくサラダを咀嚼し、黒井は目を細めてふうふうと息を吹きかけながらドリアを食べた。「大変熱いので、気をつけてお召し上がりください」というギャルソンの言葉と先ほどの妄想が浮かび、何となく目を逸らす。しかし「ヤケドするなよ」と声をかけても、「俺、熱いのが好き」と聞く耳を持たないので、もう放っておいた。取り皿に分けてもらった分を後から食べたが、シーフードドリアは冷めていても全然美味しかった。いや、負け惜しみじゃなくて。
食べ終わると次に、僕にはカツレツみたいなもの、黒井の前には白身魚のソテーっぽいの、そして小さなカゴに入ったパンが来た。何か説明されたけど、横文字ばかりでよく分からない。
でも、どれも、うちでは出来ないようなものばかり。
食べてみるとどれもソースが凝っていて、つけあわせまでしっかり美味しかった。こんなもの、一品作るだけで面倒だろう。そんなものが、いつ、どのタイミングで注文されるかわからないなんて、考えただけで、料理人なんか無理だ。ちらりと見ると、カウンターの奥のキッチンに立つシェフは無口そうなヒゲのイケメンで(黒井の方が上だけど)、でも、ギャルソンの彼と話す時だけ笑顔が見えた。
・・・二人しか、いないのか?
そんなことはないだろうけど、でも、毎日こうして一緒に店をやって、注文を取って料理を作ってそれを出して、役割の違う相手との信頼でそれは成り立っていて、でもそんなの、<普通>のまま、相手に踏み込みすぎない距離感でやっていけるんだろうか。僕なんか<交際中>のお墨付きを得たって、踏み込みすぎないかヒヤヒヤしているというのに。
「すげー、うまいねこれ」
「・・・あ、うん。本当だね」
「・・・もしかしてお前、妬いてる?」
「そんなわけあるか」
あまりに、棒読みな声が出た。
しかし黒井が言うその対象はギャルソンでもギャルソンとシェフの関係でもなく、料理のことだった。
「そういやさ、お前の作るもの、しばらく食べてないね」
「・・・そ、そうだね」
「ちょっと、味、忘れてきちゃった」
「・・・」
何だよそれ、え、どういう意味?
・・・・・・・・・・・・・
黒井が水のお替わりのついでにトイレの場所を訊き、「ご案内いたします」と、二人は奥の出口からビルの共用トイレへと消えた。その後ろ姿のツーショットを見て、ああ、黒井の背が数センチ高くて、それはあいつ好みってこと・・・。
数分、経って。
ギャルソンが、戻ってこない。
いやいやまさか、そんなおかしなことがあるわけない。黒井は僕と付き合ってるんだし、浮気なんかするわけ・・・。
・・・う、浮気?
何だそれ。
しかし、浮気などという恋愛用語に恐れをなす僕のバックグラウンドでは、脳みそがしっかりそのキーワードをサーチし、あのみつのしずくの夜の映像が再生された。いや、あれは付き合う前なんだし浮気にはならないと反論するも、僕の罪悪感が<浮気>判定を覆さなかった。
金髪のみーちゃんが僕にのしかかり、Yシャツを強引に剥いで、僕は身をよじってそれに応えるように喘いでいる。この口で「乱暴にして」などと言い、手首は、よりによって黒井のネクタイで縛られ、暗闇で見えないけど、僕のそれが直接握られた。・・・まだ、黒井に直に触れられたことは、ないっていうのに。
・・・触って、くれないんだ。
プラトニック、だからね。
最後までしちゃったら違う。黒井は秋の青空の下でそう言った。焚き火が消えちゃう気がする、だから、身体の関係はなしで・・・。
あのギャルソンとなら、心置きなくできる?
銭湯で僕の裸が見れなかった欲求不満を、思う存分吐き出せる?
違う違う、クロがそんなことするわけない。
・・・でも自分はみーちゃんとしただろ?相手を「代わり」にしたら楽になっただろ?
・・・藤井の失恋話だって、代わりの子にキスして終わったじゃないか。
あの時黒井は、プラトニックでよければと言って僕に交際を申し込んだけれども、別に、他でやらないなんて、言ってないわけで。いっぺんに三人の女の子をセフレにしちゃうようなやつに、どんな倫理観が通じるっていうんだ。
・・・って、いうか、もう。
付き合うって、何なんだろう。
何から何までその規定が書かれたマニュアルを郵送してくれないかな。そしたらちゃんと熟読の上、しっかりと一部の隙もなく完璧に付き合うのに。
・・・・・・・・・・・・・・
入り口からギャルソンが表の看板を抱えて戻り、別の客に「九時でラストオーダーのお時間となりますが」と聞いてまわった。そりゃあそうだ、初見の客と営業中にトイレであれこれなんてするわけがない。
黒井が戻り、閉店は十時だというので追加でデザートを注文すると、おもむろに「ねえ、あのさあ」と。
「え、なに?」
「あの、昨日さ、電話で、話したじゃん。俺の、中学の頃の話・・・」
ふっと、話に合わせたかのように、照明が少し絞られた。気づけば客はもう僕たちだけで、ギャルソンとシェフはカウンター越しに静かに立ち話をしていた。
僕は「・・・うん、それで」と黒井を促したが、そこにはあちらに対するそこはかとない対抗心らしきものがあり、自分でも呆れた。
「何か、ちょっと・・・お前に話して、楽になったっていうか、そんな感じがしてさ。たぶん、無意識に、避けてたんだよね」
「・・・ああ」
「なんか、それかなってのも、ちょっと、あって」
「・・・それ?」
「ほら俺、その、いろいろ出来てた時、・・・空っぽになる前、・・・たぶん、そういう、かっこ悪いとか、見せたくないとか、そういうのは全部なしで、なくて、やってた・・・だから、出来てた、そういうとこ、あるのかもって」
「・・・ええっと」
僕は大急ぎで<浮気>だの<嫉妬>だのを捨て去って、黒井の言葉を拾った。理屈をかき集めて、山猫は仕事を始める。
黒井が、万能感にも似た<それ>を失う前、つまりあの大学の演劇部での降板劇の、前。
万能のそれというのはつまり、<中身>も<身体>もどちらも万全に揃った状態を指すんだろう。その頃黒井は既にその身長を手にして、中身もあって、順風満帆だった。そこにはもちろん、過去の身長コンプレックスなんか入る余地はない、いや、敢えて入れず、無意識に排除していた・・・。
中学時代を削除した完璧な自分。まあ、そんなの、いるわけないんだ。
何かを選り好みして、敢えて綺麗なものだけを並べても、それはいつまでも続かない。
「だからさ、まあ、自分でもちょっとあれだけど、今まで何か言いたくなくて嫌だったのに・・・ちょっと」
「・・・うん?」
「・・・何となく」
黒井は右手のナイフをきらりとかざして、「お前に言ったら、きもちよかったかも」とつぶやいた。
「・・・そ、そうか」
よく分からない動悸が始まって、僕はまたパンをちぎり、カツレツを食べた。それから黒井は「もういっこ聞いてくれる?」と言った。
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