第298話:発熱と知らない電話
九月三十日、火曜日。
面談。
どうやら仮配属の新人とも最初の面談をやるらしく、課長は僕たち既存メンバーには適当な小言と雑談とお知らせ。
それから、ショッキングな通達。
「今度のキャンペーンの予算、下期から四倍ついたから」
「はあ?」
他の会社がどう使うかよく知らないが、予算がつくといえばそれは達成ノルマを意味していて、しかし、消費税増税でもあるまいし、よほどのインパクトがなければ普段の四倍なんて無理・・・。
・・・あ、いつもの嘘予算というか、嘘キャンペーンか。
やるやる詐欺、誇大広告、ザル風呂敷・・・つまりまあ、全て本社から降ってくる単なる<はっぱ>であって、真に受けたら馬鹿を見る。まあ、それであっても、効果がとりあえずマイナスではないから毎年やってるんだろうけど。
それから、例の、新人に最初から営業事務を云々作戦も、マニュアルは配るというものの、ものすごーくおざなりになりそうな雰囲気の話みたいだった。まあ、僕がマニュアル説明をする件は横に置くとしても、営業事務が最初から出来る新人なんてハナから期待してなくて、懇親会やセミナーで女の子たちに愛想を振りまいてもらえばそれでいいんだけど。
そして、とうとう重い腰を上げて新人との同行先のお得意さんを選定し、ゆるそうなご近所さんと、あまりに形式的で何も起こらなそうな堅い会社の二箇所をチョイスした。理知的な飯塚君となら行き帰りの道中も話せそうだけど、女の子と二人だったら嫌だなあ・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・
水曜日。
気分は仕事モードのままで、朝からテキパキと雑事を片づけていると、何しにきたのか、奥の島を訪れる本社のお偉いさん方に挨拶。ふん、軽い会釈どころか完全無視か。別にいいけど。
しかし後から、彼らの帰り際、ぞろぞろと続く列の最後の眼鏡の男性が「どうも、お邪魔しました」とキャビネ前の僕に声をかけてくれ、「とんでもありません、お疲れ様です」と反射的に頭を下げた。やっぱりね、あの眼鏡の人はデキると思ってたんだ・・・なんて、ちょっと眼鏡の親近感でチラ見しただけだけど。
彼のおかげですっかり溜飲も下がり、気分良く外回りへ出た。今日は何やら向こうさんの会議に僕も参加して適宜説明しなきゃならないようだが、エクセルのフローに書いてあることを一応その会社の人(僕のこと)がそのまんま読み上げて、みんなで何となく納得する会だ。
しかし、まったく意味のなさそうなやりとりが一時間半ほど続き、それで結局落ち着くところに落ち着くというのは、最初から全くの茶番なのか、深遠な意味でもあるのか。
少し、キビキビと仕事をこなしていれば、黒井の交際相手としてのこの見た目をカバーできるかのような気もして、そして今日こそは不思議な力で銭湯行きを阻止されないためにも頑張ったのに、今日に限って急ぎの案件が舞い込んだ。何でだよ・・・と腹の中で怒鳴りつつ、しかし、数パーセントは、どうせこうなる気がしてた、とも思った。
メールを打って謝ると、<そっか、でも俺も立て込んでたし>の返事。でも、黒井は僕のメールがなければそれを大急ぎで終わらせて銭湯に行く気だったかと思うと、悔しかったし、申し訳なかった。
先週は、それで、泣かせてしまったというのに。
・・・でも、怒ったって、仕事なんだから仕方ない。
ちょっとだけ物分かりがいいのは、交際という行為が社会的なものであり、そして社会には仕事も存在しており、仕事と交際活動というのが役所と土木業者みたいになあなあの馴れ合いの関係だからだと思った。
・・・そしてちょっとだけ、僕も黒井も、<ここではないどこか>へ行くのはやめて、<残業とデート問題>みたいなものを抱える、そんな社会の一員になってしまったのかなあと、思った。
ノー残の残業申請を出して、時計は21時を越えた。
そして、そろそろ帰れと言われつつ雑談をし、課長の愚痴に付き合って結局22時。
振り向けば、もちろんとっくに黒井も帰っている。
しかし、どこかしら、それだけ大変で緊急性のある案件だったから仕方ないんだと主張したいがための残業だった気もした。
・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっと寒かったからなとか、疲れたよなとか、銭湯に行けなかった罪悪感かな、とか。
少しの違和感は徐々に緊急性を増し、コンビニで温かいお茶なんかを買う余裕もなくなり、もはやぎりぎりで玄関に滑り込んだ。
頭が、割れるように痛い。左の、やや前、いや斜め上?眼球の裏?
とにかくシャツとズボンを脱ぎ、すべてを放ったらかして布団に倒れ込む。おかしいな、最近それほど身体の不調は出ていなかったのに。
四つん這いで体温計を取り、しばらく待って、三十七度二分。うん、分かってる。今は微熱だけど、これからもう少し上がる。今はまだ途中だ。
とにかく目が痛くて、吐き気がして、もう薬を飲んで寝るしかない。
三、二、一でもう一度身体を起こし、這って廊下まで出る。棚から薬を出し、冷蔵庫の烏龍茶で飲み込んだ。つ、冷たい。こんなことなら常温保存にしておくんだった・・・。
布団の中で震えながら、しかし、明日休むわけにはいかない。
アポが一件入ってるし、同行の件をそれとなく取り成さないと女子が来るはめになってしまう・・・。
とにかく寝よう。目覚ましを早くかけて、朝、様子を見よう。
デング熱だの、インフルエンザだのだったら、法定感染症で外出禁止になって、それなら僕にはどうにも出来ないんだから・・・。
手を伸ばしてズボンのポケットから携帯を引っ張り出し、充電器につないでアラームをセットした。これでいい、とにかく寝るんだ、寝ればいいだけ・・・。
少しずつ、すこしずつ、くすりがきいてくる。
痛みがある左目の内側の、その奥の脳みそが、真っ暗で、真っ黒で、全部を内側に引っ張り込んでいく。無限に吸い込んでいって、布団まで吸い込んでしまいそう。やめて、寒いんだってば、どこからか変な音がする、・・・ほら、やっぱり、薬が効きすぎて幻覚幻聴が始まっちゃうんだって。
僕は多分何度かびくりと痙攣し、何度か金縛りに遭い、「ひあっ」と喉から変な声を出して汗まみれで起きた。世界はあらゆるイメージで取り囲まれ、もう選ぶのが面倒だからこっちに来ないでくれ、うるさいうるさい、もう疲れたんだ・・・僕はまともな社会人で会社に通っていて、今や交際相手もいる身なんだから、もう放っといてくれ、僕はこういう世界の住人じゃないんだ・・・。
・・・ほんとうに?
真っ暗な世界で、ぽつんと、小さな少年が立っていた。
少年というか、ほんの男の子だ。
薄い灰色の変な服をまとって、その子は僕に目で訴える。「ほんとうに?」と。
僕は、この子を知っている。
目の上でまっすぐ切り揃えられた前髪。くりくりとした瞳。利発そうな顔立ち。
この子は、<あっくん>だ。バレエの子役のあっくんが舞台でスポットライトを浴びている。
あっくんはすぐ、大きな蛇に飲み込まれて舞台の底へ消えた。そしてそのまま舞台も国立劇場も警視庁も全部消えた。
新しいシャンプーとドライヤーを揃えても、だめなのか?
高い烏龍茶を安く買ってみても、だめなのか?
いや、だめなんじゃない。・・・分かってるだけだ。僕は、結局・・・こちらの住人なんだ。
ほどなくして、「・・・ねこ?」と声がした。
・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・あっくん、・・・違う、クロか」
「な、何だよ、ねこ、寝ぼけてる・・・?」
「お前、灰色の衣装で、蛇に食われたんだ。覚えてる?」
「は?・・・なに、どういうこと?」
「いいから、とにかく、そういう・・・」
「なに、夢でも見たの?・・・え、灰色の衣装で、蛇って、・・・ああ、そういえば、薄い水色の、蛇の精霊の子どもっていう役はやったよ。そういうのあった。くねくねして、上から何か落ちてきて、ちょっと怖かった」
「そのお前に言われたんだ、いや、言われたわけじゃないけど」
「・・・え?」
「俺はこっちに来れない、ごめん、やっぱりごめん」
「何のこと?おい」
「・・・なあ、クロ、ついこないだ俺たち、キスを、して」
「え、う、うん?」
「俺はすごく、気持ちよくて・・・感じたんだよ。本当に」
「・・・そ、それは、俺だって」
「もうどっかへいっちゃいそうで、それで、何かが、見えた気がしたんだ。ここじゃないどこかの景色。きっと忘れてたどこか」
「・・・う、うん?」
「あの場所を知ってるんだ。・・・お前も知ってるはずなんだ」
「・・・あの、場所って?」
「・・・何でもない。ちょっと熱が出ただけで、それだけなんだ」
「おいねこ、ちょっと待てって」
「お前と、そっちの俺は、まともに付き合ってるんだから、そのままそこにいればいいんだよ」
「・・・そっちって」
「それじゃあまた明日。行けたら会社に行く。きっと会いたいよ、俺はお前に」
「・・・、やまねこ」
・・・・・・・・・・・・・・・・
十月二日、木曜日。
何か腹に入れたいけどトーストを食べる気もしなくて、黒井のお母さんからもらった春雨スープを飲んだ。ちょっと舌を火傷したけど、ああ、何だろう、味覚に集中しているうちに、あれ、ちょっと頭痛がおさまってる?
それなら、今のうちだ。
食べた椀と箸をその場で洗い、少し汗ばんでいる下着とシャツを脱ぎ捨て、新しいものを着た。昨日放り出した靴下やYシャツとともに汚れ物はみな洗濯カゴに入れ、黙々と秩序が回復していく。
そして家を出て、電車でだんだん頭痛がぶり返してくるけど、ただ煩わしいだけで、行動できる範囲内にとどまっていた。左目がものもらいみたいに重いけど、何とか、大丈夫・・・。
早く済ませてしまいたくて、朝のルーチンをキャビネ前で一番乗りしていたら黒井が来て、「昨日は銭湯、ごめん」を言う暇もなく、腕を引っ張られた。
「え、ちょ、なに・・・」
腕をつかむ手は強くて、振り返らず、低く「いいから」と、大股でフロアの向こう側へ連れて行かれる。
「え、え、今日、月曜?」
いや、木曜だ。ジュラルミンは来ない、どこへ何しに行くんだ・・・。
そのまま加速をつけるようにぐいぐい進み、あっと言う間にオフィスの端の、裏口のドア。黒井がピッとカードキーをかざし、僕はかざす暇もなく腕を引っ張られ、やがて、ガ、チャン、と重い扉が閉じた。
しんとした廊下、その先には非常階段。
業務用エレベーターは反対側で、こっちはぐおんぐおんという振動もない。
引きずられるように歩いた衝撃で、頭がずきずきした。
連れてきた体勢そのままで僕に背中を向けていた黒井は、急に振り向いて僕の両腕をつかみ、「熱、下がったの・・・?」と。
「う、うん・・・え?」
あれ、話したんだっけ?言うつもりなんかなかったのに。
「やまねこ」
「え、なに?」
「・・・お前、また、違うの?お前じゃないの?」
「は?・・・な、なにが?」
「電話のこと・・・」
「え、電話?電話、したんだっけ・・・」
「・・・やまねこ、俺を置いてかないでよ。勝手にどっか行かないでよ」
「・・・何のことだ?」
「覚えてないんだ。また、俺は、どっかのお前と話したんだ」
「何だよそれ、俺、お前に電話したの?ごめん、いつ?」
「キス、しようよ。そしたら思い出すかも」
「はっ?な、なに言って・・・」
しかし突然黒井は僕の言葉を遮って、「しっ・・・」と聞き耳を立て、次の瞬間には僕を防火ドアの向こうへ押しやっていた。
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