第228話:ドイツの勝利と僕の敗北

 結局、特に何を見るでもなく、ハンズから紀伊國屋に移動した。

 入ってすぐのところに何かの特集の棚があって、小さな画面でPVみたいなもの流れていた。そのまま歩こうとしたけど、ちらりと見えたそのタイトルを思わず二度見して、一瞬黒井のことを忘れて立ち止まった。

 紀伊國屋主催、朗読劇<ドグラ・マグラ>。

 昭和の三大奇書の一つ、夢野久作の<ドグラ・マグラ>を、朗読劇に?

 その淫靡な文庫本の表紙を見るだけで思い出す、あの酩酊感。そう、九相図のことだって確かこれで知ったんだ。美女が死んで腐っていく有様を描いた九枚の絵。こんな偶然ってあるか?・・・まあ、あるか。

「どうしたの?」

「え、あ、別に何でもない。読んだことある本だったから、つい」

「ドグラ、マグラ?」

 あ、べ、別に、怪しい本ではあるけど、気持ち悪くて気色も悪いけど、その表紙みたいなイケナイ本ではないんだ。局部はさすがに黒地の<角川書店>で隠されているけど、それが余計にいかがわしい感じになっちゃってるけど、中身は一応、ミステリなんだ・・・。

「朗読劇か」

「そうみたいだね」

「ふうん、面白そう」

「そ、そうかな・・・」

 こんなの朗読劇にしたって、途中から何が何やら、記憶と現実と妄想が混同してわけわかんなくなると思うけどな。でも、もちろん全文朗読するわけじゃなかろうし、抜粋してアレンジするんだろうけど、こういうのも、原作を元にプロットを立ててまとめたりするんだろうか。

 黒井が、PVに見入っている。

 話というより、たぶん、その、朗読をする役者に。

 つい、こんな未来も、あったのかなと思ってしまう。お前はこういう役者になっていて、こんな、土日にどこも混んでる中でしか動けないサラリーマンじゃなくて、そんなの関係なく全国をまわって、新しい役、新しい出会い、そんなのを渡り歩いていく・・・。

 僕と一緒にイチから作る、出来るかも分からない不恰好な何かより、たとえば、お前の好きな本を原作にして、こういうことをした方が、いいのかな。市販のキットの方が、すぐに、確実にうまく出来る。僕のどうしようもない箱より、お前のブラキオサウルスの方が、どう考えてもいいに違いない・・・。

「俺もやりたいなあ、こういうの」

「・・・そっか。なら」

「ううん、出来たらいいって気持ちは、一応、あるんだけど。でも、羨ましいって、思うんだよね」

「・・・え?」

「一歩引いてるんだ。もう、俺ならこうする、そんなのすぐ出来るって、そうは思ってない。ぼんやり、羨ましいなって、そんだけ」

 それから黒井はゆっくり歩きだして、「お前、変な本読んでるね」と少し振り返った。僕はかろうじて「まあ、ね」と返し、あとは上の空で店内をぶらぶらした。理系の棚で黒井が新刊をいくつか見て、「今日はもういいや」と。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 電車で座って、それとなく、「市販キットで作るアトミク」の方がいいんじゃないかと振ってみたけど、全然違うよと言われた。ほっとして、でもその後、お前の空洞に自分の棲みかを見つけて喜ぶ僕は、本当にパートナーにふさわしいのかと、自戒した。

「だってさ、たぶんもう用意されてる何かを、さ。今だって、うまくやれると思うよ、俺は。うん、別に、出来るよ。でも、出来ても、そんだけだ。どんなにうまくても、たとえ何かで優勝とかしても、どうでもいいし、どうにもならない」

「・・・」

「おかしいよね。前はさ、出来るって思って、出来て、それで満足だった。今だって、出来るって思って出来たならいいんじゃないかって思うけど、・・・<それ>が、ないから、違うんだ」

「・・・でも」

 不恰好な箱で一進一退しているより、表面上だけでも<出来る>ことを何度もやった方が、状態から逆算するように、身体が何かを思い出したりするんじゃないか・・・。

 しかし、お前の見たカタチを元にやってみようとしてるのに、それを僕の<不恰好な箱>に喩えるのもまずいと思って、結局口ごもった。しかし、何となく察したのか黒井は僕の言葉を待たずに続けた。

「いいんだよ。こうやって、自分じゃ、一人じゃ出来ないって思い知りながらやって、・・・もし、行けたらさ、何か、積もってるかもしんないじゃん。そしたら、新しい、・・・もっとちゃんとした、本物の何かに、なれるのかもしれないじゃん」

 言葉を選びながら、・・・それってたぶん、今感じていることを一生懸命僕に説明してくれてるわけで、黒井は膝の上で手を軽く叩いたり、ひらひらさせながら話し終えた。僕はその、<積もっている何か>とは何のことなのか、<もっとちゃんとした、本物の>ってことは、今まで出来ていた時はそうじゃなかったのか、とか、訊きたかったけど、まるで国語の教科書みたいだと思ってやめた。

「とにかくさ、描いて、みるよ。来週、また、やろ?」

「・・・うん」

 桜上水に着いて、黒井はちょっと手を振り、「連休だからさ」と降りていった。僕はそれを見送って、ああ、来週は連休かと思い至った。

 来週の愉しみも、来月の愉しみもあるなんて。

 幸せすぎて、何かあるんじゃないだろうか。



・・・・・・・・・・・・・・・



 帰って昼寝をしたせいで眠れなくなり、三時くらいまで起きていた。

 適当にネットをしていたら、例の、ワールドカップの決勝戦がもうすぐ始まるという。

 ・・・ドイツ対アルゼンチン。

 ああ、ドイツはここまで来たのか。なら、どうせなら優勝してほしい。

 そして、どうせここまで起きてたなら、気になる、か。

 テレビをつけて、でも、見たってルールも試合運びもわかんないし、ネットの実況中継も同時参照。ざっと今までの試合とチームの特色をワールドカップの特設ページで勉強し、同時にサッカーという競技についても少し学んだ。

 ・・・何ていうか、こんな、チェスみたいなスポーツだったのか。

 まあ、僕みたいのが混じったチームでクラス対抗してみたって、こんな戦略的になるはずもない。出たとこ勝負のパチンコみたいなもんだと思ってたけど、本物は全然違ったんだな。

 予習も済んだ頃、いよいよそれが始まった。

 僕のにわか予想では、先に一点入れた方が、勝つ。

 ドイツはブラジルに圧勝して勢いがついてるけど、絶対プレッシャーもそれだけかかってるから、一度崩されたら立ち直るのは難しいと思う。当然アルゼンチンもそれを狙って前半から攻めていくだろうけど、ここで守りに徹することなく前に出られるかが勝負だ。堅実なチームプレイのドイツに対してアルゼンチンは個の魅せるプレーが特徴だというし、メッシなんかに華々しく決められたら、スタジアムも沸くだろう。うん、結構あの、ゴールを決めたときのパフォーマンスなんかも大事なんだな。自分がそこにいると想定したら、声援や雰囲気が与える影響は大きいだろうと思った。そういったところまで加味して、前後半をどう戦うか考えていかなきゃいけないんだな・・・。


 少し眠くなりながら、しかしボールを見つめていたって誰が何をしようとしてるのかよくは分からず、結局ネットばかり見ていた。一、二行で簡潔に表示される解説はまるで株価のニュースのようで、何となく、こっちの方が落ち着いた。

 両者得点のないまま前半戦が終わり、後半戦。

 映し出されたブラジルの夕焼けをしばし眺め、またネット解説に戻る。まったく、僕はこの四次元時空の世界に住んでいないのだろうか?何て不毛な楽しみ方なんだ。

 それでも、画面を更新しながら、一点入れられたら終わりだという思いで緊張し、一喜一憂した。ふだん何の興味もなくても、今この瞬間に、四年に一度のワールドカップの勝者が決まると言われたら、そして、一方が応援している国であれば、気になってしまうのが人情じゃないか。うん、まったく現金なことだ。


 やがて後半戦も終わりに差し掛かり、どちらのゴールもまだない。体力的にはドイツに分があるようだが、それでも全体的に消耗しているわけで、そうすると逆に、全体としての攻撃力が十から六になったドイツより、全体は四でも、体力を温存しているメッシが七なら、単独プレーが得意なアルゼンチンに、それで競り負けてしまう。

 ああ、黒井は、こっちのタイプだったってわけか。

 ドイツに行ってたくせに、堅実なチームプレイは不得意か。

 僕は、ゲームなんかでは絶対にチームバランス優先で、むしろ、ずば抜けたチートみたいなキャラはパーティーに入れず、一度も使わなかったもんだ。だって、そんなキャラを使って勝ってもしょうがないし、負け犬根性が強くて判官びいきな性格だから、最初から強いやつなんかに全然興味ない・・・。

 あれ。

 おかしいな、今だってそれは、変わってないと思うんだけど。

 黒井なんて、まったく、そんなチートなのに。

 何で好きになっちゃったかな。そりゃ、戸惑ってばかりなわけだ。

 一人で突っ走って、パスも回さずゴール決めちゃうようなやつ、好きになるはず、ないのに・・・。


 目で文字だけ眺めて、読んではいない画面には、いつの間にか自分で調べた<サッカー 延長戦 何分>の検索結果。オフサイドも分からないが、引き分けたときどうするのかも知らないのだ。

 しかしウィキペディアを新しいタブで開く前に、解説者の「ゴーーール!」の声が響いた。

 せっかくテレビをつけていたのにその瞬間を見ることなく、ドイツがようやく一点入れ、そのまま延長戦は終了した。ああ、勝った、と安心し、いや、勝つと思ってたよ、なんて一人でうなずいて、布団に入ってほんの少し、寝た。



・・・・・・・・・・・・



「・・・山根君。いや、恐れ入ったわ。ほんまに勝ちよった」

「・・・はい?」

「ドイツ。いや、あの時点では、まさか思わんかった。決勝もドイツ優勢言われてたけど、俺はアルゼンチンやって思ってたもんね。いやあ、何で目えつけてたん?」

「そ、それは、別に・・・」

 ああ、そういえば、僕はドイツが気になりますねとか言っちゃってたんだっけ。今更、ブラジルにすごい点数で勝ったのすらろくに知らなくて、他に一戦も見てなくて、決勝戦だってゴールの瞬間は見てなかったなんて言えないな、あはは。

「しかし、ミュラーはすごい選手やと思うけど、あれ何で人気ないんやろうね。実際ずっと攻めとったし、ボールも一番持っとったんやないかな・・・」

 うん、確かにネットの実況でもドイツで一番多く見た名前がミュラーだったと思う。

 でも、顔もプレースタイルも知らないし、これ以上振られても困るんだけどな。

 そこかしこでも、「眠いよなあ」「休みにしてくれ」なんて声が上がりつつ、全体朝礼が始まった。僕はほっと胸を撫で下ろして立ち上がり、黒井の背中に、「ドイツ、勝ったな」と心の中で呼びかけた。


 朝礼中、電話が鳴って佐山さんが小声で対応し、その後小走りで課長に耳打ちした。課長は片耳をふさぎながら「はい、はい、大変失礼いたしました。ご連絡ありがとうございますー」と愛想笑いで対応し、静かに受話器を置いた。それで僕は、あ、新橋のあれが見つかったんだ、と、それを思い出した。そうだ、サッカーの話題であちこち盛り上がっていて忘れてたけど、それがあったんだ。

 一瞬で少し冷や汗をかいたけど、とにかく、データ紛失とかそういうわけじゃなかったみたいだ。報告書はもう大橋が書いているとのことだし、支社長への報告は課長が握りつぶすと言うし、まあ、一段落だろう。後からちくちく嫌味のひとつも言われるだろうが、これから多少気をつけてチェックすればいいことだ。


 朝礼後、課長に手招きされ奥の島に赴いた。

 データがあったという報告と、以後気をつけるように、みたいなまとめで、終わると思った。

 しかし。

「ここの、作業工程表が見当たらないんですが」

 大橋に問われ、「ああそれ無駄なんで省きました」と言えずに、黙った。

 ・・・そこかい。

 思わず舌打ちしたくなるのをこらえ、考えをめぐらせる。うっかりで通すか、最初から知りませんでしたとシラを切るか、正直に言うか。

 でも、うっかりでは済まない日数それを省いてるし、知りませんというのも、マニュアル作りを見ていたのだから通用しない。

 え、残りは、懺悔だけ?

 台風で飛ばされました、とか、だめか。

「・・・まあ、面倒くさくてやらなくなったのも、分からないではないですが」

 ・・・。

 何だよ、別にめんどくさくてやらなかったわけじゃないぞ。あんなもの手書きで書いたって、一件でも書き間違えればその後の混乱を招くだけだし、それに、たとえそれを真面目にやってたからって、件数の確認だけなら、今回みたいな入れ子のミスを防げたわけでもないはずだ。

 僕はもごもごとそんなことを述べたけれども、しかし、相手が言いたいのはそこじゃないみたいだった。

「・・・まずいんですよ。監査で、工程表がついてないとなると」

 ・・・あっ、そう。

「事前の相談もなく変更されてしまうと、こちらとしても、非常にまずい」

 ・・・ふうん。言ってれば? 

 まずいまずい病再発の大橋を前に、僕は、むしろ開き直った。

 理屈としては明らかに僕に否があって、裁判をしたら負けるだろうけど、深刻な顔で唇を結んでいる小男を前に、何だか馬鹿らしくなってしまった。

 林さんはいつもの調子を崩さず、「監査で来るの、本社の木下さんだっけ。あの人、わりと細かいからね、図体のわりに」なんて笑った。僕はそれで調子づいたけども、「うーん、ちょっとまずいかもねー」とおまけの一言を聞いたら、同じ島の伝染病かと諦めた。

「とにかく、ちょっとお話を聞きます。ああ、でも中山課長はお留守でしたね。三課でやってらっしゃる方は・・・黒井さんでしたか」

「あ、表のことは僕の独断で、彼は触ってないですし、関係ないです。ついでに言えば事務の派遣さんも、一緒に作業はしてましたが、関係ありません。事情を聞いても分からないと思います」

 それは、黒井の名を大橋が口にしたことへの嫌悪感だった。

 もちろん、あいつに迷惑をかけて僕が恥をかき、株が下がるのを必死に防ぎたいという気持ちはある。でも、それより、一瞬手が出そうになるほど、その嫌悪感は強かった。

「いや、別に、派遣さんなんてそもそも関係なくてですね」

 しかし、またもや大橋の視点は僕とずれていた。実際、黒井はたぶんこのことを本当に知らないだろうし、むしろ佐山さんと島津さんは全部知っている共犯なわけだが。

「・・・え、でも元々は派遣さんがやってた部分もありますよ。そもそも関係ないってことはないと思いますけど」

「いえ、そういう、そういう問題じゃなくてですね、派遣さんの仕事をどうこう言ってもしょうがないということですよ。そういうアレなら派遣会社を切ればいいって話ですから」

「・・・ちょ、それどういう意味ですか?さすがに言い方ってもんがありませんか」

「お、おい、まあまあ。言葉尻を捕まえたってしょうがないだろう。実際、社員のお前がやらかしてるんだから世話ないぞ」

 課長が大人の対応で場を取り成した。もしかして、僕がキレて殴りかかると思ったのかもしれない。はは、あのニセ喧嘩の勘違いも、役に立ったかも。

「・・・はい。すいません」

「大橋さんも、ねえ、ここは一つ穏便に、お願いできませんかね」

「・・・いえ、まあ私も、ちょっと不適切だったかもしれません。とにかく、この件については今日からまたマニュアルどおりの作業でお願いします」

「・・・はい」

 すみませんでした、と渋々頭を下げ、場を辞した。

 後ろから「ほら、僕の立場がまずくなるから」と林さんに愚痴る声が聞こえ、回れ右して蹴り倒してやりたかったけど、そのまま歩いた。キャビネ前に三人がいて、僕を心配そうに見ているけれども、いったんは席に戻り課長にも謝った。

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